蟹男|第一章|第七話「夜の囁き」
その夜、海堂は眠れなかった。
窓の外では、夜の海がざわめいている。
満潮に向かう潮の音に混じって、何か別の音が聞こえる。
カチカチと硬いものがぶつかり合う音。
まるで、無数の蟹が海底で踊っているような。
いや、もっと近い。
まるでアパートの壁の中で、何かが這い回っているような──
気のせいだ
でも音は確実に聞こえている。
隣で眠る彩花の寝息を聞きながら、海堂はポケットの中の血に染まった蟹の殻を握りしめた。
殻は相変わらず温かく、時々脈打つような振動を感じる。
彼女は何者なのか
愛している。
間違いなく愛している。
でも、今日から何かが変わってしまった。
いや、もしかしたら最初から──
まさか
磯部老人の言葉が蘇る。
「時々見るんだ。夜の海で、誰かが蟹と話してるのを」
海堂は彩花の寝顔を見つめた。
月光に照らされた彼女の顔は、天使のように美しい。
でも、その唇が小さく動いているのに気づいた。
寝言だろうか。それとも──
耳を近づけると、かすかに聞こえた。
まるで海の底から響いてくるような、不思議な響きの声が。
「お兄ちゃん…待ってて…今度は私が…食べてあげる…」
海堂の血が凍った。
同時に、ポケットの中の蟹の殻が激しく脈打ち始めた。
まるで心臓のように、まるで何かに呼応するように。
呼吸が浅くなる。
部屋の空気が重くなり、圧迫感が胸を締め付ける。
「蟹男」と呼ばれる殺人鬼は、果たして人間なのだろうか。
そして、なぜ彼女は「彩音」と名乗ろうとしたのか。
窓の外で、海が不気味に唸っている。
その音に混じって、確かに聞こえる──無数の蟹たちの這う音が。
カサカサカサ──
音が近づいてくる。
海堂の長い夜が、始まったばかりだった。
そして彼は知らなかった。
この夜から、すべてが変わり始めることを。
愛する人への疑念が、やがて確信に変わることを。
静寂の中で、時だけが過ぎていく。
第一章 完
潮騒が二人の言葉をさらっていった。
その余韻だけが、暗い海に漂い続けていた。
──そして、次の夜が来る。
次回予告:第ニ章「甲殻の記憶」
十五年前の真実が明かされ、彩音の記憶が蘇る。
愛する人の正体を知った海堂──。
次回:第一話「深夜二時の悪夢」
彩音は血の匂いで目を覚ました。
十五年間隠し続けてきた秘密が、ついに暴かれようとしていた──。
前回:第六話「蟹男の誕生」
いいなと思ったら応援しよう!
ありがとうございます😭