耳あり芳一【第二話】貝を拾う声①
芳一と和尚、怨念渦巻く気比の浜を彷徨う──
巻頭はコチラ
前回はコチラ
第一章 満潮の声
夜の潮が、音もなく満ちてゆく。
但馬の海沿い、御崎から東へ馬で半刻──かつて“白砂青松”と詠われた気比の浜がある。湾の形が浅く、波の立たぬ浜として知られ、冬の荒れた海を避ける舟がしばしば寄港した。岸辺には砂が細かく、波の音を吸うように沈黙し、耳を澄ませなければ海にいることさえ忘れるほどの静けさがある。
松が、連なる。
浜を囲むように背の高い松が生い茂り、その枝の隙間からだけ月が差し込む。昼間は旅人や村の者が腰を下ろして弁当を広げ、磯の香を肴に笑い合った松原も、日が暮れると打って変わる。幹は黒ずみ、枝は影のようにのしかかり、遠くに灯を見れば、誰かが焚いたものか、狐の火か、区別もつかなくなる。
この浜には、名物があった。
“気比だまり”と呼ばれる浅瀬で採れる小さな巻貝──白磁のように滑らかで、薄く、光にかざすと内側に虹色が浮かぶ。女たちはそれを拾い集めて櫛箱に入れ、子らは水に浮かべて小舟遊びをした。拾えば拾うほど笑いが湧き、数を競い、浜が賑わう夏の音は、昔の気比を象徴するものだった。
だが今、その声はない。
砂は濡れ、波の残した貝殻は誰にも拾われずに放置されている。音を吸い込むほどの細砂は、今や足跡をも呑み込む。浜の静けさは美ではなく、何かが息を潜めているような、ぞわりとした気配を帯びるようになっていた。
◇
その夜も、風は穏やかで、波の音はなかった。
松の枝が風に揺れ、さらさらと葉擦れの音がかすかに響く。その音の隙間に、ふいに、少女の声がした。
「──ひろって……」
誰の声かは、すぐには分からない。風に乗り、波に混じり、聞き逃してしまえばただの錯覚としか思えぬほどかすかだった。しかし、ひとたび耳に入ってしまえば、後には残響のように心にこびりつく。
「ひろって……ねえ……」
村の者は、その声を“貝を拾う声”と呼んでいた。
◇
かつては、子どもたちの遊び場だった。浅瀬で裸足になり、小さな貝を手に笑い合った浜辺。しかし、いつからかこの浜で遊ぶ者はいなくなった。五年前、一人の少女が声に導かれるようにして、満ち潮の夜に姿を消してからだ。
村の者は、口をつぐんだ。
その後、海の中から遺体が見つかったわけではない。ただ、波がいつもより高く押し寄せた朝に、砂に埋もれた片方の下駄だけが見つかった。それだけだった。けれど皆、思ったのだ。「あの声」に呼ばれたのだろう、と。以来、この村では夜の浜を「触れてはならぬ場所」として忌むようになった。
◇
今宵、またひとり、娘がいなくなった。
名を、おるいといった。
わずか八つ。母親の手をふりほどき、「光る貝を見つけたの」と言い残して、ふらりと波打ち際に歩いていった。夕暮れのざわめきの中、母・おふくは呆然と娘の背を見送ったが、はっと我に返り声をかけたときには、すでに姿はなかった。波も音も何も変わらず、ただ、そこにいたはずの影がなかった。
それから三日が経つ。
村人たちは、おふくを気の毒に思いながらも、内心では口を噤み始めていた。「あの声」に呼ばれたのならば、もう戻ってはこない。そう思ってしまうのは、誰かを責めたいからではなく、そうとでも思わなければ、自分たちがその浜のすぐそばで生きていることに耐えられなくなるからだ。
◇
おふくは、今も毎晩、松の木の根元で灯を焚いている。かすかな光が、波に滲む。
「るい……るいや……」
その呼びかけに返るものはない。ただ、時折、どこからか返るように響く、あの声だけがある。
「……ひろって……」
村の長老・嘉兵衛は、浜を遠巻きに見つめながら、ひとり口の中で呟いた。
「盛嗣様が……お弱りになっておるのかもしれん……」
――
第二章 語りの封
旅の道すがら、芳一は潮の匂いを胸いっぱいに吸い込んでいた。
山を越え、谷を渡り、いくつもの社や寺を過ぎてきた。だがこの浜の空気は、どこか異質だった。海の匂いに混じって、ほんのかすかに墨と線香のような香りがある。それは誰かが長く声を刻み、祈りを込め続けてきた土地にだけ漂う、静かな重さのようでもあった。
潮の音がしない。
それが、最初に芳一の耳に引っかかった。海は確かに近いはずなのに、波の寄せる気配が薄い。水音も、遥か遠くでくぐもっている。代わりに聴こえてきたのは、貝を踏み砕くような、かすかな音だった。
「……和尚様」
芳一が静かに声をかけると、隣を歩いていた男の足が止まった。墨染めの衣が風に揺れ、しばらく黙ったまま、浜の方角に顔を向ける。
「……潮の気配が、薄いな」
「はい。まるで……浜そのものが息を呑んでいるように感じられます」
「空気も澄んでおるが、澄み過ぎておる。何かが沈んでおるな……」
「私の耳にも、静けさの奥で波がざわめいております。音が……喉の奥で詰まっているような」
和尚は頷いた。
「行くぞ」
「はい」
和尚が一歩、砂の上に足を進めた。細かな砂が、ざり……と音を立てて崩れた。その瞬間、少し先から、別の足音が返ってきた。
「……どなたか近づいておられます」
「うむ。松の陰よ。」
松の幹の影から、ひとりの老人が現れた。白髪に麻の羽織、手には太く年季の入った杖。背筋は伸びているが、歩みには重みがあり、風に顔をさらしてもまったく目を細めなかった。
「芳一殿、和尚殿──ようこそお越しくだされた」
「……あなたが、嘉兵衛殿でございますか」
「左様。村の外れで旅の者が来たと聞き、急ぎ出向いた」
その声には衰えがなく、どこか澄んでいた。芳一は頭を下げ、足音の向こうに微かな揺れを感じ取った。浜の向こう、灯が揺れている。松の根元で、誰かがしゃがみこんでいる気配──。
「……あちらにおられるのは」
「おるいの母じゃ。三日前の夕暮れ、娘を波に取られてから、夜な夜なあそこへ……」
嘉兵衛の声がかすかに震えた。和尚が静かに手を合わせる。
「お気の毒に……」
「……娘さんの名、おるい、と仰いましたか」
芳一がそっと尋ねると、嘉兵衛は目を見開いた。
「何故分かった?」
「声が、まだ消えておりません。浜の空気に、母御の呼びかけが残っております。娘の名も、それに応えて、微かに……」
嘉兵衛はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと懐から布袋を取り出した。中には、よく磨かれた貝殻が十枚ほど、滑らかな面を上にして並べられている。
「……盛嗣様が語っておられた頃、この浜では“拾われた声”をこうして貝に収めておった。耳を当てれば、その者の名が聴こえる、との言い伝えがあってな。気休めのようなもんじゃが……わしは、嘘とは思わなんだ」
芳一は袋に触れず、ただ貝の気配に耳を澄ませた。
「……貝は、音を抱え込みます。中には、離れぬ声がいくつも──深く、眠っております」
「それを封じておったのが、盛嗣様じゃ」
嘉兵衛は空を仰ぎ、ぽつりと続けた。
「壇ノ浦で果てず、この浜に流れ着いた平家の末裔。それが盛嗣様じゃ。もはや人とも霊ともつかぬ身となりながら、語ることで“声”を封じておられた。あれは“語りの守”よ」
「……されど」
和尚が言った。その声は低く、乾いていた。
「その語りが、乱れ始めておるのだな」
「うむ。五年前に一度、封が揺らいだ。そして今回は──」
嘉兵衛は、芳一の方を見た。
「百の矢が、空を裂いたあの日じゃ。あれは、百ヶ所に封じられていた“声”を乱した。遠く離れたこの浜にも、あの音は届いたのじゃ。わしらの耳には聴こえずとも、盛嗣様には──響いたのであろう」
◇
風がふいに止んだ。
浜が、沈黙する。
その静寂の奥に、芳一は確かに聴いた。
それは、貝の内側から響くような──かすれた、少女の声。
「……ひろって……」
――
※毎日夜7〜8時あたりに投稿しています。ハートマーク(スキ)押していただけると、とても嬉しいです。よろしくお願いします。
続きはコチラ
宜しければコチラもご覧下さい。
※感想もお気軽にどうぞ
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!