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耳あり芳一【第三話】白い手③

盲目の芳一と声を出せないミヨが白い手に挑む


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第三話 第三章「およね」




朝靄あさもやのなか、波はゆっくりと満ちていた。
気比けいの浜の砂は、夜露よつゆを吸ってまだ冷たく、踏みしめれば音もなく沈んだ。
およねは、小走りに波打ち際を進み、視界の先に浮かぶ小舟の影を探した。

舟は、帰ってきていた。
けれど、鯵吉あじきちの姿はどこにもなかった。



「波に呑まれたんだろう。夜釣りはやめろって言われてただろうに」
「舟が残ってるなら、落ちただけだ。探すなら沖へ出てみるか?」

村の男たちは、さして深刻でもなさそうに言い交わしていた。
浜に上がった舟には、釣り竿と餌箱えさばこ、それから片方の草履ぞうりが残っていた。
餌は減っておらず、仕掛けもそのままだった。

およねは舟に乗り込み、残された品々を一つずつ手に取った。
そして、舟の舳先へさきのあたりに張り付くようにして落ちていたものに、目が留まった。

――布切れ。
それは、彼女が鯵吉のそでのほつれに縫い付けた、浅緑の縞模様しまもようだった。
だが、おかしい。袖から裂けたにしては、こんな場所にあるのは妙だった。
しかも、布の端には微かに焦げた跡がある。まるで、松明たいまつの火で焼けたような。

およねは、無意識にそれを指先で握りしめた。

「……見たんだ、火を……あの人は……」
「舟の上で……火を向けて……なにかを、見てた……」

誰に語るでもないつぶやきが、風に流された。



その夜、およねは眠らなかった。
炭をおこした囲炉裏いろりの前に座ったまま、明かりも灯さず、ただ火の残り香を見つめていた。
何かがおかしい。そう思ったのは、鯵吉が出ていく時の背中を思い出したからだった。



――昔のこと。
ふたりはまだ夫婦になる前、舟を借りて浜を回ったことがある。
およねは海が苦手だったが、鯵吉が舟べりに腰をかけて言ったのだ。

「波はな、怒ってるときほど静かになる。音のしねぇ夜が、一番危ない」
「なら、そんなときは行かないでくれればいいのに」
「ははっ。大丈夫だって。俺が舟の端っこにいりゃ、波は来ねぇ」

そう言って笑った鯵吉の目尻には、潮焼けの皺しおやけのしわが刻まれていた。
その顔が好きだった。
波のように不安定で、どこまでも遠くへ行ってしまいそうな人だったけれど、
自分にだけは帰ってきてくれると、信じていた。



その夜半、およねは立ち上がった。
戸を開け、浜へ向かう。
そこにはまだ、鯵吉の舟があった。

松明を一本と、数珠じゅずをひとつ。
鯵吉が祭りの日に買ってきた、白木の数珠。
およねはそれを懐に入れ、舟に乗り込んだ。

「……待ってて。すぐに、迎えに行くから」



海は、静かだった。
星のない空の下、松明の火だけが頼りだった。

舟隠し岩が近づいてくる。
闇のなかに、黒々と浮かぶその巨岩は、まるで息を潜めた獣のようだった。
舟をくぼみに寄せ、綱を岩に結び、松明を掲げながら足をかける。

潮の香りが濃い。
風は吹かないのに、髪がなびいた。
不意に、岩の隙間に白いものがちらりと覗いた。

……指先。

およねは思わず近づく。
その白い指は、細く、女のもののように見えた。
岩の隙間に差し込まれるように伸び、動かずに止まっていた。

そのとき。

「……およね……」

声がした。
間違いない。鯵吉の声だった。

「鯵吉……!」

およねは叫びながら振り向いた。
岩の上に、男の影が立っていた。
すその破れた衣、潮で硬くなった髪。
――でも、その背中は、どこかおかしかった。

重ねた皮のように歪み、ぬるりと光を反射している。
それがゆっくりとこちらを向いた。
鯵吉の顔。

……だが、その目には、なにもなかった。

次の瞬間、足元から冷たい感触が這い上がる。
およねの足首に巻き付いたのは、ぬめりのある何か。
見下ろすと、岩の隙間から、長く伸びた舌のようなものが這い出していた。
その先には、あの白く美しい手――。

「……うそ……やだ……」

声が出ない。
松明の火が風もないのに消え、舟隠し岩は闇に沈んだ。




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