耳あり芳一【第三話】白い手③
盲目の芳一と声を出せないミヨが白い手に挑む
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第三話 第三章「およね」
◇
朝靄のなか、波はゆっくりと満ちていた。
気比の浜の砂は、夜露を吸ってまだ冷たく、踏みしめれば音もなく沈んだ。
およねは、小走りに波打ち際を進み、視界の先に浮かぶ小舟の影を探した。
舟は、帰ってきていた。
けれど、鯵吉の姿はどこにもなかった。
◇
「波に呑まれたんだろう。夜釣りはやめろって言われてただろうに」
「舟が残ってるなら、落ちただけだ。探すなら沖へ出てみるか?」
村の男たちは、さして深刻でもなさそうに言い交わしていた。
浜に上がった舟には、釣り竿と餌箱、それから片方の草履が残っていた。
餌は減っておらず、仕掛けもそのままだった。
およねは舟に乗り込み、残された品々を一つずつ手に取った。
そして、舟の舳先のあたりに張り付くようにして落ちていたものに、目が留まった。
――布切れ。
それは、彼女が鯵吉の袖のほつれに縫い付けた、浅緑の縞模様だった。
だが、おかしい。袖から裂けたにしては、こんな場所にあるのは妙だった。
しかも、布の端には微かに焦げた跡がある。まるで、松明の火で焼けたような。
およねは、無意識にそれを指先で握りしめた。
「……見たんだ、火を……あの人は……」
「舟の上で……火を向けて……なにかを、見てた……」
誰に語るでもない呟きが、風に流された。
◇
その夜、およねは眠らなかった。
炭を熾した囲炉裏の前に座ったまま、明かりも灯さず、ただ火の残り香を見つめていた。
何かがおかしい。そう思ったのは、鯵吉が出ていく時の背中を思い出したからだった。
◇
――昔のこと。
ふたりはまだ夫婦になる前、舟を借りて浜を回ったことがある。
およねは海が苦手だったが、鯵吉が舟べりに腰をかけて言ったのだ。
「波はな、怒ってるときほど静かになる。音のしねぇ夜が、一番危ない」
「なら、そんなときは行かないでくれればいいのに」
「ははっ。大丈夫だって。俺が舟の端っこにいりゃ、波は来ねぇ」
そう言って笑った鯵吉の目尻には、潮焼けの皺が刻まれていた。
その顔が好きだった。
波のように不安定で、どこまでも遠くへ行ってしまいそうな人だったけれど、
自分にだけは帰ってきてくれると、信じていた。
◇
その夜半、およねは立ち上がった。
戸を開け、浜へ向かう。
そこにはまだ、鯵吉の舟があった。
松明を一本と、数珠をひとつ。
鯵吉が祭りの日に買ってきた、白木の数珠。
およねはそれを懐に入れ、舟に乗り込んだ。
「……待ってて。すぐに、迎えに行くから」
◇
海は、静かだった。
星のない空の下、松明の火だけが頼りだった。
舟隠し岩が近づいてくる。
闇のなかに、黒々と浮かぶその巨岩は、まるで息を潜めた獣のようだった。
舟をくぼみに寄せ、綱を岩に結び、松明を掲げながら足をかける。
潮の香りが濃い。
風は吹かないのに、髪がなびいた。
不意に、岩の隙間に白いものがちらりと覗いた。
……指先。
およねは思わず近づく。
その白い指は、細く、女のもののように見えた。
岩の隙間に差し込まれるように伸び、動かずに止まっていた。
そのとき。
「……およね……」
声がした。
間違いない。鯵吉の声だった。
「鯵吉……!」
およねは叫びながら振り向いた。
岩の上に、男の影が立っていた。
裾の破れた衣、潮で硬くなった髪。
――でも、その背中は、どこかおかしかった。
重ねた皮のように歪み、ぬるりと光を反射している。
それがゆっくりとこちらを向いた。
鯵吉の顔。
……だが、その目には、なにもなかった。
次の瞬間、足元から冷たい感触が這い上がる。
およねの足首に巻き付いたのは、ぬめりのある何か。
見下ろすと、岩の隙間から、長く伸びた舌のようなものが這い出していた。
その先には、あの白く美しい手――。
「……うそ……やだ……」
声が出ない。
松明の火が風もないのに消え、舟隠し岩は闇に沈んだ。
◇
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