耳あり芳一【第五話】祇園の鬼喰い①
──鐘の音、諸行無常の響きあり……
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第一章 風、祇園を通る
――
風が吹いていた。
やわらかな春の風ではあったが、そこには湿り気と、どこかしら鉄の匂いが混じっていた。雨ではない。血の匂いでもない。けれど、それを鼻に受けた者は皆、ほんの一瞬、己の喉元に手をやり、気づかぬうちに指を強く握っている。
京・東山、祇園の町。
八坂の社を中心に栄えた門前町は、ちょうど桜の名残に包まれていた。満開を過ぎ、花は幾重にも重なりながら地を染め、石畳に貼りついては、踏まれ、散らされ、泥とともに交じり合っていた。水たまりの上を花びらが流れ、時おり小石に引っかかっては、そこで終わる。まるで、どこかへ行こうとして行けなかった命のようだと、ある者は言った。
茶屋の軒先では、簾が上げられたままになっていた。朝の仕込みの手が途中で止まったのか、それとも、誰かが開けたまま忘れているのか。簾の隙間から、まだ火の落ちぬ囲炉裏の煙が、細く外へ逃げていた。風にさらわれ、溶けていくその煙は、まるで声なき叫びのようであった。
飴屋の子どもが、ひとりで唄っている。手には売り物の飴玉。唄は節を外しており、耳にした大人が笑いながら叱るが、子は気にも留めぬ。口元には飴ではなく、何かを味わうような笑みだけが残っている。あれは、誰に聞かせる唄だったのか。子ども自身にも、それはわからぬ。
花見小路の先、鴨川の東に小さな社がある。社の前には、一人の男がいた。蓑をかぶり、腰を下ろし、顔はほとんど見えぬ。名を知る者は少ない。けれど、この祇園の者なら皆、彼を見てはこう言う。「雨吉だ」と。
雨吉は今日もそこにいた。まるで地の一部であるかのように。そこにいることに誰も驚かず、誰も気にも留めず、けれど、誰もが彼の存在を知っていた。動かぬ姿で、ただひとつ、彼だけがこの町の“何かの変わり目”を、じっと聞いていた。
──その夜。
清閑寺にて、あの女が百鬼を喰らいし夜。
篠山の地より解き放たれた怨念の欠片は、
風に乗って──祇園の空にも、音もなく降り注いでいた。
誰も、それに気づかない。
誰も、それに名を与えぬまま、日々が過ぎていく。
そして今朝もまた、ひとつの争いが、始まろうとしていた──
◇
鴨川の東、細い路地の奥から、足音がひとつ、石畳を打った。
魚籠をかついだ男が、濡れた髪をかき上げながら、うっすらと笑みを浮かべている。名は藤兵衛。この町に生まれ、この町で川魚を売って生きている、無口で気の荒い中年男である。
その笑みは愛想でも洒落でもない。口元に引きつったように貼りついた、あきらめ混じりの皮肉であった。魚がまた減ったのだ。釣れても、浮かんでくるのは骨ばかり。しかも、その骨がときおり、光っていた。銀色に濡れて、鱗もついていない──まるで、生き物の骨ではないような。
「……今日も駄目か」
藤兵衛は、魚籠を片手で持ち上げ、軋むような引き戸を叩いた。旅籠「蓮屋」の朝は早い。かつては参詣客で賑わったこの宿も、今は閑古鳥が鳴くばかり。だが、女将のお兼だけはいつでもしっかりしていた。小柄な体で仕切る蓮屋を、藤兵衛も一目置いていた。
戸が開いた。お兼が現れる。細い目で、じっと魚籠を見た。
「……少ないねぇ、今日はまた」
「川が変だ。魚の骨ばかり浮かぶ。誰かが喰ってるような、そんな感じだ」
「魚を?」
「わからねえ。けど、生きた魚の骨が先に浮いてるってのは、おかしいだろ」
お兼は眉をひそめ、魚籠を覗き込んだ。泥まみれの小鮒が三尾、痩せた川蟹が一つ。たしかに、少ない。が、藤兵衛のせいではなかろうと、お兼は思った。
「ま、いいよ。客も来ねえし、これで足りる」
そう言って、お兼は懐に手をやった。そこにあるはずの、銭袋。
だが、指先に触れたのは、布の感触だけだった。袋は──空だった。
「……あれ?」
もう一度。懐を探る。裾も、帯も、草履の間も。ない。
「ちょっと……あんた、私の銭、取ったんじゃないよね?」
「は?」
「魚籠に入れてある間に、袋を──」
藤兵衛の顔が変わった。にやりとした笑みが剥がれ、眉間がしわを刻んだ。
「冗談は寝て言え。てめえ、俺が盗っ人ってのか?」
「違うって言い切れるの?」
「何だと?」
声が上ずる。二人の間に流れる空気が、じわりと沸騰する。
路地の奥から、誰かが顔をのぞかせた。洗濯物を干していた娘が、手を止める。
「盗られたのは、あんたの財布じゃねえ。あんたの品位だろうが」
「ふざけるな、この魚売りが……!」
「言いやがったな、女狐!」
と、そのときだった。
どこからともなく、笑い声がした。低く、濁って、にちゃりと湿った音。
振り向いた者は誰もいない。けれど、誰もが“あの男”の方を見た。
蓑をかぶった雨吉が、社の前で、少しだけ首をかしげていた。
誰も彼を見たとは言わない。けれど、彼の笑みがその場を撫でたことを、誰も否定できなかった。
やがて騒ぎは、町の若者に押し分けられて終息した。
藤兵衛は舌打ちしながら魚籠を持って立ち去り、お兼はうつむいたまま引き戸を閉じた。
けれど、その場には、何かが残っていた。
風が、また吹いた。
花びらが一枚、血のように濡れて、石畳に貼りついた。
◇
藤兵衛は濡れた石畳を踏み鳴らしながら、川の方へ戻っていた。
怒りが収まらず、魚籠を肩にぶつけるようにして持ち替える。その拍子に、籠の隙間から鮒のひとつが滑り落ちた。転がった鮒は、花びらと泥にまみれ、しばらくのたうってから動かなくなった。
藤兵衛はそれを拾おうともせず、ただ歩いた。
背のうしろで、なにかがじん、と疼く。さっきから、ずっと熱い。肩甲骨のあたりに、火鉢の炭を押し当てられているような、そんな感覚だった。
「……ちっ、なんだってんだ」
人目を避け、裏道の石垣に腰を下ろす。肩をすぼめて、片腕を背中に回し、探るように手を滑らせていく。
ごつごつとした骨の感触の奥、皮膚の一部がざらりと波打っていた。
その部分だけが、異様に熱く、固く、盛り上がっていた。
「……なんだ、これ……」
爪でこすってみた。
わずかに表皮がめくれ、爪の隙間に黒い粉のようなものが挟まった。
それが血なのか、垢なのか、それとも別の“なにか”なのか。藤兵衛にはわからなかった。
◇
一方そのころ、お兼は蓮屋の帳場で、火鉢の前に座り込んでいた。
体の芯が冷えるような気がして、炭を足しても、湯を沸かしても、まったく温もらない。
「……あんたが金なんて、盗るわけないのに」
ぽつりと口にした言葉は、部屋のどこにも届かず、灰の中に沈んだ。
膝に手を置こうとして、お兼は小さく呻いた。右手の親指の爪が、ぽろりと欠けていた。指先に走る鈍い痛み。だが、それよりも、背中の“ひっかかれるような”かゆみが気になった。
衣の下に、なにか──這っているような感覚。
鏡は見ない。見てはならぬ気がした。
風がふわりと吹き込んだ。
廊下を桜の花びらが一枚、静かに流れていく。まるで、血が逃げていくようだった。
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