掌編「四十七手の未来」
毎週金曜日は掌編をアップしてます。
今回は、将棋の話です。
1995年春。
阪神・淡路大震災の話題がまだ途切れず、東京では地下鉄サリン事件も起きた年だった。それでも、将棋の街・山形県天童市では、例年通り小学生名人戦が行われていた。
決勝戦は、すでに“勝者”が決まっているかのような空気に包まれていた。
渡部晃(わたべ こう)、小学5年生。
4年生で小学生名人を獲得し、今年も優勝して奨励会入りが確実と噂される天才。道場では「次の名人」とまで言われている。
対するは、藤井貴子(ふじい たかこ)、小学4年生。
無名。女子が決勝に残ること自体、ほとんどなかった。観客の多くは「ここまでよく頑張った」と思っていた。
しかし、渡部だけは違った。
(決勝は勝って当然。問題は内容だ。)
駒が並べられていく。
周囲の視線は、明らかに自分へ集まっていた。期待。確認。品定め。
そんな空気には、もう慣れている。
振り駒により、先手は貴子になった。▲7六歩と角道をあける。
渡部は堂々と△8四歩と応じる。将棋の王道だ。
貴子は、三手目で▲6八飛と、飛車を横に動かした。四間飛車だ。
(振り飛車か、これは勝ったな)
渡部は、振り飛車相手の戦いに絶対の自信を持っていた。
渡部の強さは、「穴熊」と呼ばれる堅い守りだった。王を深く囲い、簡単には崩れない陣形を作る。一度完成すれば、子どもの将棋ではまず負けない。
振り飛車の守備は固い。しかし、穴熊はそれ以上に固い。
現代将棋で振り飛車は苦しい。それが常識だった。
最初の違和感は、貴子の▲4六歩だった。
続いて▲3六歩。振り飛車なら、先に守る。玉を囲ってから戦う。それが定跡だった。
(定跡を無視してるのか?)
渡部は気にせず、自分の陣形を整えていく。
だが、違和感は消えなかった。
貴子の玉は、動かない。守りを固める前に、銀が前へ出てくる。
そして、21手目。▲3七桂。ここではじめて、渡部の手が止まった。
銀、桂の動きが速すぎる。攻撃の気配を漂わせている?
しかし、玉を囲わずに攻めるなど、素人みたいな将棋だ。
ほかの男子たちは、この棋風に翻弄されて自滅したのだろう。
(俺は、ぶれない。自分の得意を貫くまでだ)
△1二香。穴熊に囲えれば負けるわけがない。
そう思った瞬間、貴子の銀が前に動き出す。▲5六銀から▲6五銀。
(ちゃんと対応すれば問題ない)
渡部は丁寧に受けていく。しかし、貴子は止まらない。
29手目▲2五桂。
渡部の手は、完全に止まった。
(なんだ、これは?)
完全に、想定外。読みの外側からの手だった。
こんな手が成立するはずがない。そう思って読み進める。
だが、どの順を選んでも、うまくいかない。
(この子、何者だ?)
見た目に騙された。
年下の少女だと思い、侮っていた。自分と同格、いやそれ以上。
こんな手は、プロなら指さない。いや、指せない。しかし……。
渡部の穴熊は、完成する前に崩壊した。
渡部は懸命に受け続けた。しかし、盤面は少しずつ悪くなっていく。
一手ごとに、逃げ道が消えていく。ワンサイドゲーム。
渡部の玉は丸裸にされている。
貴子の玉は、全く動いていない。だが、全くスキがない。
そして……
貴子の▲6三歩成をみて、渡部は静かに頭を下げた。
会場が静まり返る。早すぎる。そして、強すぎる。
無名の少女が、“将来名人確実”と言われた天才を倒した。
たった、四十七手の早すぎる結末だった。
翌日。
「四十七手で投げる馬鹿があるか」
師匠の声が、教室に響いた。
「相手は居玉だったんだぞ。まだ勝負はあった」
渡部は黙っていた。
反論しても無駄だと思った。
昨日の対局後、貴子と交わした会話を思い出す。
「きみ、奨励会受けなよ。一緒にプロになろうよ」
「女子でもプロ棋士になれるの?」
「きみがプロになってくれないと、俺が困るんだ」
「困る?」
「女子に負けたって、一生言われる。だから、きみが全部ぶっ倒して証明してくれよ」
「渡部君も、強かったよ」
「当たり前だよ。でも、きみの方が何倍も強い。それを証明してくれなければ俺が困るんだ。奨励会、受けてくれ」
「……うん、親に相談してみるね」
(師匠だって、貴子には勝てない)
渡部はそう確信していた。
今は、誰も信じないだろう。
昨日の四十七手が、将棋の常識そのものを変えてしまったことを。
以上です。明日、創作メモをアップします。
