耳あり芳一【第四話】夜桜百鬼祭①
今宵、桜のもとに集うは、百の鬼たち──
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第一章 一乗寺、夜雨の怪
◇
──京、東山。清閑寺の夜は、ひときわ静かに暮れてゆく。
時は春、けれども満月はなく、花は咲けども、風は鳴けども、灯りひとつない暗がりの中。
ただ一つ、満開の枝垂れ桜のもとに、ぽつりと座る女の姿があった。
女は美しい容貌を持ちながらも、その目元には翳りがあり、
膝に抱えた琵琶の上を、細き指がそっと撫でる。
そして──口を開いた。
「ひとつ、お話をいたしましょう。これは、遠き昔のことでございます」
声は艶やかにして、どこか冷たくもある。
まるで夜そのものが語りかけてくるかのように。
「比叡の裾野、一乗寺にまつわる、古き怪異──
今は忘れ去られた話でございますが、聞いて損はございますまい」
女は琵琶をひと撥き──ぽん、と乾いた音が夜気に滲む。
「どうか、お耳を拝借。
──これは、血と骨が語る、“夜叉の声”にございます」
◇◇◇◇◇
さても皆さま、この話は――
丹波と但馬の境、深き山あいにひっそりと佇む、古びた古びた寺の噂にございます。
その名をば一乗寺と申す。
見上げれば杉の木立に包まれ、見下ろせば谷の霧が這い寄ってくる、まこと静かな山の中。
鐘楼は朽ち、瓦は苔むし、参道の石はもはや何段あるかもわからぬほどに崩れており――
それでもなお、そこに宿るは“名もなき声”。
いや、声と申しても耳に響くばかりではございません。
頭の内にじんわりと滲み入り、骨を鳴らすような、それはそれは奇妙なものにて。
風がなくとも木々が鳴る。
枝と枝とが触れもせぬのに、「サラ、サラ」と囁き交わす。
その中に、ふいに混じるのです。はっきりとした“誰か”の声が。
「……もう、よいのだ」
「おれは、生きてしまった」
「沈まねばならぬ者だったのに」
誰ぞが語ったのではない。
されど、誰かがそこにいた。
そんな感覚が、背に、頬に、首のうしろに、ぴたりと張りつく――
◇
この一乗寺、かつては栄えておりました。
文武の道に通じた者が修行を積み、学ぶ者も多かったとか。
されど戦の世。落人の影が道を染め、血と火のにおいが風に混じる時代。
ある夜、名も告げずして門を叩いた一人の若き男が、寺に身を寄せます。
その者の名、平維盛(これもり)。
平家の将、平重盛の子にして、平清盛の孫。
源平合戦のさなか、名を捨て、剣を捨て、鎧を捨て、
ただ一人、俗世を離れてこの山中に身を沈めたのでございます。
名を問えば「ただの者」とのみ答え、
髪を剃り、袈裟を纏い、
朝には経を唱え、夜には琵琶を弾いた――
だが、その姿も、ある夜を境に、ふっと掻き消えた。
衣も、琵琶も、何もかもがそのまま残されたままに。
◇
それからというもの、寺には人の寄りつかぬ晩に、
「ポロン……」と、琵琶の音が鳴るようになったと申します。
誰もいないはずの本堂から、夜ごと響くその旋律。
雨の日には雨に溶け、霧の夜には空に溶け、
けれど耳を澄ませば確かにある――
「ポロン……」
それは、まこと音というより、“念”に近い。
弾く者はおらず、されど弾く者の心だけが残っているような、
それはそれは深く、澱んだ響きでございます。
◇
村の者は申します。
「あの音を聞いた者は、みな足を止める」
「泣く者もおる。笑う者も、膝をつく者も」
「けれどなあ、中へ入ってはならんのじゃ。あれは――現のものではない」
琵琶が鳴る夜、この寺は、この世にあらず。
死人が夢見るまぼろしと、等しきものにございます。
◇
さてもその夜も、雨が降っておりました。
しとしと、しとしとと、葉を打ち、土を濡らし、屋根の上に糸を垂らすような細雨。
風はなかった。けれど、風のような何かが、山を、谷を、這っていた。
石段の苔は濡れて滑り、杉の根の間からは雨水が、ぬるりと音もなく流れ出す。
その流れの中に、ふと、白いものが浮かぶことがございます。
紙のようでもあり、布の切れ端のようでもあり――
それを拾い上げようとした旅人が、口を開いた瞬間、言葉を呑んだ。
「……誰か……おる……のか?」
――応えぬ。
されど、背後の森が「コクリ」と頷いたように揺れる。
足元から冷気が上がり、耳の奥に、ふいに響くのです。
「……まだ、ここにおるのか」
「わたしは……もう、帰れぬ……」
「琵琶がやまぬ。あの音が……あの音が……」
聞こえるはずのない声、聞きたくもない声が、
雨と一緒に、頭の芯に染みこんでまいります。
◇
一度、この寺を訪れた旅の法師が、こう語りました。
「入ってはならぬ夜が、ある」
「琵琶の音が一つでも鳴れば、寺の時間は乱れる」
「死人の記憶が、堂の柱に吸い込まれ、染みとなって残っておる」
柱に耳を当てると、中で何かが囁いているのだと。
それも声ではない。経でもない。
ただただ、「後悔」だけが、染み出してくるというのです。
そして極めつけには――
「維盛公は、自ら沈まれたのではない」
「寺の土が……夜ごと、引きずったのじゃ」
「琵琶の音に応えるように、地が、墓が、手招いたのじゃ」
◇
そして今日も、夜がくる。
誰もいない堂から、雨音にまじって琵琶の音が漏れはじめる。
「ポロン……」
「ポロロン……」
「……ロ……ン……」
とぎれ、とぎれに、まるで泣くように。
音が消えれば雨だけが残る。
だが、雨の音だけが残ったときこそ――
最も“近く”に、霊がいるのだと申します。
忘れられた声の、最もそばに。
◇◇◇◇◇
第ニ章 一乗寺、和尚来たる

雨は細く、絶えず、地を濡らし続けていた。
夜の帳はすでに落ち、道なき山道に灯りはなく、ただひとつ、杉の根に沿って伸びる獣道だけが、うっすらと白く光って見える。
その細道を、墨染の衣の僧がひとり、音もなく歩いていた。彼は、但馬は気比の浜を発ち、京の都を目指して峠を越え、山また山を歩み続けている。
今宵はこの一乗寺の地にて、一夜を明かすほかあるまいと、山中を分け入ってきたのであった。
その背には丸く古びた木魚、手には仕込み杖。
頭には広く編まれた笠を深くかぶり、その顔は見えない。
けれどその歩みはまっすぐで、怯むことも迷うこともなかった。
一乗寺の門は開いていた。
誰が開けたのかも分からぬまま、ひとたび開いたその門は、まるで寺そのものが僧を迎え入れるかのように、微かに軋んで風に鳴いていた。
和尚は何も言わず、門をくぐった。
◇
灯りはなかった。
堂内には誰の気配もない。
されど空気はあたたかく、まるで誰かがさきほどまでそこにいたかのようだった。
和尚は本堂の床に腰を下ろし、木魚を横に置く。
何も語らず、ただじっと、しばし目を閉じて座した。
雨音が遠く、山の奥から微かに響く。
まるで堂の柱が、その音を懐かしむように揺れていた。
やがて、音もなく現れたのは、若い男の影だった。
顔ははっきりと見えぬ。されどその姿は、どこか貴族の名残を感じさせる。
静かで、儚げで、堂の隅に立ったまま、目を伏せていた。
「――名は、いらぬ」
和尚が静かに言った。
「ここに残るは、名前を捨てた者ばかり。名を語れば、それだけで苦しむ」
男はゆっくりと顔を上げた。
その目には、涙ともつかぬ光がにじんでいた。
恨みではない。憐れみでもない。
ただ、自分自身への、拭えぬ嘆きのようなもの。
「……あなたは、祓いに来たのですか」
「いや」
和尚は首を振った。
「あなたは、すでに祓われておる。ただ……まだ、自らを許せておらぬだけだ」
男はふっと目を伏せた。
その指が、ゆっくりと空をなぞるように動き、見えぬ琵琶を抱える形をとった。
「音を、止められなかったのです。指が……夜になると、勝手に……」
「それでよい」
和尚は、ゆっくりと木魚に手を添えた。
その正面には、般若の面が取り付けられていた。今はまだ、動かさぬ。
「声なき者たちのために、あなたは音を残した。それも、また供養のかたち」
「……供養」
男は微かに笑みを浮かべた。泣きながら笑うような、静かな微笑。
「ならば、もう少しだけ。……あと、ひとり分だけ、弾かせてください」
和尚はそれに頷いた。
雨は止んでいなかった。
けれど堂の中には、やわらかな気配が満ちていた。
風もなく、音もなく、ただ静けさだけが、ふたりのあいだに流れていた。
――そして、夜が、ゆっくりと、深く沈んでゆく。
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