短編「真夏の夜の冷凍庫」
夜十時。
大阪の下町は、昼間の熱気をそのまま抱え込んで、
じっとりとした空気を漂わせていた。
アスファルトはまだ熱を持っていて、
蝉の声が遠くで名残惜しそうに鳴いている。
風はない。空気は重い。夜なのに、誰も涼しさを口にしない。
一軒の店が、静かにシャッターを開ける。
看板はない。照明も控えめ。
ただ、冷凍庫の低い唸りだけが、店の奥から響いている。
氷室陽は、無言で冷凍庫の扉を開ける。
中には、整然と並べられたアイス。
どれも、ラベルはない。色も地味だ。
けれど、陽は一つひとつを指先で確かめながら、丁寧に並べ直す。
扇風機が回る。
店内の空気は、外よりも少しだけ冷たい。
それでも、汗は止まらない。
陽はタオルで首元を拭きながら、カウンターに立つ。
最初の客は、Tシャツ姿の若い女性。
スマホを見ながら、無言でカウンターに立つ。
陽は冷凍庫からアイスをひとつ取り出し、紙袋に入れて差し出す。
女性は「ありがとう」とだけ言って、店を出ていく。
扉が閉まると、冷凍庫の音がまた静かに響く。
二人目の客は、スーツ姿のサラリーマン。
ネクタイを緩め、顔には疲れが滲んでいる。
カウンターに腰を下ろすと、陽の顔をちらりと見て、声をかけた。
「兄ちゃん、若いなあ。高校生くらいかと思ったわ。いくつや?」
陽は冷凍庫の扉を開けながら、短く答える。
「二十五です」
「へえ……しっかりしてんな。こんな時間に店開けてて、ひとりか?」
「はい」
「なんか、ええな。夜にアイスって、ちょっと贅沢やわ」
陽はアイスを取り出し、カウンターに置く。
サラリーマンは受け取って、黙って一口食べる。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「……なんか、昔の味がするな」
陽は、何も答えない。
ただ、冷凍庫の音が、静かに鳴っている。
深夜零時前。
外の空気はまだ熱を持っていて、
アスファルトの匂いがじわりと立ち上ってくる。
店内は扇風機の風がゆるやかに回っている。
冷凍庫の唸りが、低く響いている。
扉が開いた。
若い男女が入ってくる。
女はノースリーブにサンダル、男はTシャツにジーンズ。
二人とも、汗をかいていた。
「こんばんは〜!まだやってるんですね」
女が明るく声をかける。
氷室陽はカウンターの奥から顔を上げ、短くうなずいた。
「夜にアイス屋って、珍しいな」
男が言う。
「なんでこの時間なん?」
陽は冷凍庫の扉を開けながら、ぽつりと答える。
「暑いので」
女がメニューを見て、目を輝かせた。
「え、わらび餅アイス?なにそれ、気になる〜」
陽は黙って冷凍庫からアイスを取り出し、カウンターに置く。
女が身を乗り出して覗き込む。
「見た目、めっちゃシンプルやん。手作りですか?」
「はい」
「昔から作ってたん?」
男が尋ねると、陽は少し間を置いてから答えた。
「……いえ」
女が一口食べる。
口に含んだ瞬間、表情が変わった。
「……これ、なんか懐かしい味する」
男も一口食べて、目を細める。
「ほんまや。駄菓子屋の奥の方にあったやつみたい」
女は少し黙ってから、ぽつりと語り出した。
「そうだ。おじいちゃんと食べたわらび餅、こんな感じやったかも」
「へえ、どこで?」
「近所の商店街。夏休みの昼下がり。暑くて、汗だくで、でもおじいちゃんはずっと笑ってて」
男は笑った。
「ええ話やな」
「うん……なんか、思い出しただけで泣きそう」
陽は黙って、冷凍庫の扉を静かに閉めた。
「なあ、店長さん……なんでこんな味、作れるん?」
男が尋ねる。
陽は目を伏せたまま、短く答える。
「……記憶です」
「誰の記憶?」
女が聞くが、陽は何も言わなかった。
二人はしばらく黙ってアイスを食べていた。
やがて男がぽつりとつぶやく。
「……この人、なんか変わってるな。ほんまに、ただの店主なんか?」
女は陽をちらりと見て、笑った。
「でも、嫌いじゃないかも」
扉が閉まる。
店内は再び静寂に包まれる。
冷凍庫の奥で、わらび餅アイスが静かに凍っている。
深夜一時。
店の外はまだ蒸し暑く、空気は重い。
扇風機の風も、冷凍庫の唸りも、少し疲れているように聞こえる。
扉が勢いよく開いた。
陽が顔を上げると、男が立っていた。
Tシャツにジーンズ、缶チューハイを片手に持っている。
目が合った瞬間、男は一歩踏み出して言った。
「……は?お前、ここで何してんねん」
陽は冷凍庫の扉を静かに閉め、カウンターに戻る。
「店です」
男――タケルは一瞬、言葉を失った。
「……いや、待て。お前、氷室やんな?芸人の。
あの、いつもテンション高いやつ」
陽は答えない。
タケルは店内を見回し、声をひそめた。
「なんやねんこの空気。お前、こんな静かなとこ、
似合わんやろ。舞台のとき、ずっと喋ってたやん」
陽は冷凍庫からアイスをひとつ取り出し、カウンターに置く。
「なんで黙ってんねん。ボケのくせに、ツッコミ待ちか?」
「……来た人には、出します」
タケルはアイスを見つめる。
「お前、昔から明るかったやん。ネタ合わせのときも、ずっと笑ってたやん。なんで、こんな……冷たい顔してんねん」
陽は黙っている。
タケルは缶チューハイを開け、一口飲んでから言った。
「『冷蔵庫の中に住んでる妖精』ってネタ、覚えてるか?
あれ、お前が書いたやつやろ」
陽は少しだけ目を伏せる。
「……覚えてます」
「ウケへんかったけど、俺は好きやったで。
意味わからんけど、なんか、お前っぽかった。
……いや、今思えば、こっちのお前か?」
沈黙が落ちる。
冷凍庫の音だけが、店内に響いている。
「俺はまだ、舞台立ってる。
お前は、こんなとこで冷たいもん売って、何がしたいん?」
陽は、アイスをもうひとつ取り出して、並べる。
「……話すには、冷ましたほうがええんです」
タケルは笑った。
「冷ました?お前が?……ほんまに、あの陽か?」
陽は答えない。
ただ、冷凍庫の扉を静かに閉める。
タケルはアイスを手に取り、一口食べる。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「……なんか、昔の味がするな」
陽は、何も言わなかった。
ただ、冷凍庫の音が、静かに鳴っている。
午前二時。
店の前に、ゆっくりとした足音が近づく。
扉が開くと、小柄な老人の女性が顔をのぞかせた。
「……まだ、やってるかい?」
陽はうなずく。
「どうぞ」
おばあちゃんは、ゆっくりとカウンターに座る。
タケルはまだ店の隅にいて、缶チューハイを手に黙っている。
「眠れなくてね。暑いし、昔のこと思い出しちゃって」
陽は冷凍庫からアイスを取り出す。
「いつものでいいですか?」
「うん。あんたの作る、あのミルクのやつ。
優しい味がするから、好きなんだよ」
タケルがちらりと目を向ける。
「常連なんすか?」
おばあちゃんは笑う。
「そりゃそうさ。こんな時間に開いてる店なんて、ここしかないもん」
アイスを受け取りながら、彼女はぽつりと続ける。
「この店ね、陽くんのおじいさんがやってたんだよ。
昭和の終わり頃から、ずっと。
冷凍庫ひとつで始めた、夜だけのアイス屋さ」
陽は黙って冷凍庫の扉を閉める。
「おじいさんは、無口な人だったけど、アイスだけは丁寧に作ってた。
『冷たいもんは、心を落ち着ける』って言ってね。
夜にしか開けなかったのも、そういう理由だったらしいよ」
タケルは、陽を見つめる。
「……それ、継いだんか?」
陽は少しだけうなずく。
「舞台は、昼の仕事。ここは、夜の仕事です」
おばあちゃんは笑う。
「昼は笑わせて、夜は静かに癒す。あんた、器用だねぇ」
タケルは、アイスを手に取り、一口食べる。
そして、ぽつりとつぶやく。
「……なんか、舞台より深いな」
陽は、冷凍庫の扉を開ける。
次の客のために。
この作品は、「ゆうひとアイの創作教室」のために
1時間の時間制限で作った短編です。
制作過程は、すべて発表します。
マガジン「ゆうひとアイの創作教室」にどうぞ。
ゆうひとアイの創作教室「真夏の夜の冷蔵庫」 はじめに|切手ゆうひ
メインアイデア:アイ(AI)
プロット:アイ&切手ゆうひ(人間)
執筆:アイ
修正:切手ゆうひ
