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「跳べない俺が君を跳ばせる」全日本ジュニア編(ウィリアムテル序曲)

 フィギュアペア短編、前回の続編になります。
前作はこちら。
掌編「跳べない俺が、君を跳ばせる」|切手ゆうひ


 夕方のクラブはやけに人が多かった。
全日本ジュニアが近いからか、リンクの空気が薄く張りつめている。

そのストレッチスペースの端で、三枝が肩を落として座っていた。
「三枝、今年も全日本ジュニアだよな。
 西日本の動画見たけど……最後のルッツ、死ぬほど危なかっただろ」

「……踏み切った瞬間に“落ちた”って分かったわ」
 三枝は苦笑しながらも、声の奥がちょっと震えていた。
「フリーの最後であれはマジで終わる。
粘ったのは運。まあ……なんとか残れたけど」
「いや十分すごいって」
「すごかねぇよ。生き残っただけだって」
 その一言に、試合を戦い抜いた選手の“緊張の残り香”みたいなものが漂っていた。

 三枝は横に倒れ、太ももを伸ばしつつ俺をちらりと見る。
「お前らペアは羨ましいよ、ほんと。
 出りゃ全日本ジュニア確定みたいなもんじゃん。
 俺らみたいに西日本でイス取りゲームしなくていいだろ」

 言い方に妬みは全然なかった。
 本当に“事実”として言ってるのが逆につらい。
 返事に迷った。  俺らだって必死じゃないわけがない。
 土日全部練習だし、筋トレは凛音に殺されかけるほどやらされた。
 でも――シングルとの“構造の違い”だけは、説明しても埋まらない。

 三枝は続ける。
「まあ誤解すんなよ?  お前らが楽してるとは一度も思ってねぇ。
 ……あの凛音と半年で試合レベルに仕上げるとか、
 化け物みたいな努力じゃねぇと無理だろ」
「……そう言ってくれると救われるわ」
「事実だからな。  でもさ、競う場所が違うと、“景色”も違うんだよ」

 三枝は立ち上がって太ももを押しながら言った。
「俺の今年の目標、全日本ジュニアで“フリーに残ること”。
去年もギリギリ。今年もギリギリ。  ……それが俺のラインだ」

(……去年の俺だ)
 胸が少しだけ痛んだ。
 去年の俺はSPで転んで、控室のモニター越しに三枝の“ギリギリ通過”を見てた。

 羨ましさと悔しさが喉に張りついて、飲み込めなかったのを覚えてる。
「シングルは人数多いし、全員敵。  1本ミスったら終わり。……生存競争だよ」

 三枝は軽く肩をすくめる。
「お前らペアは二組とかだろ?  ……羨ましいわ、やっぱ」

 言い返せなかった。
 努力してる。でも――環境の違いはどうしようもない。
 そのとき、リンク側から足音が近づいた。
 結城コーチだ。表情が固い。

「冬馬、凛音。ちょっと来い」

 声がいつもより低かった。嫌な予感しかしない。
 立ち上がった瞬間、リンクの反対から明るい声が飛んできた。

「先輩ー! 呼ばれました!!」

(聞こえなくてよかったのに……)
 凛音が靴紐を結びかけのままダッシュで来る。
「走るなって……」
「大丈夫ですって!」

 いや大丈夫じゃねぇだろ。転んだらどうすんだ。
 ……でも、この子は絶対にこけないんだよな。なんでだよ。

 三枝が小声で俺に言う。

「……あのテンションで試合前って、どうなってんだ」
「俺が知りたいわ」

 苦笑するしかなかった。
 凛音が来た瞬間、さっきまでピリついてた空気が全部ふき飛ぶ。

 いい意味でも悪い意味でも、あの子は“台風の目”だ。

 コーチは俺たちが揃ったのを確認すると、表情を崩さないまま短く言った。

「高林・瀬名組が、今年の全日本ジュニアを欠場する」
「えっ……?」

 思わず声が漏れた。その横で、凛音が一歩前に出る。

「じゃあ、私たち……優勝確定、ですか?」

 お前そこなのか。

 三枝がまばたきを止めたまま固まった。
「……優勝、確定……?」声は小さいのに、衝撃だけはでかい。

コーチは静かにうなずいた。
「そういうことだ」

 その瞬間、三枝は両手で頭を抱えた。
「……マジかよ……。
 シングルなんてさ、フリーに残れるかどうかで必死なのに……
 “優勝確定”って……そんな世界あんの……?」

ああ、これは刺さるよな。  
俺もシングル時代なら同じ反応してた。
コーチがそこで口を挟む。

「三枝。
 “ペアはそういう世界だ”
 組が少なければ、欠場ひとつで順位が変わる。
 良くも悪くも、競技構造というやつだ」

 三枝は肩を落としたまま、小さく息を吐いた。

「……いや、分かるけどさ。
 ほんと、別の競技だな……」

 俺はまだ頭が追いつかない。

「あの……なんで欠場なんですか?」

「瀬名が今年、受験だそうだ」
「あー……」  三枝が即座に反応した。

「シングルでもあるあるだな。
 受験の年だけ大会絞るやつ。  ……ペアも同じなんだな」

 理由を聞いて、ようやく状況に現実味が出てきた気がした。

 ――が、凛音の視線は別方向へ飛んでいた。

「じゃあ……世界ジュニア代表も確定、ですか?」
「おい凛音……!」

 肘で軽くつついたが、この子は痛覚より好奇心が強い。

コーチは否定しなかった。
「確定ではない。
お前らは“ミニマムスコア”を持っていないからだ」

「ミニマム……?」
「ISUの国際大会で一定以上の技術点を取ってこない限り、世界大会には出られん。
国内の得点はカウントされない。
 つまり、今のままでは派遣できない」

「なるほど……!」
 凛音はなぜか嬉しそうだった。

(いや、なんで嬉しいんだよ)

 三枝がぼそっと言う。

「……世界ジュニアとか言ってみてぇ……。
 俺じゃ一生縁ないかもしれんのに……」

 胸の奥に、ぐさっと刺さった。
 羨ましさ、現実、格差。  

 俺だって、去年までそっち側だった。

 凛音は当たり前のように次の質問をする。
「じゃあ……ひょっとして、シニアの全日本選手権には出られるんですか?」

コーチは少し考えてから頷いた。
「よほど演技が崩れなければ、推薦されるはずだ。
 全日本ジュニア優勝のペアは、例年シニアにも回る」

 心臓が一拍、明らかに強く跳ねた。

(……全日本、選手権……)

 テレビでしか見たことがない世界。  
“自分とは関係ない夢舞台”の象徴みたいな大会。  
それが、いま突然、目の前に置かれた。

 会場の照明。
実況の「ここが日本フィギュアの頂点です」という声。
代表争いの緊張。
大歓声。  
氷の色。

(……俺たちが、あそこに?)  
手のひらがじっとり汗ばんだ。
(いやいや無理だろ。  場違いすぎるって……)

 現実感より、恐さと眩しさのほうが勝っていた。
 隣を見ると、凛音は目を輝かせていた。
「全日本選手権……!  今年は先輩と一緒に出られるなら、楽しみです!」

 その言い方があまりに自然で――  俺は息を飲んだ。

(……なんでそんなに怖くないんだよ、この子は)
 三枝がゆっくり言った。
「……全日本選手権、か。
 あそこは……マジで“日本で一番重い”舞台だぞ」

 その声は俺たちに向けつつ、自分にも言っているようだった。
「俺なんて、まだ“全日本ジュニアでフリーに残れるかどうか”のラインなのに……
お前ら、もうその先を見てるんだな」

 羨望、悔しさ、祝福――
 全部が混ざった表情だった。何も返せない。
 胸の奥がきゅっと締まる。

 そこでコーチが俺と凛音の肩を軽く叩いた。
「いいか、冬馬、凛音。  全日本選手権は“夢の舞台”なんかじゃない。
 あそこは本気で戦う者だけが立てる場所だ」

 厳しいのに、不思議と温度のある声だった。
「推薦される可能性は高い。
 だが、その資格を自分たちで証明してこそ意味がある。
 ここから先は、甘く見れば一瞬で落ちるぞ」

 俺は息を飲んだ。
 凛音は珍しく真面目な顔で頷いている。
「……覚悟しておけ。
 “本当の全国”はここからだ」

 喉が乾いて、ごくりと音がした。
 凛音も、さすがにこの時ばかりは黙ってうなずいた。
 張りつめた空気の中、俺たちは自分の呼吸の音だけを感じていた。


☆彡

 全日本ジュニアの公式練習は、昨日まで同じクラブで滑っていた場所と
“同じ種類の氷”とは思えなかった。
 氷が硬い。
 照明が白く、容赦なく強い。
 選手たちは必要最低限の声しか出さず、リンク全体が静かな戦場みたいだ。
 リンクに足を置いた瞬間、胸の奥がすっと冷えるのを感じた。
 そんな緊張の中で、視界の端に鋭い助走が入った。

 ――園田昂。
 音を置き去りにするようなスピードでリンクを駆け抜ける。
 踏み切りの瞬間、氷が「ギュッ」と低く鳴った。

(……速っ)

 空中で軸が細く締まり、完璧なトリプルアクセルが氷を滑るように降りていった。
 思わず見惚れる。
 全国トップに立つ選手の“音”は、本当に違った。

 着氷後、園田は俺に気づいたのか、軽く滑り寄ってきた。
「あれ……君、葛城くんだよな? 昨年シングルで出てたよね。
 四回転の子の前の滑走だったかな」

「え、あ……覚えていただいてるんですね」
 まさか名前が出てくるとは思わなくて、素直に驚いた。

 園田は穏やかに笑う。
「いや、覚えてるってほどじゃないけどね。滑走順で呼ばれてたのを聞いてただけ。
 で、今年ペアに転向して……しかも凛音ちゃんと組んだんだって?」

「あ、はい。一緒に……」
「すごいよな。凛音ちゃん、女子でも有望株だったし、ジャンプも武器だし。
 ……ケガだけは絶対させられないだろ?周りが何言うか分からないし」

 その一言で、園田が“本物の競技者”だと分かる。
 軽く言っているのに、競技の現実が詰まっていた。

「……はい。そこは、本当に気をつけてます」
 園田は軽くうなずく。

「ペア男子って大変だよな。自分のミスが相手の選手生命に直結する。
 でも、それだけ責任ある立場ってことだ。  ……期待されてるんだよ、君」

 胸の奥が少し熱くなる。
 園田は続けて言った。
「俺は俺で……全日本選手権に行けるかどうか、本当にギリギリだよ。
 ジュニア男子は枠が狭いからね」

(……これがシングル男子の現実か)
(……同じフィギュアのはずなのに、俺はもうそこには戻れない……)

 俺の沈黙を察したのか、園田は声を少し柔らかくした。
「でもまあ、お互い大変だよな。やることは違っても、
“トップに行きたい”気持ちは一緒だろ?」
「……はい」
 気づけば、園田の言葉が胸の奥を揺さぶっていた。
「よし、また練習入るわ。葛城くん、頑張れよ。凛音ちゃんもよろしくな」
「ありがとうございます!」

 園田は軽く手を挙げて、再び音を裂くような助走へ戻っていった。

 その入れ替わりのように、反対側でステップに入る選手がいる。

 ――桐生ほのか。
 女子シングルのトップ。
 昨年、凛音がショートで勝ちながらフリーで逆転された相手。

 ほのかのステップは……音を立てずに“空気”を変えた。
 エッジが氷を軽く押すたびに、
リンク全体の温度がひとつ下がるような静けさが生まれる。
 腕の動きは小さいのに、視線が吸い寄せられる。
 滑っているというより、空気そのものに軌跡を描いていた。

(……レベルが違う)

 息を飲むしかなかった。

 ジャンプの威力では凛音が上だ。でも、この完成度。落ち着き。支配力。
(……凛音が去年勝てなかったの、当たり前だよな)

 ほのかがステップを終え、リンクから上がる
――その瞬間。

「ほのかさん、こんにちはーー!」

 凛音の声が、えげつないほど響いた。
 ほのかの肩がぴくりと揺れ、振り返る。

「……凛音ちゃん? あなた……試合前日よね? 緊張しないの?」
「はい! たのしみです!」

(……この子、本当に本番前って概念あるのか?)

 ほのかの戸惑いが顔にありありと出ているのに、凛音は気づく気配がない。

「さっきのステップ、すっごい綺麗でした!
 空気が“ふわっ”て変わる感じで!」

「あ、ありがとう……」
 ほのかは照れつつも、明らかに“扱いに困ってる人”の顔だった。
 園田が再び助走に戻り、ほのかが振付確認に向かっていくと、

 リンクサイドには俺と凛音だけが残った。
「……すごい人たちでしたね!」

 凛音は興奮気味に言う。
「すごい、って軽く言うなよ……」
 力なく笑った。

 園田の“音”。ほのかの“空気”。

 同じリンクに立っているのに、次元が違った。

(……あれが、日本のトップクラスか)
 俺たちが明日滑るのは、そういう“本物”がひしめく場所だ。

 胸がざわつく。
 怖さと憧れと……ほんの少しの期待。

「先輩、明日たのしみですね!」
(……ほんと、お前は……)
でも、その笑顔に救われる自分がいた。

☆彡

 ショートプログラム「天国と地獄」
 リンクに立った瞬間、胸の奥が静かに燃えるような、
冷えるような……そんな感覚が走った。

 ツイストは前回より明らかに高さが出た。
 凛音の体がふわりと浮き、軽い音を残して俺の腕の中へ吸い込まれる。

(よし……)

 リフトも、軸がぶれない。
 凛音のラインが綺麗に決まり、氷の上で照明を反射していた。

 そして、勝負どころ。

 ――スロートリプルルッツ。
 凛音の体が軌道に乗る。
 空中で回転がほどける瞬間、滞空が“伸びた”のが分かった。

 着氷は、氷が吸い込んだみたいに音がなかった。

(……決まった)
 胸に熱が走った。

 会場の空気が、わずかに揺れるのを感じた。

 だが問題は、ここでは終わらない。
 サイドバイサイド。
 凛音は軽々とトリプルルッツを降りた。

 俺は―― (……っ)
 持ち替えの瞬間、ほんのわずか軸が流れた。回転が足りない。
分かった瞬間にはもう遅くて、氷が近づいてくる。

 転倒。

 会場がざわつくことはなかった。笑いもため息もない。
 ただ、
 “女子トップ選手と組む男子が転んだ”
 その静かな空気だけが流れていた。

(……分かってるよ。足引っ張ってるのは俺だ)

 悔しさが胸の奥に静かに刺さる。
 だが、そのとき。

「先輩、大丈夫です! 次のステップ、行きましょう!」
凛音の声は、責めが一切なくて、明るくて……
 その明るさが逆に、胸に温かさを落としていった。

 演技が終わり、得点が出る。

 スローとツイストでがっつり加点が入り、数字だけ見れば悪くない。

 でも―― (……勝った気なんてしない)
 いや、そもそも“勝ち負け”以前の問題だ。
 出ているのは俺たち一組だけ。順位なんて概念が半分死んでいる。

「先輩! これで“明日は最終滑走”ですよ!」
 凛音が満面の笑顔で言ってきた。
「いや俺らしかいないからな?」
「だから最終です!!」
(……そういう意味ではそうだけども)

 本気で喜んでいる凛音を見て、
 胸の重さがほんの少しだけ軽くなった。

(……フリーで取り返すしかないな)

 自分に言い聞かせるように、ゆっくり息を整えた。


☆彡

 大会二日目の朝。
リンクに入った瞬間、空気が昨日より重く張りつめているのが分かった。
 男子シングルの選手たちは、全員が“あと一枠”を狙って黙り込んでいる。

 園田は中央で助走をつけていて、昨日よりもさらに研ぎ澄まされて見えた。

 その一方で―― 「いや〜……ここまで来れたら十分っしょ」
 三枝はリンクサイドでバナナを食べていた。
 緊張で喉を通らない選手が多い中、三枝だけは“達成感”のほうが勝っている。

(……昨日のフリー進出で完全に燃え尽きてるな)
 苦笑しつつ、俺はリンクへ出た。

 フリー当日の公式練習は、もう“調子を確かめる”段階じゃない。
 本番に向けて、細部を固める時間だ。

「よし、サイドバイサイドから行こうか。
 サルコウのコンビネーション」

「任せてください!」
 凛音は軽い助走から跳び上がる。
 昨日と同じ、いや、それ以上に軽かった。

 俺も踏み切る――が。

(……っ)

 空中でほんのわずか軸がズレた。
 回転がほどけるのが分かった瞬間、嫌な汗が出る。
着氷でエッジが流れ、片手を氷につく。
 ……コンビネーションに入れない。

(またかよ……)
 胸がざわつく。
 昨日と同じミス。
 体は動くくせに、神経だけがやけに硬い。

 凛音が振り返る。
 でも、その表情に“心配”の色は一切なかった。

「あ、それより、こっちやりましょう!」
「……は?」
「スローループ! 今日、跳べる気がするんです!」

(いや、俺のミスはスルーか……?)
 完全にスルーされた。  落ち込む暇すら与えてくれない。

「昨日のスロー、空中の軸すっごく立ってましたよ!
 4回転も、ワンチャンある気がするんですよね! 感覚的には!」
「感覚で4回転跳ぼうとするなよ……!」
「じゃあ! とりあえず助走合わせましょう!  本番は……気分次第で!」
「気分で決めるなよ!!」
 リンクサイドで三枝が笑いをこらえている。
「……お前らペアは気楽でいいなぁ……  いや、凛音ちゃんだけか?」

 遠くでジャンプしていた園田も一瞬こちらを見て、
“困惑と苦笑の混ざった顔”をしていた。

(なんでこう……周りが昨日より緊張してるのに、
 この子だけは変わらないんだろう)

 でも――  その“変わらなさ”に救われている自分もいた。
「先輩、行きますよー!」
「ちょ……待っ――」

 凛音はもう助走に入っていた。

☆彡

 コンビネーションジャンプの練習は、結局一度もうまくいかなかった。

 凛音は軽々とトリプルサルコウ、トリプルトウループのコンビネーションを降りる。
 俺だけが、軸が流れたり、着氷が浅くなって繋げられない。

(……また俺だけだ)

 昨日のショートプログラムでも、凛音は完璧に跳んだのに、俺はルッツで転んだ。
 胸の奥に沈んだままの重さが、今日になってさらに固くなる。
 壁に背を預けて、冷たい息を吐いた。

(……ショートでも、また転んだ)
(しかも、よりによってルッツ)

 園田の跳ぶ音も、ほのかの空気も、全部“別世界”のものに感じる。

同じ氷の上にいるのに、自分だけが取り残されているようだった。
(凛音は……あんなに軽く降りたのに)

 胸の奥がぎゅっと痛む。
 そのとき、足音が近づいてきた。

「……冬馬、まだ引きずってるのか」
 結城コーチだった。腕を組み、じっと俺を見ている。

「……すみません。フリー前なのに」
「謝るな。で――何がそんなに不満なんだ?」

 喉が少し詰まる。
「……昨日の失敗も、今日の練習も……
 凛音は全部跳んでるのに、俺だけ……。
 足、引っ張ってます」

 コーチは深いため息をついた。
「冬馬。
 お前、ほんと悪い意味で“シングル脳”が抜けてないな」
「え……?」

「昨日のショートは――成功だ」

 あまりに即答されて、思わず顔を上げた。
「……成功、なんですか?」

「当たり前だ。  組んで半年で、ツイストもリフトもスローも全部ノーミスだぞ。
 あれを成功と言わずして何と言う」

 言葉が出ない。

「お前が転んだ? サイドバイサイドでか?」
「……はい」
「そんなもん、凛音は一ミリも気にしてない」
「えっ」
「凛音にとって絶対落とせないのは“ペアの技”だ。
 ツイスト、リフト、スロージャンプ。
 そこが完璧なら、ソロジャンプは“おまけ”だ」

「……おまけ」
「そうだ。
 お前は“シングルの常識”で自分を責めてるだけだ。
 ペアの世界じゃ、昨日のショートは“満点”だよ」

 胸の重さが、少しだけ緩んだ。
 コーチは続ける。
「お前たちのスロージャンプ。
 滞空、軸、着氷……どれもジュニアのレベルじゃない。
 凛音の跳び方もすごいが――
 一番大きいのは、お前の“送り出しのタイミング”だ。
 あれがズレたら、いくら凛音でもあの高さは出ない」

「……俺のタイミング……?」
「そうだ。
 力じゃない。
 方向とタイミングの正確さが、スローの高さを作る。
 半年でそこまで安定してる男子なんて、ほとんどいない。
 普通は“組んで一年”かけてやっと形になる技なんだ」

 胸の奥がじわりと熱くなる。

「そもそもだ、冬馬。
 半年でこの舞台に立ててる時点で異常なんだよ。」
「……異常、ですか」
「普通は、
 ペアを組む → 基礎を合わせる → ツイストとスローを身につける → 大会に出る
 ここまでに一年半はかかる。
 それをお前たちは“半年で”全部やって、しかもノーミスで滑ってる」

 息が止まりかける。
「だから、自分を責めるな。
 お前たちは遅れてなんかいない。
 むしろ、誰よりも速いペースで前に進んでる。」

 コーチが肩を軽く叩いた。
「冬馬。
 周りの男子と比べるな。シングル勢と比べるな。
 園田と比べるな。ほのかと比べるな。
 お前は“別の競技”で勝負してるんだ。
 その競技で――お前たちはもう“勝てる武器”を持ってる。」

 胸の中の霧が、静かに晴れていく。

「今日やることはただひとつだ。
 ――弱点を見るな。
“跳ばせる力”を見せつけろ。」

 その言葉が胸の深いところに響いた。
(俺は跳ぶんじゃない。  俺は――“跳ばす”んだ)

 初めてその言葉が、はっきり形になった。


☆彡

 照明が落ち、リンクが薄い青の光に沈んだ。
観客席にはほとんど人がいない。
ざわめきすらない、静まり返った箱のような空間。

その静寂を――
クラリネットの、短い3つの音が切り裂いた。

 フリーの曲は、――ウィリアム・テル序曲   
 第2部の嵐から。
 たった3音。それだけで、空気が反転する。

 遠くのどこかで、嵐が息を吸い込んだような緊張が走った。
(行くぞ……)

 横で凛音が、ほんのわずかに笑った。
「先輩、ここからだよ」
(ああ――わかってる)

 クラリネットがふたたび3音。

 沈み込むような余韻が、氷に細い波紋を走らせる。
 その奥で、低い響きがゆっくりと形をとり始めた。

 まだ風は吹いていないのに、空気だけがざわつく。

(……来る)
 俺たちは助走に入った。

 トリプルツイスト。
 凛音がふっと浮く。
 重力を置き去りにするような軽さ。

 回転は淀みなく、俺の腕の中へ吸い込まれる。

(いい……)

 着氷の柔らかな衝撃に重なるように、音楽が深く沈んだ。
 嵐が、ついにこちらへ迫る。

 次のフレーズが跳ね、嵐によって世界が一度震えた。踏み切る。

 スロートリプルループ。
 凛音の身体が、風そのものになったみたいに上昇する。
弧を描きながら、嵐へ向かう軌跡が氷の上に浮かぶ。
 三回転。
 落下の瞬間、鋭い打音。
 その一撃を切り裂き、凛音は完璧に氷を捉えた。

(よし――これだ)
 だが、嵐はまだ続く。

 リズムが荒れ、風が乱れ、氷がざわつく。
「先輩、合わせますよ!」

 凛音は嵐の乱れさえ味方にするように軽く跳んだ。

 サイドバイサイド・トリプルルッツ。
 凛音は美しく降りる。
 俺は――

(っ……!)

 浅い踏み切り。空中で傾いた軸。
 着氷が流れ、氷が迫る。倒れ込む。

(また……俺だけ)

 嵐の音が、胸に冷たく突き刺さった。

 嵐が遠のき、音楽が透明になった。
 細い糸のような旋律が、氷に真っ直ぐ落ちてくる。
 フルート。そのあとを追うように、イングリッシュホルンの深い音色が寄り添う。

 第3部――《静寂》。  凛音の滑りが、その音の質感にぴたりと変わった。
 跳ばず、急がず、ただ音を追いかけていく。

(……これが“静寂”か)

 俺も息を落とし、凛音をすくい上げる。
 リフト。凛音の身体が音の線をなぞるように浮く。
 腕が空を切り、その影が柔らかく揺れた。俺はその下を静かに支えた。
凛音と音楽の“下支え”になるように。

(……この曲、本当に俺たちのためにあるみたいだ)
 音楽の掛け合いのように、凛音が浮き、俺が支え、
 また凛音が跳ねる。

 その流れで、静かに沈む。
 デススパイラル。
 世界がゆっくり回る。
 凛音の身体が月の軌道みたいに弧を描き、
 スカートが光の尾を引いた。

 エッジの細い音が、フルートの残響と重なる。

(これが……静寂の時間だ)
 嵐とはまったく違う。

 二人でなければ作れない、静かで深い時間。
 音が、少しだけ明るさを帯びた。
 光が差す。凛音と俺は手を離し、助走に入った。

(ここだ……絶対に決める)

 ほんとは凛音が言っていた。

――「ルッツから行こうよ! トリプルルッツートリプルトウ見せたい!」

 でもそれは無理だった。
 俺のルッツは安定しない。

「サルコウからなら……俺も行ける」

 そう言ったときの凛音の笑顔が、胸の奥にまだ温かい。

――「じゃあ、それで“絶対決めよ”。 これは二人のジャンプだから!」

 だから。
 踏み切る。
 音が細く伸びる瞬間、
 静寂の空へ跳んだ。
 凛音は軽く。俺は、必死に。

(……決める!)

 着氷。呼吸がそろう。
 続くトウループも軸が乱れない。
 凛音のエッジが澄んだ音を奏でる。
 俺の着氷もぶれなかった。

(よし……!)

 柔らかい拍手が静寂に溶けた。

(これが……“二人のジャンプ”だ)
 最後の音が氷に溶けた。

 そして。
 トランペットのファンファーレが会場を貫いた。
 胸を一撃で明るくする、誰もが待ち望んでいたあの旋律。

 第4部、スイス軍の行進。

(……来た)
氷が「走れ」と言うようだった。
凛音は完全に音をまとっている。むしろ、音が凛音を前へ押していた。

「先輩、行こう!!」
 凛音の声が弾け、助走に入る。

 ここが、このプログラムの最大の“山”。
 スロートリプルルッツ。 テンポが走り、空気が熱を帯びる。

 観客の気配も変わる。

(ここで――見せる)
 踏み切りと同時に、ファンファーレの一音が空を突いた。

 凛音が、その光に吊られるように跳ぶ。

(高い……! 今日いちばん高い!)

 嵐の高さとは違う。まっすぐ、光の柱のような跳び方。
 三回転。
 軸が陽光のように締まり、着氷は氷をなめるように滑らかだった。
 凛音が笑う。

(これだ……  これが、俺たちの“武器”だ)  

行進曲が祝福するように明るく響く。

 音楽は前へ進む。行進が走る。
 最後のリフト。
 凛音が音を追い越す勢いで跳ね上がる。軽く、速く、まぶしい。

(……飛べ。もっと)  
凛音が大きな弧を描き、腕が風を切る。
 光がその姿を追う。降りた瞬間、凛音が囁いた。

「先輩、最高です!」
(……今のは、お前がすごい)
 でも言葉にならなかった。

 音楽が最後の局面に入る。
テンポがさらに加速する。
「ラストいくよ!」
 凛音の手が俺の手首をつかむ。
 コンビネーションスピン。
 回転が速い。氷が熱を帯びる。

 凛音が姿勢を変えるたび、中心に光が集まるように感じた。
(落ちるな……最後まで)
 音が――  タタタッタタタッ!!

(追い込み……!)  

 フィナーレの一撃と同時に、
俺たちはぴたりと回転を止めた。
 氷に静けさが戻る。小さいけれど、確かな拍手が降りた。

(……終わった)  
胸に、ようやく実感が追いつく。
(これが……俺たちのフリー)

 横を見ると、凛音は息を弾ませながら満面の笑みだった。
「先輩!! 最高!!」

(……ほんと、お前は……)

 でも、
 その笑顔がすべてを救ってくれた。


☆彡

夜のリンクは、もう音がしなかった。
昼のざわめきも、演技の余韻も、ぜんぶ氷が吸い込んだみたいに静かだ。
大会の片づけが進む会場は、少しだけ寂しい。

 白い蛍光灯の光が、廊下に薄く反射していた。
 その中で、凛音だけはテンションが一向に落ちない。

「先輩、今日めっちゃ楽しかった!」  

 何回目だ、このセリフ。
 けど、笑えるくらい自然に言ってくる。

(……ほんと、この子は……)  

 俺のほうは、まだ実感が追いついていない。
あれが本当に自分たちの演技だったのか。
 スローの高さも、最後のスピンの速さも、思い返すほど現実味が薄れる。

 そんなとき、背後から重い足音が近づいてきた。
「──おい、お前ら」
 結城コーチだった。

 昼間よりも、少し顔つきが柔らかい。
「今日のフリーは……最高だった」

 短い言葉なのに、胸の奥が一気に熱くなる。

「ツイストもリフトもスローも、全部安定してた。
 特に最後のスロールッツ。……あれは完全に“ジュニアの高さじゃない”」

 思わず頭が下がった。
「……ありがとうございます。でも、俺、ルッツ……」
「ソロジャンプの話をしてない」
 コーチが即答する。

「今日の“ペアの技”は、全部トップレベルだ。
 スロートリプルルッツなんて、シニアでもなかなかできんぞ」

 凛音が胸を張って入ってくる。
「でしょでしょ! 先輩、今日すごかったんです!」
「いや、お前が……」
「違う。冬馬、お前だ」

 コーチの声ははっきりしていた。
「今日の演技で証明された。
 “凛音を飛ばせるのは、お前だけだ”」

 昼間も聞いた言葉。
 でも、今は胸の奥にしっかり落ちる。

「そして……」

 コーチは一拍置いて言った。
「全日本選手権。
 ──お前たち、推薦された。出場決定だ」

 頭が止まった。
(……本当に?)

 テレビの向こう側の話だと思っていた大会。
 自分には一生縁がないと思っていた舞台。

 それが、急に目の前に置かれた。
「すごい! 先輩!! 全日本! ほんとの全日本ですよ!!」

 凛音が俺の腕をぶんぶん揺らす。
「……俺……全日本、出る……?」
「出るさ。堂々と出ろ。
 今日の演技なら、誰にも文句は言わせん」

その直後、廊下の奥から声が飛んだ。
「おーい! お疲れぇぇ……!」
 三枝だった。

 肩にタオルをかけ、まだ汗が残っている。

「凛音ちゃん、冬馬、優勝おめでと!」
「三枝、フリー大丈夫だった?」
「なんとか転ばずに生き残ったわ! 死ぬかと思ったけど!」

 笑ってるくせに、どこかスッキリしてる顔だ。

「聞いたぞ、お前ら……全日本選手権だって?」
「……ああ。らしい」
「“らしい”じゃねぇだろ! とんでもねぇな……!
 俺なんて、全日本ジュニアでギリギリなのに……」

 その言い方は、羨ましさよりも  
“心から祝福してる”色の方が強かった。

「冬馬、お前……一年でどんだけ景色変えるんだよ」
「……さぁ」

 三枝が笑う。

「すげぇよ。ほんと。
 でも、まあ……お前らなら行ける気がしてた」

 その言葉で、初めて気づいた。
 俺は、もうシングルの景色には戻れない。
 でも――
(……ペアには、ペアにしか見えない景色がある)
 今日は、その“入り口”にやっと立てた。

「先輩、全日本……一緒に行けるね!!」
凛音の声が眩しいくらい明るく響く。

 俺はゆっくり頷いた。
「ああ。  ──一緒に行こう」

 その言葉が、ようやく本心として出てきた。
 廊下の冷たい空気の中で、
 俺の胸だけが、不思議なほど温かかった。


 続編(完結編)かきました。

跳べない俺が君を跳ばせる ー全日本選手権編ー|切手ゆうひ



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