掌編「跳べない俺が、君を跳ばせる」
リンクの天井が、やけに低く見えた。
助走、踏み切り、回転――また、足りない。
氷に叩きつけられる音が、静かなリンクに響いた。
痛みより先に、ため息が出る。
何十回目だろう。トリプルアクセル。
回転が足りない。着氷で腰が落ちる。
リンクの端から、「もう一回」の声。
「……跳べる気がしません」
「だろうな、冬馬。」結城コーチは手帳を閉じた。
「お前、ペア向きだ。」
「……は?」
「リフト、ツイスト、スロー。お前の体幹なら、女子を持ち上げられる。」
「え、いや、俺、シングルですけど。」
「トリプルアクセルより簡単だ。」
「嘘だ。」
コーチは氷の上に小さな線を描いた。
「跳ぶのはお前じゃない。跳ばせる側になれ。」
そう言われても、意味がわからなかった。
女子を持ち上げて滑る競技なんて、テレビで数回見たことがある程度だ。
でも、あのジャンプに失敗するたびに、自分の中で何かが冷めていくのを感じていた。
「ペア、やってみろ。パートナーは……まあ、そのうち紹介する。」
「え、誰なんですか」
「いい相手だ。ちょっと変わってるけど。」
その時の“ちょっと”が、あんなに致命的な意味を持つとは思わなかった。
☆彡
次の週、結城コーチに呼び出された。
「ペアの相手、紹介する」と言われ、リンクへ向かった。
リンクの端でストレッチしていた少女が顔を上げる。
結城凛音。
このクラブのホープ。
高一にしてトリプルアクセルを成功させた、全国でも名の知れた天才。
――そして、結城コーチの一人娘でもある。
「……なんで、その彼女がペアやるんですか?」
「本人の希望だ」
「いや止めましょうよ。誰も止めないんですか?」
「挑戦は自由だ」
「自由って、命がけでも自由なんですか!?」
凛音はにこにこしながら、氷上を滑ってきた。
「冬馬先輩ですよね! よろしくお願いします!」
「……一応、はい。」
「ずっと見てました。ツイスト、綺麗でした!」
「いや、まだ練習もしてないけど?」
「頭の中では、もうできてます!」
ああ、そういうタイプか――。
――この時点で嫌な予感しかしなかった。
「ペアやりたい理由、聞いてもいいか?」
「投げられる感覚が好きなんです!」
「それ、物騒な趣味だな!」
結城コーチ(=父)が後ろで腕を組んで頷いている。
「お前たち、いいペアになる」
「ならないと思います!!」
氷の冷気より、背筋が冷えた。
トリプルアクセルを軽々跳ぶ天才が、よりによって“人に投げられたい”なんて言い出す。
誰か、ほんとに止めてくれ。
☆彡
初日の練習は、想像よりもずっと静かに始まった。
氷の上に立つと、隣の凛音が小さく息を吐く。
見た目は小柄なのに、どこか重力を感じさせない。
「スロージャンプ、やってみましょう!」
「いや、いきなりは――」
「感覚でわかります!」
その“感覚”を信用して転倒した選手を、僕は何人も見てきた。
しかし、凛音は止まらなかった。
軽く滑り出して、僕の手を取る。
「合図、いらないですよね?」
「いや、いる!」
次の瞬間、彼女は自分から跳び上がった。
「おいっ!」
息をのむ。
投げたあと、手の中の重さが消えて、時間が止まった。
彼女は空中で体をひねり、氷の上に――ほとんど完璧な姿勢で降りた。
……が、着氷の瞬間、わずかにバランスを崩す。
スピンするように一回転しながら、膝をついた。
「だ、大丈夫か!?」
「はいっ! 今の、あとちょっとで決まりました!」
その顔が本気でうれしそうだから困る。
結城コーチがリンクの外で手を叩いていた。
「いいぞ! 重心は悪くない!」
「悪くないどころか、いま物理法則ギリギリだったぞ!」
凛音はケロッと笑って、スケート靴の刃を軽く拭いた。
氷には転倒の跡がほとんど残っていない。
倒れたはずなのに、まるで受け身の天才みたいに立ち上がっていた。
――この子、本当に“跳ぶ”ことしか考えてない。
その瞬間、胸の奥がざらついた。
このままだと、いつか本当に怪我をする。
投げられる側の彼女が、無傷で笑えるのは、誰かが受け止めているからだ。
それを、俺がやらなきゃ。
「もう一回だ」
「今度はちゃんと投げてくださいね!」
「……言われなくても。」
息を合わせて助走をとる。
凛音が空を切り、回転する。
氷を踏む音。完璧な着氷。
コーチが叫んだ。
「スロージャンプ、成功だ!」
凛音が振り返って、笑う。
「ね、言ったでしょ? 感覚でいけます!」
「……もう感覚だけじゃなく、俺もついてく。」
リンクの光が反射して、二人の影が長く伸びた。
それはまだ不器用で、不安定で、
けれど確かに――“ペア”だった。
☆彡
四か月後。
あの日のスローが決まってから、俺たちのペアは見違えるほど形になってきた。
ツイストも、リフトも、いまでは八割以上の成功率。
大会用の構成を組めるレベルになったのは、我ながら奇跡だと思う。
今日の練習後、結城コーチがホワイトボードを引っ張り出してきた。
上には太い字で「SP構成」と書かれ、その横に雑な字でこうある。
> 出場:西日本ジュニア選手権(全日本ジュニア予選)
――つまり、この大会で結果を残せば、全国に行ける。
ジュニアのペアの部門は参加数が非常に少ない。0の時もある。
が、ここを通らないと代表にはなれない。
俺たちにとっては初めての“本番”だ。
「さて――大会のプログラムを決めるぞ。」
「大会って……ほんとに出るんですか」
「今回は、出たら優勝だ。」
「一組しかいないですからね。」
「勝率100%。」
「ドヤ顔しないでください。」
コーチが項目を読み上げる。
「ツイストは?」
「トリプルで!」凛音が即答した。
「成功率八割って言っても、まだ怖ぇんだけど。」
「八割あれば勝ちです!」
「残り二割が大事故なんだよ!」
「リフトはラソフォーでいこう。」
「それ以上は俺の肩が壊れます。」
「壊れても高さ出せ。」
「父親が言うセリフじゃない!」
凛音がペンを取る。
「サイドバイサイドはトリプルアクセルで!」
「いや、俺が跳べねぇよ!」
「じゃあトリプルルッツにしましょう。」
「それでも十分難しいんだが?」
構成が決まり、次は音楽の番だった。
「で、曲は?」とコーチ。
凛音の目が輝く。
「私、考えてきました!」
嫌な予感しかしない。
「スーパーマリオコレクション!」
「……は?」
「ステージ1のテーマで助走して、コイン取る音でツイストに入るんです!」
「やめろ!!」
「ジャンプの“ピョーン”って音、ぴったりだと思うんですよ!」
「やめろって!!!」
コーチが腕を組んで唸った。
「……悪くない。」
「やめてくださいってコーチまで!?」
「観客ウケは取れる。」
「ウケ狙いで全国行く気ですか!」
「じゃあ、“マリオがダメなら”何がいいんですか?」凛音が言う。
「……妥協して“天国と地獄”とかでいいだろ。」
「えー、地味!」
「どこが地味だ! 地獄って書いてあるぞ!」
コーチがボードにさらっと書いた。
> 音楽:天国と地獄(オッフェンバック)
「決まりだ。」
「なんで決まるんですか!?」
「マリオよりマシだからだ。」
「基準が雑!!」
凛音は腕を組んで小さく呟いた。
「じゃあ、せめて速めのテンポにしてくださいね。」
「いや無理!ラストが地獄の中の地獄になる!」
笑い声がリンクの外まで響いた。
四か月前、無茶しか言わなかった天才少女が、
いまは本気で“地獄”を楽しもうとしている。
そして俺は、それを投げる側として支えるしかない――
そんな自覚が、ようやく腹の底に落ちた。
☆彡
音楽が鳴った瞬間、リンク全体の空気が変わった。
観客席には、他のカテゴリの選手やコーチ、家族連れの観客。
地方大会とはいえ、正式な試合の熱気がある。
それでも、スピーカーから流れる《天国と地獄》の序奏は、
この狭いリンクをまるで国際大会みたいに感じさせた。
「行くぞ」
「はい!」
リンク中央でポーズを取る。
テンポが上がる。助走、リズム、跳躍――
最初のツイスト。
凛音が軽く踏み切った瞬間、空気が変わる。
彼女の体が氷上三メートルの高さまで舞い上がり、三回転。
キャッチの衝撃で肩が軋む。
それでも、崩れない。
「よし……!」
リンクの外から、結城コーチの声が聞こえる。
観客席に拍手がぱらぱら。
続いて、ラソフォーリフト。
踏み切り、凛音を頭上に掲げる。
照明が反射して、彼女のスカートが光を散らした。
リズムは狂わない。音楽の速さにギリギリで追いつく。
そして――スロートリプルルッツ。
助走、タイミング、投げる瞬間。
両手から、凛音の体が完璧な放物線を描く。
空中で三回転。
着氷――刃が氷を切る音が、信じられないほど静かだった。
完全着氷。ブレなし。
彼女の笑顔が、リンクの照明を反射して眩しい。
「……跳んだ。」
喉から自然に声が漏れた。
跳べない俺の代わりに、
彼女を――いまこのリンクで、誰よりも高く跳ばせた。
その一瞬だけ、時間が止まった。
――だが。
サイドバイサイドのトリプルルッツ。
中盤の見せ場。
凛音が美しく跳び上がり、完璧な着氷を決めた。
隣で俺がわずかに遅れ、氷を踏み損ねて派手に転倒する。
「っ……!」
凛音が一瞬こちらを見て、笑った。
「大丈夫です! 予定通りです!」
「予定に入ってねぇ!!」
《天国と地獄》のラストが鳴り響く。
ステップ、コンビスピン、デススパイラル。
全力で音に追いつき、演技が終わった。
静寂。
審判席からも、小さく拍手が起きる。
観客席のあちこちでも、温かい拍手が広がっていく。
結城コーチが立ち上がり、笑顔で言った。
「最高だった!」
氷に手をついて息を整える。
凛音が隣に滑ってきて、手を差し出す。
「ね、完璧でしたね!」
「どの口が言ってんだ……」
「でも、跳べましたよ?」
笑いながら、その手を取った。
氷の冷たさよりも、手の熱が強かった。
――跳べない俺が、君を跳ばせた。
それだけで、もう十分だと思えた。
☆彡
控室には、まだ氷の匂いが残っていた。
リンクバッグを足元に置き、タオルで汗をぬぐう。
手は震えているのに、心のどこかがまだリンクに残っている。
結城コーチがタブレットを持って戻ってきた。
「映像、確認しようか。」
「……いま、ですか。」
「熱いうちに反省だ。」
「俺の肩、もう常温ですけど。」
映像が再生される。
最初のツイスト――少し外に流れたが、キャッチは安定。
リフト、安定。
スロートリプルルッツ、芸術点狙えるレベル。
直後のサイドバイサイド――俺、豪快に転倒。
「まあ、想定内だな。」コーチが言う。
「凛音の助走が早すぎる。」
「すみません!」
「いや、悪くない。勢いがある。スローの感覚も良かった。」
俺は苦笑する。
「褒めポイントそこなんですか。」
凛音がうれしそうに顔を上げた。
「じゃあ、明日――スロー4回転、やってみましょうか!」
「――はあ!?」
「今日の感じなら、いけます!」
「いやいや、待って! ジュニアで4回転スローは認定されねぇから!」
「細かいことはいいじゃないですか!」
「よくねぇよ! 点もつかねぇのに肩だけ壊れるわ!!」
コーチが腕を組んで考えるふりをする。
「……だが、“練習で試す”なら問題ないな。」
「なんでグレーゾーン狙うんですか!!」
凛音は靴紐を締め直しながら、
まるで明日の準備を今から始めるような顔で言った。
「だって、どうせ一組だけですよね?」
「いやいや、だからって実験会場にすんな!」
「だって、負けようがないんですよ?」
「そういう問題じゃない!!」
結城コーチがニヤリと笑う。
「“優勝確定”だからこそ、挑戦する価値がある。」
「そういう教育方針、ほんとやめてください!!」
凛音は小首を傾げて、
まるで当たり前のように言った。
「だって、“跳べるなら、跳ぶ”じゃないですか。」
「……いや、“跳ばせる”の俺なんだけど。」
静かな笑いがこぼれた。
リンクの冷気がまだ体に残っているのに、
控室の空気は少しだけ温かかった。
俺は笑いながら、氷の感触を思い出していた。
あの放物線の感覚だけは、まだ肩の奥に残っている。
凛音がスケート靴を抱え、明るく言う。
「ねぇ冬馬先輩、4回転決まったら、世界が変わりますよ。」
「俺の肩が先に壊れるわ。」
「じゃあ、明日世界の端っこまで行きましょう!」
「誰かほんと止めろよこの女……」
結城コーチが笑って言った。
「止められるやつは、もういないよ。」
――そうかもしれない。
跳べない俺が、君を跳ばせる。
そしてその先は、もう誰にも止められない。
