一日置きの彼女 第2章「日記」前編
「殺したのは、私ではない私。」
第二章「日記」①
部屋の隅で、小さなラジオがかすかな音を漏らしていた。
パーソナリティの穏やかな声が、夜の静けさを崩さぬように低く流れていく。どこか遠くで風が鳴き、木々を揺らしているのが窓の向こうに感じられる。
高山棟悟は、マグカップに淹れたコーヒーをそっとテーブルに置いた。
その香ばしい香りが鼻をくすぐる。コスタリカ産の豆を中深煎りで淹れた、苦味とほのかな酸味のバランスが彼の好みだ。
目の前には、開きかけたままの小さなノートがある。冴子が面会室で渡してきた、あの「日記」だ。
表紙はくすんだ赤の革製。手に取ると、重みと共にわずかな湿気が指先に伝わる。書き続けられていたという証のように。
昼に立ち寄った駅前のカフェで買ってきたチキンとバジルのサンドイッチを片手に、高山は再びノートを開いた。
紙に走る文字は、丸みを帯びた柔らかな筆跡と、角張った硬質な筆跡が交互に現れる。いずれも同じペンで書かれているが、まるで別人が交互に記したかのような印象を与える。
「今日は雨だった。のぞみは傘が好きだ。小さな赤い傘。私も赤が好き」
ページをめくると、次はまるで誰かが吐き出すように書いた短文が続いている。
「泣き声。耐えられない。静かにさせたい。私を壊すのはあの音だ」
高山は眉をわずかにひそめた。
文字の形は異なれど、行間に流れる感情に“繋がり”があるように思えてならない。
母親としての冴子と、拒絶する冴子が、一本の糸の上でつながっているような──。
「これは……本当に二人なのか?」
そう呟きながら、手元のスマートフォンを取り出し、検索エンジンにいくつかのキーワードを打ち込む。
《演技 二重人格》《筆跡診断 症例》《偽装 解離性障害》
スクロールする指の動きと、カフェオレ色のページをめくる指が交互に行き来する。
ラジオの音が少し高まり、ジャズのフレーズが夜の空気に溶け込んだ。
「母親なら、書く。殺した人格なら、なぜ書く? なぜこんなにも整然と……?」
彼は息をつき、ページのすみに書かれた小さな文字に目をとめた。
「ごめんね。ちゃんと、できなかった」
それは、幼い子供が描いたクレヨンの絵の横に添えられていた。
絵には、笑顔の母親と、赤い傘を持つ小さな女の子。
高山はマグカップを両手で包みながら、ぽつりと呟いた。
「これは……どちらの“冴子”が描かせたんだ?」

第二章「日記」②
翌朝、雲は薄く晴れ、空気にわずかに春の匂いが混じっていた。
高山棟悟は出勤前にもう一度ノートを開いた。前夜に見つけたあの一文──「ごめんね。ちゃんと、できなかった」──が、脳裏に焼きついて離れない。
彼は朝のトーストをかじりながら、再びノートをめくった。
あるページには、こう記されていた。
「今日は裕二さんが店に来た。ハンバーグ弁当。『味が落ちたな』って笑いながら言った。冗談よね。私、昨日も今日もちゃんと作った。味なんて変わるはずがない。……変わったのは、私?」
文字はやや乱れている。だが、注視すれば“その乱れ”にも規則がある。特定の感情の高まりと連動しているのではないか?
高山は医師としての理性の奥に、研究者としての静かな昂ぶりを感じていた。
“人格は日をまたいで切り替わる”という冴子の証言を、彼はまだ信じきれていなかった。
単なる演技、あるいは“選択的な仮面”ではないか──。
「二重人格というより、自己演出の反復強化……そんな印象すらあるな」
職場での精神科カルテの作成を終えた後も、彼の脳裏には冴子の言葉と文字がこびりついていた。
その日の夕方。高山は近くの公園に立ち寄った。
子どもたちの声が響くなか、ベンチに座ってタブレットを開く。冴子の日記の一部をOCRで取り込んだデータを拡大して見つめる。
「赤」「弁当」「のぞみ」「うるさい」──頻出する単語を色分けし、日付との相関を見る。
そのパターンに、はっきりとした偏りがあった。
“静かな日”と“破裂する日”が、交互に存在する。
そして“破裂する日”に限って、必ずのぞみに言及していた。
「……感情の“継ぎ目”がある。人格の断絶ではない、連続性があるのに、記録の形式だけが違う」
高山はつぶやいた。まるで自分自身に報告するかのように。
人格が本当に分かれているのなら、なぜ過去のことを一貫して覚えている?
なぜ、どちらの“冴子”も裕二の名前を同じように扱い、同じ表現を使うのか?
そして──
「どちらも、“母親”なのだ」
彼は、感情の動線の一致に気づいた。
筆跡や文体の差とは裏腹に、根底に流れる母としての愛着と葛藤が、途切れずに続いている。
“冴子”という人格が二つに分かれているのではない。
むしろ、冴子自身が「別人格にしておきたい何か」を抱え続けているように──。
第二章「日記」③
夜。
高山は部屋の照明をやや落とし、手元のスタンドライトだけを点けた。
静かなジャズが小さくラジオから流れ、湯気の上がるコーヒーのカップが手の届く位置に置かれている。
日記は膝の上、ページを開いたまま、やや湿った紙の質感が指先に残っていた。
「のぞみが、私に言った。“あしたもごはんある?”って。……あたりまえじゃない」
ページの隅に、小さく、赤いしみがあった。
ボールペンのインクか、それとも──。
「裕二さんがのぞみに言った。“もうちょっとおとなしくできないの?” ……私は笑ったふりをした。
あれは、私の声だったのか?」
高山はページをめくるたびに、喉が乾いていくのを感じた。
そしてついに、決定的な記述が現れる。
「のぞみは、うるさすぎたの。仕方がないじゃない。私、あんなに疲れてたんだもの」
その直後、日記は次のページに飛んでいる。日付は一日空いていた。
「今日は静か。なにもないって、すばらしいこと」
筆跡は変わっている。丸みを帯び、線が細い。
だがその柔らかさは、まるで「無関心」の仮面に似ていた。
「なにもない」のではなく、「なかったことにしたい」のだ──。
高山はそう読み取った。
すると、ドアの向こうでポストに手紙が落ちる音がした。
彼は立ち上がって玄関へ向かうと、広告チラシの間に混ざって、一通の封筒が差し込まれていた。
差出人の欄には、《警視庁捜査一課 斉藤》の文字。
中には捜査資料の写しが入っていた。
《現場検証報告書(補足)》──「冷蔵庫内にて、手製の弁当箱を確認。腐敗は進んでおらず、蓋には“のぞみ”の名がペンで記されていた」
“弁当を残したまま、子どもが死ぬ”──その不自然さに、高山は一瞬、全身の血が冷たくなるのを感じた。
「殺意は、突発的なものじゃない。少なくとも……“準備”がある」
彼は再び日記に目を戻した。
最も重要なページは、まだ現れていない気がした。
だが、近づいている。
第二章「日記」④

翌朝、高山は街角のカフェに立ち寄った。
窓際の席に腰を下ろすと、目の前に差し出されたサンドイッチとコーヒーの香りが、少しだけ神経をゆるめた。
それでも、思考は休まらない。
小さなタブレット端末を開いて、警視庁の内部資料にアクセスする。
検索欄に「葉山冴子 既往歴」「のぞみ 育児相談」「裕二 勤務先 照合」と入力し、関連情報を漁っていく。
画面には、のぞみが通っていた保育園の面談記録の一部が表示された。
「母親は、娘への声かけが少なく、視線を合わせる頻度も低い──」
だが、冴子の日記には“笑顔ののぞみ”がしばしば登場する。
保育士の記録とは、まるで別人のようだ。
“笑顔ののぞみ”は、本当に実在したのか?
高山はカップを持ち上げたが、手が止まる。
──なぜ“笑っている”描写だけが繰り返される?
──泣いている、怒っている、眠っている、病気になる──そんな記述が、異様なほど少ない。
日記は感情の記録ではなく、冴子が作った“のぞみ像”の記録ではないか?
◇
診察室に戻った高山は、ふたたび日記を読み直した。
あるページの余白に、小さな鉛筆の書き込みがあった。
「今日、私じゃなかったらごめんなさい」
その文の意味を、最初に読んだときは気づかなかった。
だが今は違う。
「今日の冴子」が、“明日の冴子”に対して残したメッセージ──。
それなら、人格交代の自覚はあったことになる。
そして、それを日記に残すという行動は、“記録を他人に見せるつもり”があるという意味でもある。
高山は、ノートを閉じた。
──この日記は、誰かに読まれることを前提に、演出されている。
演出された人格。
演出された日記。
演出された殺意。
ならば、冴子は二重人格ではない。演じているのだ──。
次の面会で、それを試す。
高山の目が、決意を宿して鋭くなった。
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