耳あり芳一【第三話】白い手①
盲目の芳一と声を出せないミヨが白い手に挑む
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第一章「舟隠し岩」
◇
地獄の門が、あの夜、気比の浜に開かれるよりも、ずっと前のことである。
あの百本の矢が空を裂き、怨霊がひとつの地に集わんとする気配もまだなく、浜辺にはただ、波と風とを分かつように白鷺が舞っていた。
気比の浜より西に、岩が連なる岬がある。
村人はその先を舟隠し岩と呼び、潮の干満とともに現れたり沈んだりする奇岩のひとつをそう名付けた。
岬はふたつの断崖を跨ぎ、そこからの眺めはまことに美しい。晴れた日には但馬の岬まで霞むように見え、風がなければ海面が鏡のごとく波を映す。
岩と岩のあいだには、夜になると潮の音とは別の音が聞こえると言われていた。まるで誰かが、か細く、何かを呼んでいるような、そんな声。
だが、誰がそれを真に受けようか。
村の者は皆、あれは潮の音だと笑い、釣り場として重宝していた。
舟隠し岩では、よく大物が釣れた。太刀魚、真鯛、黒鯛。あのあたりは海底が複雑に入り組んでおり、魚が集まりやすいのだと、漁師たちは口を揃えた。
けれど、かつてこの岩場を「忌み場」と呼び、子に近寄らせなかった時代があったことを、今ではほとんどの者が知らない。
あるとき、浜の老人が、囲炉裏を囲んだ子らに語ったという。
それはまだ、風が正しく四季を運び、夜の海が暗くとも温もりを感じさせた頃の話。
◇
――むかし、若い娘がひとり、舟隠し岩に身を投げた。
名を「うた」といった。
うたは、この村に生まれ育った漁師の娘だった。
明るく、物静かで、海を恐れず、男たちに混じって舟を漕ぐことさえあったという。
そんなうたの前に、ある日、戦に破れて流れ着いた一人の男が現れた。
平家の若武者。名も名乗らず、髷もほどけ、袖も引き裂かれていたが、その面差しは凛とし、落ち武者のものとは思えぬ気高さがあった。
うたは彼を匿った。
身を潜める岩陰に食を運び、衣を洗い、言葉を交わすうちに、やがて二人は心を寄せ合っていった。
村に知られるわけにはいかず、出会いも別れも岩陰であったという。
だがある夜、男はなにも告げずに姿を消した。
うたは、海を見つめ、何夜もその声を待ち続けた。
潮風に紛れて残ったのは、名もなき恋と、娘の腹に宿った命だけであった。
人は時に、知ることよりも、信じたいことを語る。
誰もが、男は討たれたのだろうと噂した。だが、うたは信じなかった。
彼は必ず帰ってくる――そう信じ、舟隠し岩で松明を灯して待ち続けた。
潮が満ち、月は雲に隠れ、夜の闇が世界を呑み込もうとした頃、彼女は静かに、その身を海へ沈めたという。
死してもなお、うたはその子を産むことを願った。
深き海の底、沈む石のように冷えた体のなかで、祈るように、願うように、その命の火を絶やさぬよう守り続けた。
だが、命は尽き、腹の中の子は生まれることなく朽ち果て、その想いだけが岩と潮に染み入り、やがて深き怨念となった。
それが、舟隠し岩にすむものの始まりだ――と、老人は言った。
“それ”が何か、名はなかった。ただ、声が残った。
「こちらへ……」
「さむいの……」
夜の海に立つ者に囁く声。
そして、ぬらりと現れる白い手。
その手を掴んだ者が、どうなったか。
老人は語らなかった。
いや、語る必要がなかった。火が揺れるたびに、子どもたちは身を縮めた。
その手は、白く、若く、どこか母のような温もりを帯びていた――と、最後にそう呟いて。
◇
舟隠し岩のことを、本当に知る者は少ない。
海に喰われたのか、何かが棲んでいるのか、それともただの迷信か。
だが、月のない夜、松明を掲げ、磯釣りに向かう男が、ふいに「白い手を見た」と言い残して戻らぬことは、かつて幾度もあったという。
それでも人は忘れる。
噂も語りも、歳月とともに風化し、やがて笑い話になる。
けれど、“それ”は忘れない。
海の底で、いまも怨念を抱き、喰らう相手をじっと待っている。
あの岩の名は、舟隠し岩。
名の通り、舟をも、命をも、隠してしまう場所である。
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