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跳べない俺が君を跳ばせる ー全日本選手権編ー

 フィギュアペアシリーズ、完結編です。
第一作
掌編「跳べない俺が、君を跳ばせる」|切手ゆうひ
第二作
「跳べない俺が君を跳ばせる」全日本ジュニア編(ウィリアムテル序曲) |切手ゆうひ


  フィギュアスケート全日本選手権。
エントリー表を見て、冬馬は一度だけ目を止めた。

 ペア――二組。

 海外拠点のトップペア、桐谷七菜・三浦龍生。通称ななりゅうペア。
そして、自分たち。それだけだった。

 順位は、最初から二つしかない。

 それを分かっていても、
 冬馬の足取りは軽くならなかった。

 会場に入ると、空気が一段、低くなる。
 声は抑えられ、視線だけが鋭く飛び交っている。

 ――ここは、試合会場じゃない。
 評価される場所だった。

 控室へ向かう途中、
結城コーチが足を止めた。
スマホをポケットに戻しながら、事務的に言う。

「ななりゅう、棄権だ」

 一瞬、意味が理解できなかった。

「……え?」
「ロストバゲージ」
「空港で、荷物が届かなかったらしい。靴も衣装も届かない」

 冬馬は、思わず立ち止まる。

 ――いない。
あの二人が、今回は、ここにいない。

「じゃあ……」
「出りゃ優勝だ」

 結城コーチは、淡々と言った。

 胸の奥に、
 妙な空白が広がる。

 横を見ると、凛音はあっさりしていた。

「そっか。今回は、来てないんだ」
「……それだけか?」
「うん」

 凛音はそれ以上何も言わず、
 リンクの方へ視線を向けた。
 確認するみたいに、軽く足首を回す。

 相手がいるかどうかより、
 自分が跳べるかどうか。

 冬馬は、視線を落とした。

 勝つ。
 でも、並ばない。

 結果だけが、先に決まる。

 それは勝利というより、
 確かめようのない場所に
 立たされる感覚だった。

 結城コーチが、前を見たまま言う。

「気にするな」
「全日本ってのはな、全部が同じ重さじゃない」

「……どういう意味ですか」

 冬馬がそう聞くと、
 コーチは少しだけ肩をすくめた。

「シングルは、ここが勝負だ」
「だから全員、今日に全部合わせてくる」

 歩きながら、続ける。

「でもペアは、昔から数が少ない」
「俺が出てた頃もな、
 気づいたら一組だけで優勝、なんて年があった」

 笑うでもなく、懐かしむでもなく。
 ただ事実を並べる声だった。

「そういう時は、勝ったって実感も薄い」
「ただ、立って、滑って、
 『今年の日本のペアはこれです』って見せるだけだ」

 冬馬は、黙って聞いていた。

「桐谷と三浦みたいなのは、
 もう全日本で証明する段階じゃない」
「無理して仕上げる場所でもない」

 一瞬、コーチの視線が遠くなる。
 昔のリンクを、思い出しているみたいに。

「だから、棄権も珍しくない」

 冬馬は、ようやく少しだけ息を吐いた。

 勝つとか、負けるとかじゃない。
 この大会に立つ意味そのものが、
 種目によって違う。

 それだけは、分かってしまった。

☆彡

 全日本二日目。
 リンクに足を踏み入れた瞬間、冬馬は昨日との違いをはっきり感じた。

 今日は、決まる日だ。

 公式練習のリンクには、複数の選手が同時に入っている。
 それなのに、うるささはない。
 それぞれが、それぞれの世界に沈んでいる。

 エッジが氷を削る音。
 着氷の衝撃。
 失敗を引きずらないための、短い呼吸。

 誰も周囲を見ていない。
 見ている余裕がない。

 リンク中央付近で、ひとりの選手が助走に入る。
 短い。
 驚くほど短い。

 ――来る。

 踏み切りの瞬間、氷を蹴る音が鋭く響いた。
 身体が、真上に抜ける。

 四回転フリップ。

 朝比奈 迅の代名詞だった。

 高さも、回転も、無駄がない。
 軸は一切ぶれず、そのまま氷に降りる。

 音が、小さい。

 成功しても、表情は変わらない。
 確認作業みたいに、流していく。

 冬馬は、動けずにその背中を見ていた。

 同じリンクで、
 同じ時間に、
 同じ競技をやっているはずなのに。

 ――場所が、違う。

 自分が何度も跳ぼうとして、
 何度も失敗した回転。
 そこを、彼は最短距離で通り抜ける。

 これは、
 到達できなかった世界だ。

 横で、凛音がぽつりと言った。

「……背中、きれい」

 技の名前も、回転数もない。
 ただ、動きそのものを見ている。

 迅がリンクを外れると、
 すぐに別の選手が入る。
 練習は、途切れない。

 その流れの中に、
 見覚えのある選手がいた。

 園田 昂。

 全日本ジュニアで、
 一度だけ同じ大会に出たことがある。
 今は、フリーに残っている。

 助走は、しっかり取る。
 スピードもある。

 跳んだのは、トリプルアクセル。
 高さも、流れも、申し分ない。

 着氷は、きれいだった。

 周囲から、かすかなざわめきが起きる。
 ――でも。

 次の助走に入った瞬間、
 冬馬には分かってしまった。

 四回転の助走じゃない。

 踏み切りの角度も、
 スピードも、
 そこには向かっていない。

 挑戦しないのではない。
 まだ、跳べない。

 胸の奥に、鈍い痛みが走った。

 あれは、少し前までの自分だ。
 跳べるものを、確実にまとめて、
 それ以上に踏み込めなかった頃。

 フリーに残っている。
 でも、その先が、
 もう見えてしまう。

 冬馬は、無意識に拳を握りしめていた。

 ――ここまで来ても、足りない。

 その現実が、
 リンクの上で、
 静かに突きつけられていた。

 男子の公式練習が終盤に差しかかり、
 リンク上の人数が少し減った。
 それでも、空気は張りつめたままだ。

 誰も無駄な動きをしない。
 誰も無駄な声を出さない。

 ――全日本二日目。
 このリンクは、まだ切り替わっていない。

 そのままの空気で、
 ペアの練習時間に入った。

「ツイスト、軽くいこう」

 凛音の声だけが、妙に明るい。

「了解」

 冬馬は答えながら、周囲を確認する。
 動線は空いている。氷もいい。

 助走。
 踏み切り。

 凛音の身体が、きれいに宙へ抜ける。
 高さも、回転も、問題ない。

 着氷を確認した、その直後だった。

 ――ざわ、と。

 音ではない。
 視線の動きだ。

 リンクサイドの一角に、人が集まっている。
 スタッフ。コーチ。関係者。

 氷上より、そっちの方が静かだった。

 嫌な予感と一緒に、
 冬馬は目を向ける。

 そこにいたのは、
 桐谷七菜と、三浦龍生だった。

 ななりゅう。

 リンクには上がらない。
 スケート靴も履いていない。
 ただ、フェンス越しに練習を見ている。

 それだけなのに、
 空気の質が、変わった。

 ――雲の上。

 勝ったとか、負けたとか。
 出るとか、出ないとか。

 そういう次元にいない人たち。

 冬馬は、無意識に姿勢を正していた。

 その横で、

「……あっ」

 凛音が声を上げた。

 いやな予感が、
 そのまま確信に変わる。

「七菜さんだ」

「おい、待て」

 制止は、完全に遅かった。

 凛音は、氷の上をすーっと滑って、
 そのままリンクサイドへ寄っていく。

 ためらいがない。
 まるで、いつもの場所みたいに。

「七菜さーん!」

 場違いなくらい、よく通る声。

 一瞬、
 周囲の時間が止まった。

 七菜が目を瞬かせる。
 龍生も、一瞬だけ言葉に詰まる。

「あ、えっと……」

 戸惑ったのは、向こうだった。

 次の瞬間、
 七菜は苦笑しながら手を振る。

「……久しぶり。元気だね」

「はい! 元気です!」

 即答だった。

 龍生が、様子をうかがうように言う。

「調子は……どう?」

「楽しいです」

 間髪入れず。

 七菜と龍生が、
 思わず顔を見合わせる。

「……楽しい、か」

「そう言われると、
 どう返していいか悩むね」

 小声のやり取りが、
 冬馬の位置からでも分かった。

 凛音は気にしない。

「さっきのツイスト、
 ちょっと高すぎました?」

「いや、え、あれは……」

 七菜が言葉を探している間に、
 凛音は満足したように頷いた。

「そっか。じゃあ大丈夫ですね」

 何がだ。

 凛音は手を振って、
 あっさり戻ってくる。

「じゃ、続きやろ」

「……お前な」

 冬馬は言いかけて、止まった。

 何を言えばいいのか、
 本当に分からなかった。

 凛音は何事もなかったように、
 次の助走位置に立っている。

 リンクサイドでは、
 七菜が、少し言葉を失ったように見えた。
「……あの子、すごいね」

 龍生が、苦笑い混じりに言う。

「うん。
 すごいし……
 たぶん、怖い」

 冬馬は、二人の様子を横目に見て思った。

 ――基準が、違う。

 緊張も、
 空気も、
 立場も。

 全部すり抜けて、
 凛音はただ、そこにいる。

 その異質さだけが、
 リンクの上で、
 くっきり浮かび上がっていた。

☆彡

 全日本選手権、四日目。
 エキシビション。

 試合は、すべて終わっていた。
 結果も、順位も、もう動かない。

 この日は、競うための時間じゃない。

 桐谷七菜は、客席の一角に腰を下ろしていた。
 リンク全体が見渡せる、少し引いた位置。

 照明が落ち、リンクの上に柔らかい光が広がる。
 昨日までの張りつめた空気は、もうない。
 ここにあるのは、試合とはまったく別の熱だ。

 歓声の質が違う。
 拍手に、緊張が混じっていない。

 ――お祭りだ。

「空気、全然違うね」

 そう言うと、隣の三浦龍生が小さく笑った。

「エキシビションだからな」
「みんな、やっと肩の力抜けてる」

 競技が終わったあとの、ご褒美。
 失敗を恐れずに滑っていい時間。

 七菜は、その言葉に小さく頷いた。

 去年は、この光の中にいた。
 音楽に合わせて、思いきり動いて、
 “全日本を滑り切った”という実感を、
 きちんと持ち帰れた。

 その前の年は、怪我で棄権。
 リンクサイドから、同じ景色を見ていた。

 そして今年は――また、客席だ。

「代表は決まってるしね」

 龍生の言葉は、確認だった。
 慰めでも、言い訳でもない。

 世界に向けた準備は、すでに始まっている。
 全日本の結果で、何かが変わる立場ではない。

 理屈は、もう何度も確認してきた。

「……それでもさ」

 七菜は、少しだけ間を置いて言った。

「ちゃんとした状態で、出たかったな」

 靴が届かない。
 衣装がない。

 誰のせいでもないし、
 無理をする場じゃないことも、分かっている。

 それでも、
 “今年の全日本に立った”という感覚だけが、
 手元に残らなかった。

 七菜は、リンクに視線を戻す。

 すでに何組か、演技を終えている。
 歓声が上がるたび、
 会場の温度が、少しずつ上がっていく。

「でもさ」

 七菜は、ふっと息を吐いた。

「見る側だと、余計なこと考えちゃうね」

「それは、いつもだろ」

 龍生が苦笑する。

「自分が出てなくても、
 気になる選手は気になる」

 七菜は、否定しなかった。

 細かい構成までは、気にしていなかった。
 けれど――

「……想像以上に、ちゃんとやってた」

 七菜は、ぽつりと言った。

 派手さはない。
 でも、崩れなかった。
 “出れば勝つ”と言われる立場に、
 飲み込まれてもいなかった。

 龍生が、少しだけ意外そうに七菜を見る。

「評価、高いね」

「うん。
 正直、もう少しバタつくと思ってた」

 七菜は、リンクの入口付近に目を向けた。

 次の演技の準備が進んでいる。
 スタッフの動きが、
 少しだけ慌ただしい。

 ――来る。

 七菜は、自然と背筋を伸ばした。

「次、あのペアだよね」

 龍生が頷く。

「そう。
 今日、一番、空気変えるかもしれない」

 七菜は、小さく息を吸った。

 今年、自分たちは滑れなかった。
 でも――

 見る側に回った今だからこそ、
 あまりにも目立ちすぎる存在が、
 もう、すぐそこまで来ていた。

☆彡

 リンクの照明が、少しだけ落ちた。

 最初に聞こえたのは、
 ――軽い、電子音だった。

 七菜は、反射的に瞬きをする。

 あ、これ。

 懐かしさが、音より先に来る。
 理屈じゃない。身体が覚えている。

 次の瞬間、リンクに二人が滑り出てきた。

 赤と緑。

 七菜は、一拍遅れて理解する。

「……マリオ?」

 会場が、ざわっと揺れた。
 笑いと驚きが、同時に立ち上がる。

「衣装までやるんだ」

 隣で、龍生が感心したように言う。

 七菜は、もうリンクから目を離せなかった。

 次の瞬間、音楽が鳴った。

 ――ぱぱっぱっ♪ ぱぱっぱっ↑♪ ぽん。

 一音目で、分かった。

 会場のあちこちから、小さなどよめきが漏れる。
 笑い声が、拍手が、条件反射みたいに起きる。

「……あ」

 七菜は、思わず息を吐いた。

 説明はいらない。
 誰もが知っている、マリオのフレーズ。
 身体の奥に刷り込まれている音だ。

 軽い。
 明るい。
 でも、リズムはくっきりしている。

 音楽そのものが、
 “楽しい時間が始まる”と宣言していた。

 最初のフレーズに合わせて、
 二人がすっと距離を詰める。

 ――来る。

 そう思った瞬間、
 効果音が鳴った。

 ぱらぱらぱら↑

 同時に、凛音の身体が、ふわっと持ち上がる。
七菜は、一瞬きょとんとした。

 ……あ。
 キノコだ。

 音に合わせて、身体が大きくなったみたいに見える。
 実際に大きくなっているわけじゃないのに、
 そう錯覚するくらい、動きがはっきりしている。

 会場が、先に笑った。

 隣で、龍生が思わず口にする。

「キノコ取って、でかくなったね!」

 七菜は、吹き出しそうになるのをこらえた。

 完全に遊んでいる。
 振り付けも、タイミングも、
 音にぴったり合わせただけの“演出”。

 観客は、もう安心して笑っている。
 ――ああ、これはネタだ。

 七菜も、ここではまだ、そう思っていた。

 横に並ぶ。
 助走はアクセルジャンプの軌道。

 同時に、踏み切る。

 ――ちゃりん。

 コインの音。

 その瞬間、客席が笑った。
 あ、マリオだ、という反応が先に来る。

 着氷。

 七菜は、遅れて気づいた。

「……今の、女子だけトリプルアクセル!」

 ざわっと、空気が変わる。
 笑いが、どよめきに変わる。

 隣で、龍生がぽつりと言う。

「冬馬くん、今、一瞬だけ固まったよ」
「凛音ちゃん、たぶん……勝手にやったね」

 七菜は、もう笑えなかった。

 ――ネタじゃない。

 そう、はっきり分かった。

 音楽が、切り替わった。

 -ぱっぱっぱっ、
 ぱぱっぱっぱぱぱぱ~♪- 

 一瞬で分かる。
 スターだ。

 客席から、自然に手拍子が起きる。
 速いリズムに、引っ張られるみたいに。

 ――無敵。

 その拍子に合わせて、
 凛音の身体が放り上げられる。

 トリプルツイスト。

 七菜は、息を止めた。

 遊びの音楽なのに、
 やっていることは、完全に競技用だった。

 音が、また変わった。

 ぱぱっぱぱー↑ ぱぱっぱぱー↑
 ぱぱっぱぱー↑ ぱっぱー♪

 ――時間がない。

 一瞬で、全員がそう分かる。

 会場の手拍子が、速くなる。
 追い立てるみたいに、揃っていく。

 次の瞬間、音楽が跳ね上がった。

 テンポアップ。

 冬馬と凛音が、同時に動き出す。
 リンクを横断する、高速のステップ。

 刻む。
 切り返す。
 間を詰める。

 手拍子が、さらに加速する。
 誰かがリズムを取っているんじゃない。
 音楽に、会場ごと引っ張られている。

 七菜は、気づいた。

 ――これ、止まらないやつだ。

音楽が、ほんの一瞬だけ、溜める。

 静寂。

 ――来る。

 冬馬が、助走に入った。
 まっすぐ。迷いがない。

 凛音の身体が、放たれる。

 高く。
 まるで、見えない旗に引き寄せられるみたいに。

 スロートリプルルッツ。

 回転が、空にきれいな円を描く。
 着氷。

 ぴたり、と決まった。

 その瞬間――

 ステージクリアの音が鳴った。

ぱらららららーらー♪
ぱらららららーらー♪
ぱらららららーららららー♪

 続けて、花火の効果音。

 会場が、爆発する。

 歓声。拍手。そして、総立ち。

 七菜は、立ち上がるのが一拍遅れた。

 遅れて、ようやく息を吐く。

「……これは」

 隣で、龍生が笑っている。

「完全クリアだね」

 リンクの上では、
 二人が楽しそうに手を振っていた。

 七菜は、その光景から目を離せなかった。

 ――遊び切った。
 ――でも、強さは隠していない。

 強力なライバルだ。

 そう思いながらも、
 拍手を、止めることはできなかった。

☆彡

 控室に戻った瞬間、
 さっきまでの音が、嘘みたいに遠ざかった。

 ドアが閉まる。
 外の歓声が、壁一枚ぶん、薄くなる。

「……すごかったな」

 最初に口を開いたのは、結城コーチだった。
 珍しく、笑っている。

「いやぁ、あれはバカ受けだ」
「久しぶりに、エキシビションで腹から笑った」

「笑ってる場合ですか……」

 冬馬は、ベンチに腰を下ろしながら言った。

 視線を向けると、凛音は靴ひもをほどきながら、平然としている。

「え? よかったでしょ?」

「よくないって言ってるんだよ」
「サイド・バイ・サイド、ダブルアクセルの予定だったろ?」

 凛音は、少しだけ首を傾げた。

「でも、音が来たから」

「音で跳ぶな!」

 こいつ、絶対に確信犯だ。

 結城コーチが、吹き出した。

「いいじゃないか、エキシビションだぞ」
「観客は大喜びだ」

「そうですけど……」

 冬馬は、頭を抱える。

「俺、あそこで一瞬、足出そうになりました」

「見てた見てた」

 コーチは、楽しそうだ。

「完全に置いてかれてたな」
「でも、崩れなかった」

 その一言で、冬馬は少しだけ黙った。

 凛音は、靴を脱ぎ終えて、立ち上がる。

「ねえ、先輩」

 嫌な予感がした。

「次は、スーパーマリオワールドやりましょう!」

「……は?」

「先輩が、ヨッシー。途中で乗って、最後に乗り捨てるんです!」

「捨てるな!」

 冬馬のツッコミと、
 コーチの笑い声が、同時に響いた。

「いやぁ……」

 結城コーチは、肩をすくめる。

「楽しめるのは、才能だぞ」
「それを、あそこまでの完成度でやるのは、もっとな」

 冬馬は、息を吐いた。

 リンクの外では、
 まだ歓声が続いている。

 このあと、
 メダリストの挨拶がある。
 シングルの選手たちと、同じリンクに並ぶ。

 それを思うと、
 少しだけ背筋が伸びた。

「……次、挨拶だよな」

「うん」

 凛音は、あっさり頷く。

「楽しかったですね」

 その一言が、
 今日のすべてを、まとめていた。

☆彡

 その夜。

 冬馬のスマホは、しきりに震えていた。

 画面を開けば、
 短い言葉が次々と流れてくる。

 ペアEX、やばい
 ななりゅうに続く超新星ペア
 3Aとぶ凛音ちゃんに驚く冬馬くん

 冬馬は、途中で画面を伏せた。

 理解は、追いつく。
 評価されていることも、笑われていることも。

 でも、
 それを受け取る実感だけが、
 まだ、自分の中に落ちてこなかった。

「……変な感じだな」

 独り言みたいに、声が漏れる。

 少し離れたところで、
 凛音がリンクバッグを肩にかけている。

「なにが?」

「いや」

 冬馬は、それ以上言わなかった。

 廊下の窓から、
 夜のリンクが見えた。

 照明は落ちていて、
 氷は、静かに光を返している。

 さっきまで、
 あれだけの音と歓声があったとは思えない。

 冬馬は、しばらくその光景を見つめていた。

 ここに来る前と、
 何かが大きく変わった気はしない。

 それでも――

 同じ場所には、
 もう戻れない気がしていた。

 理由は、分からない。
 名前も、つけられない。

 ただ、
 そう感じてしまったことだけが、
 確かだった。


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