耳あり芳一【第五話】祇園の鬼喰い④
──鐘の音、諸行無常の響きあり……
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第四章 魚と牙と、雨吉の決断
静かな朝の陽が、祇園の町を照らしていた。
蓮屋の帳場に、ひとつ影が差し込む。
「……おい」
どすりと重い足音を響かせて現れたのは、茶屋の団蔵だった。額に深く皺を寄せ、帳場の中を睨むように見渡す。
「女将はどうした。お兼さん、朝から見えねえ」
帳場の隅にうずくまっていた雨吉が、ゆっくりと顔を上げた。
「へえ……朝方、出ていきましたよ。仕入れか、なんかで」
「嘘をつけ」
ぴしゃりと、団蔵の声が張る。
「こんな時間に女将が一人で仕入れ? 馬鹿言うな」
雨吉は口元にゆるんだ笑みを浮かべた。
「まさか、あっしが食っちまったとでも?」
「黙れ」
団蔵が一歩踏み出す。床板が軋んだ。
「娘がな、今朝言ってたんだ。……みすずのあとを、お前が歩いてたって」
雨吉の笑みがわずかに揺れる。
「……お幸ちゃんが?」
「そうだ」
団蔵の目が細くなる。声に濁りが混じる。
「娘は怯えてた。……お前が、なにか変だったって」
「そりゃ残念。けど、心当たりはありませんね」
「嘘つけ。……お前、ずっとそうやってすっとぼけてきた」
「それは買いかぶりってもんです。あっしみてぇな三文乞食に、そんな器用な芸は……」
「黙れ!」
団蔵の声が爆ぜた。
怒りが空気を震わせる。
「娘に、妙な目を向けていやがった。……“可愛い子だな”なんて、抜かしやがって……!」
雨吉がふっと口元を緩めた。
「だって、実際そうでしょう? お幸ちゃん、いい娘じゃねぇか……」
その瞬間だった。団蔵の肩がびくりと震え、膨らむように盛り上がっていく。
「やめろ……やめろ……!」
声が濁り、牙がにじむ。
怒りが肉を裂き、骨を捩じ曲げていく。
「娘の名を……口にすんじゃねぇええ!!」
叫びとともに、団蔵の肉体が鬼へと変貌した。爪が伸び、肩が割れ、瞳は血に染まる。
「来やがった……!」
雨吉がのけぞった、その背後。
襖の隙間から、ぬるりと白い手が現れた。
それは音もなく、するりと団蔵の背へ回る。
女が現れた。
白い肌、艶めく唇、虚ろな両眼。しなやかな四肢を蜘蛛のように広げ──
ガバッ!
一閃のように、団蔵の背に飛びかかる。
蛇のように絡みついた手足、耳元へと吸い寄せられる紅い唇。
かぷり。
湿った音が帳場に落ちる。団蔵は凍りつき、目を見開いたまま動けない。
女は喰らいながら、雨吉に顔を向ける。
その瞳が、雨吉を見ていた。否、“見せていた”。
ずず……ッ
背後の闇がざわめく。床の下が裂けるように動き出し、団蔵の体を、女とともに引きずり込んでいく。
ぱたん。
闇が閉じた。
雨吉の前からも、背後からも──
気配という気配が、すべて、消えていた。
◇
二階の客室では、角一と彦七が顔を見合わせていた。
「……今の、叫び声……」
「やばい。ここ、もう駄目だ」
荷物を手早くまとめると、小袋に多めに詰めた銅銭を、帳場の隅に滑り込ませた。
雨吉の存在には触れず、視線すら交わさず──ふたりは足早に蓮屋を離れた。
しばらく帳場に膝をついたまま動けなかった雨吉も、やがてふらりと立ち上がり、外へと出た。
◇
しばらくして、川でみすずを見つけた安兵衛とお春。
三人はそのまま、蓮屋へと戻ってきた。
「お兼さん、どこへ行ったのかしら……」
お春の問いに、安兵衛は静かに答えた。
「……仕入れじゃないかな。俺は厨房に戻るよ」
◇
川風が、ゆるく町を撫でていた。
鴨川の岸辺。
雨吉は石垣にもたれ、ぼんやりと空を見上げていた。
頬を撫でる風はどこか生ぬるく、頭の奥がじんわりと熱を帯びていた
目の奥に、あの女の残光が焼きついて離れない。
「……いけねえな、こりゃ……」
先日、お兼の隙を突いて盗んだ巾着──袖の中で、それがいやに重く感じられた。
「こんな町、出ちまおう。……別の町で、また一から……」
その時だった。
「雨吉」
ぬるりと背後から名を呼ばれ、振り返った。
川魚売りの藤兵衛だった。いつもの担ぎ桶はなく、手にはただ一本の棒。
「……あんた、何か知ってるな。蓮屋のこと。団蔵のこと」
藤兵衛の目が鋭い。
そのまなざしには、何かがもう、人ではなかった。
「知らねえよ。何も……」
「嘘つくな! 参拝客から聞いたぞ。お前、女将にも団蔵にも何かしたってな!」
藤兵衛の体が震え始める。
水のように粘り、軋みながら、身をうねらせていく。
「金も、お前だ……そうだろうが! なにが“ただの乞食”だ……!」
バリバリッと音がして、藤兵衛の顎が割れた。
歯が鋭く並び、背が伸び、体の表面が粘膜のように光る。
その姿は、巨大な──鮒(ふな)。
「く、来るなよ……っ!」
雨吉は後ずさる。だが、もう逃げ場はない。
そのとき──
「……美味しそうな鮒ねえ」
耳元に、甘い吐息がかかる。
しっとりとした、女の声。
ぴたりと耳に唇が触れる感覚。
「あなたがいらないなら……私がいただこうかしら」
ふわりと漂う、艶のある香。
雨吉は、喉の奥から呻き声を漏らしながら、よろよろと藤兵衛に歩み寄る。
「……やめろ……」
だが、もう止まらない。
「……喰うぞ、こらあ……」
叫ぶように、藤兵衛の肩に噛みついた。
ぷち、
と皮が裂け、血が溢れる。
魚のぬめりの下に、肉の熱。
噛みちぎると、濃厚な血の味とともに、甘い悦楽が喉を焼いた。
「……う、ま……っ……!」
目が、血走る。指が爪に変わる。
脳裏に、女の笑い声がこだまする。ぞっとするほど甘く、背筋を撫でていく。
雨吉の背後に、白い女がそっと立ち、頬に手を添えていた。
「……ほら、美味しいでしょう?」
甘やかな声が、耳の奥まで染み込む。
鮒の藤兵衛が、呻き声を上げながらもがき──
そして、喰われて消えた。
岸辺に吹く風が、血の匂いをさらっていった。
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