心がこもっている
今朝の涼しさに驚くと共に、季節の移行を感じる。明け方には秋の虫の声も聞かれるようになった。
お盆期間、もはや実家というものがない身なので、父が眠る寺院にお参りをした。娘と一度お参りしたのだけれど、昨日は思い立って2回目のお参りをした。
父としっかり関わったのは、亡くなる前の半年間が最初で最後だったかもしれない。きっと、口下手で不器用な父の本音を聴いたのは私だけだった、と思う。そして父は私の願いを受け止めて態度で示してくれたようにも思う。
父は私の前で「あいつ(母のこと)はいつまでもわかってくれない」と呟いたと同時に、溢れる涙をこらえることができないでいた。そして、最期の時間となった夜の”私の後悔”。
お参りするたびにいつも思い出す。
最後まで気持ちが噛み合わなかった両親を見ていて、それも仕方がなかったのだと頭で理解しようとするものの…どうしてもそれを反面教師のようにしてしまい?、私は心底”建前ばかりの関わり”が嫌になった。
一方で、それは言いたいことを言って傷つけあうということとは全く違う。
原爆投下日、そして、終戦記念日。
ここ数日頭にあることは、
私に残された時間がどのくらいあるのかわからないけれど…
「私のお役目は?」
「私は何に夢中になるのだろうか?」
「私は何を表現したいのか?」
「私の強みは?」
そのような問いが、また浮上している。
自然災害が続いている。その支援に関わっている方、関わろうとしている方々。同じような職種の方もいる。ほんとうに頭が下がる。
その一方で、私はやはり同じような行動はとれない、と改めて思う。
コロナ禍の時もそう感じて、自分に対して失望し、失望しながらも受け入れるしかないと思った。
甘えとかそういうのじゃなく…
私は私のできることをやっていくしかないのだ、と。
私がやりたいことに夢中になることが半径2メートル以内の平和活動になり、それが巡り巡って、もっと大きな平和活動に繋がる。
そんな人生にしたいと思う。
(きれいごとだと思うかもしれませんが、)
昨日、久しぶりに思い出した。
後輩からプレゼントされた言葉。
「…(私の仕事が)心がこもっているから好きなんです」
という言葉。
私にとっては当たり前のこととしてやっていた、その場面に対して。
「心がこもっている」という言葉。
「優しい」とか「丁寧」という言葉でないことにも、私は嬉しかった。
今、言い換えるとすると…”前向きな意図”というようなことか。
単なるポジティブ、とは違う。
”善きことに向かう”、という感じだろうか。
その場面での意図は多分「大切に扱う」というものだった。
丁寧に行うべきだ、というような”義務感”や”正論”ではなく”自然に”そうしていた。それを見ていてくれたのだと思う。
それが、もともとの私のお役目だったり強みなのだろうという気がしている。
仕事でフラストレーションを感じるのは、私自身のなかで本音と建前がケンカをするような時だ。
役割や義務を果たそうとして、時に厳しいことを言わねばならない時。私自身は性善説を支持したい(←おめでたいと言われることも)のだけれど、そうでない意図が感じられる場面も確かにあって(それが現実?)、しっかりと境界線を引いて毅然としていないと自分が壊れてしまう。
そういう時は、私の言葉は私の肚から出てくるものというよりは、頭で考えたことや、誰かに教わったこと、誰かの講義での”セリフ”だったりする。
そんなとき、肚の声はどこかに行ってしまい、言葉だけが上滑りしたり(むしろ冗舌だったりする)、我ながら嫌なヤツだなと思ったり。
…で、自宅で反省会が行われてしまう。
もう人生は折り返し地点。
24時間365日は無理でも…
建前や義務感よりも、本音を話せる時間を増やしたい。
本音、を言い換えると…心の声、肚の声。
誰かの言葉ではなく、わたしの言葉。
そして、周囲との関係性も…相手の”肚の声”を聴く。
簡単ではないけれど、そんな”前向きな意図”を持って”善きこと”へ向かう。
そういう私で繋がれる場で、役目を果たしたい。
追記:
“善きこと“と書きましたが…改めて考えますと、それは私のイメージと完全に一致した言葉ではなく、“真理““倫理観“などのほうが近いかもしれません。
それは人間の思考や思想から生み出された正義や義務でもなく、自然の摂理からすれば当たり前というような、“理(ことわり)“に近いイメージです。
私にできること、に関連して。
普段、”健康”を扱うことが多い場にいる。
一時期、心の学びにも取り組んだ。
身体と心は繋がっているのだけれど…今の私は、身体の健康のほうに関心が戻ってきたようだ。
というのも、心の元気がないときに、身体のケアを意識することで結果的に心が整うということがよくあるから。
身体の健康の方法論としては、まず”食”。
食べたものは胃腸の中、つまり”肚”の中に入る。
それが”肚の声”となるのだとしたら?…どんなものを食べるのかがとても大事だ、というのは私にとってとても自然な考え方だ。
(ちなみに東洋医学で”気虚”、気が少ない、元気がない状態としてみなされるときの身体症状は、胃腸の調子が悪い、食欲不振または過食という消化器の症状。なので、心に元気がない時にも食を考えたいのです)
食と並行して語られるのが一般的には”運動”。
私の持論として、それは”活動”と表現したいところ。
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自然とつながりながら生きること。それが私の考える”健康”。
そんな記事を書いた。
自然とのつながりを感じる”活動”。
そして、自然環境の影響をダイレクトに受ける”食”。
それらを改めて(夢中で)探究し、私の言葉で語れるようになる。
…それを今日の言葉として残しておく。
トップの画像には…
細部にまで意図を感じられた【雲ノ平山荘の夕食】の写真を選択しました。
そう、“心がこもっている“は、“細部に意図が宿っている“というのとほぼ同義だな、と改めて思いました。
それを"エネルギー"と呼んでいる人もいそうですね。
