【交差点の手帖 #001】 ルソーとカント:18世紀の対話から今を眺める
【この記事について】
これは「交差点の手帖」という新シリーズです。
問いの庭にまとめきれなかったけど、日頃考えているトピックで、何かしら言葉を与えてみたかったアイディアの断片を記事にまとめる試みです。
言語、哲学、社会、政治、経済、歴史、文学 etc.
さまざまな知の流れが交わる「交差点」に立った時に公孫樹に見えた景色をお届けします。
気になったテーマを自由に掘っていくつもりです。
ここでもスタンスとしては、答えを出す場所ではなく、問いを置いていく場所として使っていけたらいいなと思います。
結論を出すためというよりは、現時点でここまで考えてみた、みたいな書きかけの手帖という感覚で読んでいただければ幸いです。
普段は「問いの庭」と「からだの手帖」を書いています。
よかったらそちらもどうぞ。
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【この記事で考えてみたいこと】
この記事を書くきっかけになった本があります。
田中拓道さんの『自由民主主義とは何か』(ちくま新書)です。
自由民主主義という、私たちが当たり前のように使っている言葉の中身を丁寧に解きほぐしていく本で、読みながら「そういえば自分はこの言葉をよくわかっていなかった」という感覚が何度も来ました。
この本を読んで浮かんできた問いの一つが、今日の記事です。
私は政治や経済に関する知識が多くありません。
どちらかというと歴史や地理、文化や言語の観点から考えることが好きです。そのため、政治や経済も自分の得意な視点から眺めてみることはできないかと考えることが多いです。
昨今の政治的な状況は、単純化することはできず、また単純化しすぎることは常に危険を伴います。しかし、混沌とした状況の中に一つ道筋を見出せないか、とは常々思うことです。
この記事は、正しい答えを探そうというものではありません。ただ、今起きていることと、そして自分自身の生き方を、二人の思想家の考えを杖に一緒に考えていこうというささやかな試みです。
【視点:18世紀の思想的な対比から今を眺める】
SNSの政治議論が息苦しい理由
政治の話をSNSで見ていると、あることに気づきます。
どんなに複雑な問題でも、気づいたら二項対立になっているんですね。
移民賛成か反対か。
グローバルか国内優先か。
リベラルか保守か。
真ん中に立とうとすると、どちらからも攻撃される。
これは今に始まったことではありません。きっと二項対立という思考法が「わかりやすく」都合がいいからなのではないかと思ったりします。二項対立という方が用意されると、人は敵を作りやすく、敵が作れれば集団をまとめやすくなります。
私はこういう二項対立が生まれた時、どちらにも加担しないような位置に立てないかと考えようとする傾向にあります。そして、その背後でどんな思想が対立の形式をとっているのか考える癖があります。その元となる思想の原型のようなものが見えてくると、第三の道も見えてくるような気がするからです。
本日登場いただく哲学者は18世紀のヨーロッパのお二人です。
登場人物はジャン=ジャック・ルソーとイマヌエル・カント。
この二人の問いは、今日の政治的議論を見ていくのに有効なのではないかと思いました。
そして単なる政治的な議論にとどまらず、同時に、私たち一人ひとりが
「自分はどう生きるか」という問いと向き合っていく上でもヒントになるものを含んでいる気がするのです。
ジャン=ジャック・ルソーとイマヌエル・カント
なぜ今、この二人なのか。
私自身、この二人を並べて考えることは初めてなのですが、今日のSNSで繰り広げられている対立の多くが、実はこの二人が18世紀に考えていたことの焼き直しではないかという視点に立つと色々見えてくる気がしたのです。
感情を信じるべきか、
理性を信じるべきか。
共同体への帰属を大切にするべきか、
それとも国境を超えた普遍的な価値を優先するべきか。
二人は直接議論を交わしたわけではありません。
でも思想の上では、深く応答し合っています。
そしてどちらも、相手の言うことを完全には否定できなかった。
私がこの二人を引っ張り出してきたのは、答えを出してもらうためではありません。今日の混乱を少し遠くから眺めるための、足場として使いたかったからです。18世紀という距離があるぶん、今日の議論より少しだけ落ち着いて見られる気がする。
そういう期待を持ちながら
でも本当にそうなるかはわからないまま、書き始めます。
ルソーという人
ルソーについて語る時、私はいつも少し複雑な気持ちになります。
彼の思想は美しい。「人間は自由なものとして生まれた、しかしいたるところで鎖につながれている」という一文は、読むたびに何かを揺さぶります。でも同時に、ルソーという人間は矛盾だらけでした。自然の大切さを説きながら、自分の子どもを五人とも孤児院に預けた。共同体への帰属を訴えながら、晩年は孤独と被害妄想の中で生きた。
思想と生き方が一致していなければ、その思想は無効なのか。
私はそうは思いません。むしろ、矛盾を抱えながらも考え続けた人間の言葉だからこそ、今日まで生き延びているのかもしれない。
ルソーの核心にある問いは、「人間はどこで道を誤ったのか」というものです。彼にとって、文明こそが人間を堕落させた。自然状態の人間は本来、善であり、自由であり、他者への憐れみを持っていた。それが社会という装置の中で、比較し、競争し、嫉妬し、虚栄心を抱くようになった。
だから彼は言います。感情を信じよ、と。
理性より先に、身体が、心が感じることを大切にせよ、と。
人間よ、あなたの内なる声に耳を傾けよ。自然はあなたに語りかけている。
これは今日の言葉で言えば、「自分の感覚に正直に生きる」ということに近いかもしれません。
カントという人
カントはルソーの十四歳年下で、生涯のほとんどをケーニヒスベルクという小さな町で過ごしました。毎日同じ時刻に散歩し、同じルートを歩いたと言われます。町の人々がカントの散歩を見て時計を合わせたという話は有名です。
ルソーとは対照的なほど、規則正しい。
でも面白いことに、カントはルソーを深く尊敬していました。書斎に飾った肖像画はルソーのものただ一枚だったと言われています。感情を信じたルソーに感動しながら、しかしカントは別の道を歩んだ。
カントの問いは「正しさとは何か」です。感情は人によって違う。状況によって変わる。だから感情を道徳の根拠にすることはできない、と彼は考えました。誰もが従えるような普遍的な法則こそが、道徳の基盤でなければならない。
有名な「定言命法」はそこから来ています。
あなたの行為の格率が、同時に普遍的な法則となることを意志できるように行為せよ。
平たく言えば「もし全員がそれをやったらどうなるか、考えてみろ」ということです。
二人の間で、今も迷っている
この記事を書きながら、私は何度も考えました。
あ、少し脇道に逸れますが「考える」という言葉について少しだけ先に共有しておきますね。
たまに「考える」ことを「思考の濁流に飲み込まれること」「物事をわざわざ複雑にすること」だと思っている人がいます。しかし、私は、それは大きな誤解ですよと言いたい。
私の考える「考える」とは「グレーゾーン」にとどまる知的な胆力のようなものです。なぜグレーゾーンにとどまるのか?それは自由であるためです。時には大胆に白黒をつける時も必要でしょう。しかし、同時に必要に応じていつでも別の視点から物事を眺める自由さを持っていたい。そのために「考える」があると思うのです。
また、「考える」については別の機会にゆっくり掘り下げてみますね。
さて、二人の話に戻しましょう。
ルソーとカントの話を整理しようとするたびに、「でも自分はどっちなんだろう」という問いが浮かんでくる。どちらの言葉にも頷けてしまう自分がいて、だからこそどちらにも踏み込みきれない。
感情だけに従ったとき、人間は美しくなれる。
でも同時に、感情だけに従ったとき、人間は最も残酷にもなれる。歴史を見ればわかります。熱狂は、善意から生まれることが多い。
理性で問い直すとき、人間は公正になれる。
でも同時に、理性という名のもとで、どれだけ多くの「例外」が切り捨てられてきたか。これも歴史が教えています。
SNSで政治の話を見ていると、みんなどこかで「答えを持っている」ように見えるんです。確信を持って語っています。その確信がうらやましいと思う瞬間がある。
でも同時に、その確信がどこから来たのかが、気になってしまう。
それは本当に自分の中から来ているのか。それとも、誰かが作った対立の構図の中に、知らないうちに乗っかってしまっているのか。そういうことになるべく自覚的でいたいなと思うのです。
しかし同時に、どちらを選ぶかではなく、どちらとも付き合い続けることが必要なのかもしれない、とも思います。でも、それはただの曖昧さへの逃げなのかもしれない。そこまで考えて、また手が止まるわけですね。
【交差点で考えたこと】
最後に公孫樹が自分に投げかけた暫定的な問いをここに載せておきますね。
私が今、何かについて「正しい」と感じているとき
その感覚はどこから来ているだろうか?
身体から来ているだろうか?
頭から来ているだろうか?
誰かの言葉が先にあって、あとから自分のものになっただろうか?
その確信は、本当に自分のものだろうか?
▼ もっと深く
① 参考文献
ここに紹介する参考文献の全てを公孫樹は読んだわけではありません。大いなる積読の中から、そして調べ物をして出てきた中で読んでみたい本をまとめていることをあらかじめご了承ください。
田中拓道『自由民主主義とは何か』(ちくま新書)
この記事を書くきっかけになった一冊です。「自由民主主義」という言葉を私たちはよく使いますが、その中身を問われると答えに詰まる。自由とは何か、民主主義とは何か、そしてその二つはどう結びついているのか。SNSの政治議論が息苦しくなってきた今だからこそ、一度立ち止まって読む価値のある本だと思います。
ルソー『人間不平等起源論』(光文社古典新訳文庫)
ルソーの出発点となる書です。文明以前の人間の姿を描き、社会制度が不平等を生み出したと論じています。『社会契約論』より先にこちらを読むと、ルソーの怒りの根っこが見えてきます。情熱的な文体で、哲学書の中では読みやすい部類です。
カント『道徳形而上学の基礎づけ』(岩波文庫)
「定言命法」の概念が展開される書です。難解ですが、第一章だけでも読む価値があります。なぜ感情ではなく理性を道徳の根拠にするのか、その論理が丁寧に示されています。
パトリック・J・デニーン『リベラリズムはなぜ失敗したのか』(原書房)
リベラリズムがメインのトピックではあるが、現代の政治的分断を、18世紀以来の思想的な流れから読み解こうとした本だと思う。ルソーとカントの対立が今日の左右対立にどう投影されているかを考える上で参考になります。
② 問いの連鎖
感情は操作されうるか。
されうるとすれば、どうやって気づけるか。
理性は「誰の」理性か。
普遍性を語る言葉は、常に誰かの立場から語られていないか。
二項対立を疑うこと自体が、一つの立場になっていないか。
③ 自分で深めるための問いかけ
最近、強く「正しい」と感じた瞬間を一つ思い出してみてください。
その感覚は、感情でしたか、理性でしたか。
もし18世紀の二人がその瞬間を見ていたら、それぞれ何と言うでしょうか。
以上
交差点の手帖 #001
ルソーとカント:18世紀の対話から今を眺める
でした。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
こんな感じで、まとまらないままの考えたことの切れ端を集めて
また記事を書いていきます。
次回もお楽しみに。
公孫樹
