ある男の話8
僕がメールを送った翌日、ご都合の良い時間に御社にお伺いします、と紙山さんから連絡がきた。
少し勘違いしているのか、仕事上の相談と思われているようだったので(僕は彼女の仕事とはかかわりのない部署なのだが)、仕事中ではなく、合間のお昼休みの時間に、会社近くのカフェで待ち合わせすることにした。
「すみません。急にご連絡してしまって」僕は言った。
「あ、いえいえ。とんでもございません」彼女は言った。
紙山さんは今日もカチッとしたグレーのジャケットを着ており、相変わらず、瞬きが少ない。今日は、少しだけアイロンで髪を巻いていた。
先日は気づかなかったが、ほのかに香水のにおいがする。どこかで嗅いだことにあるような匂いだったが、思い出せなかった。
「今日は保険の見直しということでよろしかったですか?」
「そうですね。私事で恐縮です」僕は言った。
「あ、全然オッケーです。では、差し支えなければ、今の状況をお聞きしてもよろしいですか?」
ぼくは迷わず、はい、と答えた。
「ご年齢はいくつになりますか?」
「26歳です」
「ご結婚はされていますか?」
「いえ、していません」
ふと、麗奈のことが頭によぎった。が、今は婚約もしていないので、特に付け加えることもなさそうだった。
「承知しました。ではお子様もみえない、ということですね?」
はい、と答えた。子供のことは想像できなかった。
「そうなんですね。ではまず、今、加入している保険の整理を―――」
紙山さんは、カバンの中に入れてあった、生命保険やら介護保険やらのパンフレットを取り出して、僕に丁寧に説明をしてくれた。
説明を聞いている合間に、ふと店内に目をやると、会社から近いせいか、見知った社員が何人か食事をしているようだった。店内には、やたら観葉植物が多くて、カフェというよりドリンクや軽食を提供している植物園のようだった。
「ざっと、おススメできるのはこのあたりですね。ご興味があればまたご連絡ください」彼女は言った。
「ありがとうございます。またご連絡させてください」
今すぐに契約しろ、とか無理に営業してこないので、少し安心した。ふと時計に目をやると、まだお昼休みが15分ほどあったので、別の話をすることにした。
「ちなみに、今のお仕事は長いんですか?」僕は言った。
「あ、五年目になりますね」
「そうなんですね」
今日、会ったときから気になっていたが、彼女は、話し出すときにほぼ必ず、あ、と言う癖があるようだった。
少しの間、沈黙が流れた。会話が途切れてしまって、よくないタイプの沈黙だった。
僕は思わず、
「格闘技がお好きなんですか?」
と、思い切って聞いてみた。テーブルの上に置いてある彼女のスマホの、ちらと見えた待ち受け画面が、有名なK-1ファイターだったからだ。
「あ、はい。全体的に」
少し驚いたように彼女は答えた。
「K-1とかですか?」
「あーはい。ほかにもプロレス、ボクシング、相撲、なんでもこいです」
「どんなところが好きなんですか」
「なんかかわいくないですか?選手とか」
「かわいいとは?」僕はおもわず笑った。
「みんな肌ツルツルで。ボクシングも、ミニマム級とか低い階級だと、選手もちっちゃくて、とってもかわいいんです」
彼女が目じりを下げて笑った。営業スマイルなのか、笑顔を作るのが上手ではないようで(保険屋になってから習得したのかもしれなかった)、笑っているというより、顔がこわばっているだけのようにもみえる。
「相撲は?」
「相撲取りも、お腹がプリンプリンで、シルエットもかわいいですよ~」
彼女は嬉しそうに言った。どうやら、格闘技(格闘家?)が好きというのは本心らしかった。
そのあとも、少しだけ話をした。僕も、知っている限りの知識をひねりだして、格闘技について語り合ったが、『格闘家がかわいい』という気持ちだけは、どう頑張っても共感できなかった。
ほどなくして、僕らは解散した。また、入る保険を決めたら連絡します、と彼女に伝えた。
「あの人に営業されてたの?」
お昼休みが終わり、会社へのエレベーターを待っていると、(社内イチの美人で有名な)橋本ちゃんに話しかけられた。どうやら、さっきのカフェに居たらしかった。
彼女に横に並ばれると、175cmの僕と目線が全く同じで、とても背が高いのがわかる。
「うん。まぁ、そんなとこ」
経緯を説明するのもめんどくさかったので、適当に答えた。
相変わらず、橋本ちゃんは目鼻立ちがはっきりしていて、服もおしゃれで、マネキンに魂が宿ったような完成度の高さだった。でも、なんだかAIで合成された美人のようで、むしろ紙山さんのような、人間らしいみずみずしさが感じられなかった。
午後はなんだかすっきりした気持ちで仕事に臨むことができ、めずらしく定時で家に帰った。
仕事のほうは、いなくなった西田くんの影響も収まっていたし、むしろ、みんな彼の存在を忘れてしまったようにも思えた。まるで最初からいなかったかのように。彼専用の作業フォルダも、きれいに消去されていた。
麗奈からは、相変わらず連絡が途絶えたままだった。
