「あかない扉」ー栄養士白井あすかの相談記録・番外編2ー
栄養士白井あすかシリーズのミステリー掌編です。
キャラクターは、こちらから。
短編「昼ごはん革命 ー栄養士白井あすかの相談記録ー」|切手ゆうひ
アラームが鳴る前に、梨花はいつものように目が覚めた。時計を見れば、出勤までまだ余裕がある。
ベッドの向こうで、直哉はまだ深く眠っていた。彼も同じドラッグストアで働く正社員だが、今日は梨花より一時間遅い出勤だ。
(起こす必要はない)
梨花はそっと布団を抜け出し、キッチンへ。冷凍うどんの残りや、夜直哉が買ってきた缶コーヒーの空き缶を静かに片付ける。
梨花は自分の身支度を整える。小さくて割れやすい爪に、透明な補強液を慎重に三度塗りする。これが梨花の出勤前の儀式だった。自分の外側の美しさを守ること。それが、今日一日、笑顔でレジに立つための、自信の「構造」そのものだった。
「直哉、私先にでるから、そろそろ起きなよ」
直哉に声をかけて、部屋を出る。
*
職場に着くと、すぐにバックヤードへ。
消毒液とシャンプーと、お菓子の甘い匂い。開店前の静寂は、梨花にとって唯一、呼吸が深くなる時間だった。
開店準備のルーティンに入る。レジを立ち上げ、POPを貼り替え、そして、清掃へと向かう。
梨花が担当するのは、店の一番奥にある多目的トイレだった。広々とした空間に、おむつ替えスペース、男性用小便器、洋式便器が並ぶ。オストメイト対応の洗浄台も備えられている。多機能ゆえに、清掃箇所が多い。
手袋を嵌め、ルーティン作業を始める。備品チェック、トイレットペーパーの残量確認。
清掃用具を取り出すため、梨花は壁と同じ色をした掃除道具入れのドアの前へ。鍵を開け、中の洗剤とモップを取り出す。こんなところまで施錠するのは面倒だが、盗難予防のためらしい。
梨花は清掃を終え、手を洗った。
蛇口を閉めたとき、ふと、前のことを思い出した。
入ったばかりの頃、「トイレ掃除しておいて」とだけ言われて、
自分なりにやったつもりだったのに、
あとで「うちのやり方と違う」と言われたこと。
(……それ、最初に言ってほしかった)
手を拭きながら、梨花は小さく息を吐いた。
あれからは、もう何も言われない。
あのとき、最初からそう言ってくれればよかったのに――
そんな思いが、ふっと胸をよぎった。
午前九時。静かに自動ドアが開き、一日の忙しさが流れ込んできた。
*
お昼過ぎ、レジの行列が少し途切れた。
梨花はそのまま昼休憩に入る前に、入口近くの陳列棚へ向かう。栄養ドリンクの補充だ。
(よし、今日は直哉と一緒だ)
朝、休憩シフトを確認した。先月、店長に注意されて以来、ずっとずらされていた休憩時間が、今日は珍しく合致している。梨花の心に小さな高揚感が広がる。
もやしと卵のスープを二人で食べる、久しぶりの「ちゃんと食べる昼休み」だ。
昼休憩に入る前、栄養ドリンクのパックを棚に並べていると、背後から声をかけられた。
「あの、すみません」
振り向くと、手に買い物カゴを持った初老の男性客が、少し困惑した表情で立っていた。怒っているというよりは、何かを尋ねあぐねている様子だった。
「はい、何かお探しですか?」
「いや、違うんだ。あそこの扉なんだが」
男性客が指差したのは、店舗の正面入口から数メートル離れたところにある、もう一枚のガラス戸だった。それは、調剤コーナーへ直接つながる外部扉だ。
「あの扉、鍵でもかかっているのかい?押しても引いても、まったく開かなくてね」
その扉は、普段はほとんど使われない。店内からも調剤口を通じて調剤コーナーに入れるため、わざわざ外から使う客は稀だ。梨花にとっても、開店時に鍵を開けるだけの、意識の外にある存在だった。
「ええと、壊れてはいないはずですが……」
梨花は男性客を連れて扉の前に立つ。男性客が言うように、押しても引いても、扉はびくともしなかった。
「ほらね。やっぱり、故障じゃないのかね?」
梨花は、そのガラス戸の取っ手に手をかける。
押す、引く、ではなく――横に、軽く引いた。
シュッ――。
ガラス戸は、静かにスライドして開いた。何の抵抗もない。男性客は、その開いた扉を呆然と見つめた。
「……あ、そうか。横に、ね」
「申し訳ございません。ご案内不足で……」
「いや、こっちが勝手に『押すか引くか』と思い込んだだけだ。ありがとう」
男性客はそう言い残し、バツが悪そうに、店内へと戻っていった。
梨花は、静かに閉まった扉の前で立ち尽くした。
(なぜ、スライドするだけの扉に、誰も気づかないんだろう?)
調剤コーナーへの入口という、少し特殊なこの扉は、
店員にとっては当たり前でも、初めて来た人には、ただの「開かない扉」になる。
その構造の奇妙さが、梨花の心に、今日の昼休憩の話題を見つけたような小さな確信を残した。
*
休憩室の狭いテーブルは、珍しく三人で埋まっていた。
梨花と直哉は、向かい合って座っている。テーブルの上には、もやしと卵が入ったタッパーが二つ並んでいた。湯気の立たない「静かな昼ごはん」。久しぶりに直哉と食べる食事は、それだけで梨花の心を軽くした。
直哉は静かにうどんをすすっている。その隣には、栄養士のあすかが座り、いつものように小鍋でうどんを煮ていた。
「今日は珍しいですね。二人一緒なんて」
あすかが、鍋をかき混ぜながら言った。
「たまたまシフトが合ったんです」
梨花はそう答えて、直哉の方を見る。直哉も小さく頷いた。
「先月、ちょっと注意されてから、ずっと時間ずらされてたからな」
「そうだったんですね」
あすかはそれ以上踏み込まず、うどんを器に移した。少しの沈黙のあと、直哉が箸を止めて言った。
「そういえば、さっき入口の方で、何かあっただろ」
梨花はぱっと顔を上げた。
「見てたんですか?」
「調剤の扉の前で、ちょっと立ち止まってる人がいた。困ってる感じだったから」
「それです」
梨花は箸を置き、身を乗り出した。
「調剤室の横の、あのガラスの引き戸。お客様が、『押しても引いても開かない、壊れている』って」
直哉は「ああ」と声を漏らした。
「あそこか」
「はい。私が横にスライドさせたら、何の抵抗もなく開いたんです。普通の手動の引き戸なのに、『なぜ気づかないんだろう?』って」
梨花は、そのときの男性客の呆然とした顔を思い出し、思わず笑ってしまう。
「お客さん、あの扉を自動ドアか、せめて普通の開き戸だと思い込んでたみたいで。押すか引くか、しか考えてなかったんです」
直哉は、もやしを一つ箸でつまみながら言った。
「まあ、俺たちは毎日使ってるからな。横にスライドするのが当たり前になってるけど」
少し考えてから、続ける。
「たまに、外で立ち止まってる人は見てたよ。でも、すぐ諦めて正面の自動ドアから入り直してくるから、開け方が分からないだけだとは思ってなかった」
梨花は目を見開いた。
「やっぱり、そうなんですね」
「店のスタッフにとっては当たり前でも、お客さんにはそうじゃない。
それが、ただのガラス戸を『開かない扉』にしちまうんだな」
直哉の言葉が、梨花の中にあった違和感に、ぴたりと形を与えた。梨花は深く頷く。
「そう、それです。『開かない扉』。なんだか、ミステリーみたいじゃないですか?」
あすかは、二人のやりとりを静かに聞きながら、湯気の立たない器をテーブルに置いた。
*
「ミステリーね。ああ、それなら梨花が今言った『思い込みが作る開かない扉』の話で、俺も似たような経験があるよ。つい、ひと月くらい前の話だけど」
直哉は、タッパーの中のうどんを軽く混ぜながら、少し呆れたような表情を見せた。
「うちの多目的トイレでのことなんだ。覚えてるか?お客さんからすごいクレームが来た。『トイレの個室が、ずっと使われている!』って」
梨花は前のめりになった。
「え、多目的トイレって、あそこ全体が一人用ですよね?」
「そうだよ。だから、正直、何を言ってるのか分からなくてさ。とりあえず見に行ったんだけど、中は空いてた。男性用小便器だって、誰も使ってなかった」
直哉はそこで声を潜めた。
「ところが、お客さんが言う通り、ある一つのドアだけ、確かに鍵がかかっていた。それが、掃除道具入れのドアだったんだ」
梨花は小さく息を呑んだ。直哉は思わず笑いをこらえた。
「ということは……」
「そう。お客さんは、あの道具入れのドアを、『鍵がかかっている=誰かが入っている個室だ』と思い込んでいたんだ。『鍵がかかっているせいで、ずっと待たされている』って、めちゃくちゃ怒ってたよ」
梨花は、朝自分が施錠を確認した、あの壁と同じ色の小さなドアを思い浮かべた。店員にとっての「ただの収納」が、お客にとっては「謎の占拠者」が潜む「開かない個室」になっていたのだ。
「あのさ、多目的トイレって広いだろ?あの空間だと、用具入れのドアも、個室のドアみたいに見えちまうんだ。俺たちが『鍵は道具を守るもの』だと思っている間に、お客さんは『鍵は人間が入っているサインだ*って、勝手に推理しちゃったんだ」
直哉は肩をすくめた。笑い話で済んだのは幸いだった。
「そのお客さんに鍵を開けて中を見せたら、モップとトイレットペーパーの山が出てきて……。怒るどころか、顔を真っ赤にして『私は何をしていたんだ』って、すごく恥ずかしそうに謝られたよ。あれは、さすがに笑っちゃいそうになったね」
直哉はうどんを一口すすり、タッパーの蓋を閉じた。
「結局、俺たちが『当たり前』だと思ってる構造が、お客さんからしたら全部、『開かない扉の謎』なんだよな」
二つのエピソードが揃い、休憩室には、日常の滑稽さに気づいた笑いの空気が満ちた。
その様子を、あすかは小鍋の湯気を眺めながら、静かに聞いていた。しかし、その穏やかな目元に、わずかに冷たい光が宿り始めていた。
直哉は、笑いながらタッパーを片付け始めた。
「まあ、そう考えると、あの調剤の扉も、用具入れの扉も、
壊れてたわけじゃないんだから、良かったよな。
客の勘違いで済むなら、平和なもんですよ」
梨花も頷いた。
「そうですよね。ただの笑い話。
まさか、あの用具入れに『誰か入ってる』って
本気で信じる人がいるなんて」
そのとき、あすかが、菜箸を止めた。
小鍋の湯気が、ふっと静まる。
「……本当に、笑い話でしょうか」
梨花と直哉は、思わず箸を止めた。あすかは、二人を責めるでもなく、静かに続けた。
「あなたたちにとっては『勘違い』でも、お客さんにとっては、『分からない』という状態そのものが、不安になります」
直哉が、わずかに眉をひそめる。
「不安、ですか」
「ええ。
『開かない』理由が分からないとき、人は、
構造より先に感情で動きます。中に誰かがいるかもしれない、
何かあったのかもしれない――そう考えてしまう」
梨花は、無意識に自分の指先を見つめた。
「用具入れの前で待っていたお客さんも、
もしかしたら、鍵を壊してでも確かめようとしたかもしれません。
それは非常識だからではなく、『怖かった』からです」
休憩室に、しんとした空気が落ちた。
「さて」
あすかは、器にうどんを移しながら言った。
「このまま『当たり前』を共有しないままにしますか。
それとも、分からない人のために、
構造を少しだけ整えますか」
休憩室の蛍光灯の下で、もやしの湯気がゆらめいていた。二人の顔に、笑いの空気はもうなかった。
*
「これは、別のドラッグストアで栄養相談をした時の話です。
もう十年くらい前になりますが」
あすかは、そう前置きしてから続けた。
「そこの多目的トイレには、少し不思議な張り紙がありました。
ドアに小さく、でも目に入る位置に、
『赤表示の時は使用中です。中に人がいます。』
とだけ、書いてあったんです」
梨花は眉をひそめた。
「え……それって、当たり前じゃないですか?
普通、赤なら使用中ですよね」
「ええ。でも、あえて書く必要があった。
つまり、その“当たり前”が、共有されていなかったということです」
直哉は顎に手を当てた。用具入れの件を思い出し、しばらく考えた。
「つまり、お客さんは『鍵が閉まっているのに開かない』と、『壊れている』か、あるいは『中に誰もいない』と誤認していたってことか? 鍵が閉まっているのに、使用中だと確信できない状況があった?」
「その通りです」あすかは頷いた。
梨花は混乱した。
「でも……どうして、そんな誤解が生まれるんですか?
開かないなら、普通は“誰か使ってる”って思いませんか?」
あすかは、湯呑を静かに置いた。
「そこが、ズレるところなんです。
お客さんは、最初から『鍵がかかっている=使用中』
という前提を、持っていません」
梨花は、言葉を失った。
「え……?」
「だから、
『開かない』という事実だけが先にあって、理由が分からない。
理由が分からない状態は、人を不安にします」
あすかは続けた。
「これが、まだ“誤解”の段階です。でも、問題はその先でした」
あすかは表情を引き締めた。
「ついに、鍵が力ずくで破壊される事件がおこったのです」
梨花は、思わず絶句した。口を覆い、顔色を変える。
「え……」
「鍵が壊されたということは、そのとき中に人が入っていた可能性があります。中に入っていた人にとっては、扉の外で誰かが破壊行為を行っているわけですから、それは恐怖以外のなにものでもありません」
直哉の顔も強張った。用具入れの扉が壊される、という可能性が、具体的な「事件」として現実味を帯びたからだ。
梨花は、感情を抑えきれずに尋ねた。
「でも……鍵がかかっていたら、使用中って、なんで分からないんですか?
私たちには、一番当たり前のことなのに!」
あすかは、その言葉を遮らなかった。
湯呑を静かに置き、少しだけ間を置いてから答える。
「そう。その『当たり前』が、なぜかお客さんには見えない。
そこに、構造の盲点があります」
直哉が低く息を吐いた。
「つまり……一部の非常識な人の問題じゃない、ってことか」
「その通りです」あすかは言った。
「『鍵がかかっている』というクレームが何件も出たという事実は、
壊した人だけの特別な問題ではないことを示しています。
多くの人が、同じところで、同じ誤解をした」
「この『鍵がかかっていたら使用中だと、なぜわからないのか?』という謎を、少し考えてみてください」
*
梨花は、頭を抱えた。
「でも……どうしてですか?
鍵の位置も普通だし、特別な仕組みでもないですよね」
直哉も首をひねる。
「鍵そのものの問題じゃない気がする。
もし鍵の問題なら、用具入れの件も、あんな笑い話では済まなかった」
あすかは、静かに視線を上げた。
「ヒントは、さっき直哉さんが話してくれた、
掃除道具入れの扉と同じです」
梨花ははっとして、朝の清掃を思い出した。壁と同じ色の、小さなドア。
鍵がかかっているだけで、「誰かが入っている個室」に見えた、あの誤解。
直哉が、ゆっくりと言葉をつなぐ。
「……空間、か」
あすかは頷いた。
「多目的トイレは、一つの大きな個室です。
でも、それを知らなければ、
『中にいくつか個室がある集合トイレ』に見えてしまう」
直哉の目が見開かれた。
「だから、入り口の鍵は……
『個室が使われている』じゃなくて、
『店が全体を施錠している』ように見えたんだ」
「その通りです」
あすかは静かに続けた。
「店員は毎日掃除をします。
その空間がどんな構造で、鍵が何のためにあるかを知っている。
でも、お客さんは違う。店のトイレなんてめったに使わないんです。
だから、その前提が共有されていなかった」
梨花の胸に、朝の記憶が鮮明によみがえった。
――自分なりにやったつもりだったのに、
あとで『うちのやり方と違う』と言われたこと。
(……それ、最初に言ってほしかった)
梨花は、思わず口を開いた。
「……私」
声が、少し震えた。
「今日の朝、思い出したんです。
入ったばかりの頃、トイレ掃除をして……
『うちのやり方と違う』って言われたこと」
直哉が、静かに梨花を見る。
「私は、ちゃんとやったつもりでした。
でも、何が正解か、最初は教えてもらえてなかった」
梨花は、ゆっくりと顔を上げた。
「お客さんも、同じなんですよね。
間違えたんじゃなくて……
最初から、教えてもらえてなかった」
あすかは、穏やかに微笑んだ。
「ええ。
だから、直すべきなのは、人ではなく、構造です」
あすかは、紙の端にペンを走らせた。
簡単な図と、短い言葉。
『横にスライドしてください』
『清掃用具室です。個室ではありません』
『赤表示の時は使用中です。中に人がいます』
「張り紙は、私たちの『当たり前』を、
お客さんの『当たり前』に翻訳するためのものです」
直哉は、その紙をじっと見つめ、静かに頷いた。
「よし。今日のうちにやろう。
壊されてからじゃ、遅いからな」
湯気の消えた休憩室で、
三人は同じ方向を見ていた。
それは、
誰も迷わず理解できる、
『開いた構造』をつくる、という目標だった。
*
休憩室を出る前、梨花はふと、自分の指先を見た。
透明な補強液を重ねた爪が、
蛍光灯の光を受けて、かすかに反射している。
割れないように、欠けないように。
自分で、自分を守るためにつくった小さな構造。
――それを、ちゃんと「伝える」ことも、
同じくらい大切なんだと、今日、ようやく分かった気がした。
梨花は、爪先をそっと握りしめてから、
レジへ戻った。
