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小谷野敦の『リアリズムの擁護』をどう読むか⑦ 正直に生きてほしい

 私がここに掲げるように「石原千秋の終焉」といった本を書いたのは、石原千秋の人格否定の為ではない。石原千秋の国語の先生としての過ちを指摘する為である。
 きわめて単純な話「言葉の置き換え」が理解できない国語の先生には国語を教える資格がないと言ってよいだろう。たった一度も間違えてはいけないというのではない。一瞬間違えても「ああ、しまった」と間違いに気がつくのが当たり前だというのである。

 適切な例えかどうかは解らないが、冬場、ジャージの下に厚手のタイツを履いてウォーキングすることがある。ところがある日ウォーキングの途中でポケットがないことに気がつく。タイツの上にジャージを履くのを忘れてしまっていたのだ。慌てて家に戻る。これが当たり前だと思う。毎日タイツだけでウォーキングしていたら変態だ。

 ではさて、小谷野敦はどうなのか。

 母が死んでから、というより、その病気がただならないものだと分かってからのことだが、私は、母より年長だと思える老人を見かけると、腹が立つようになった。あれほど、自分のことより他人のことを先だてて、実際よりも身を小さくして生きていた母が死んで、なぜお前のようにべんべんと長らえられている者がいるのか、と思うのだ。まったく、当人たちにとっては、言いがかりとしか言いようがない。けれど、それが今の私の正直な気持ちである。

(小谷野敦『リアリズムの擁護 近現代文学論集』新曜社 2008年)

 あとがきに書かれたこの言葉は正直なものであろう。

 私にも似たような経験がある。

 しかし怒りというのはそう論理的なものではない筈だ。私は或る朝ホテルで目覚め、清掃員の老婆に何か不快なものを感じた。そういえばここしばらく老婆を見かけるたびに怒りなのかいら立ちなのか何か不快な感じがあるなと思い出して、しばらくぼぅーとしていると、小谷野敦が書いているような理屈が浮かんできて驚いた。なんという理不尽な怒り、なんというエゴイスティックな八つ当たりなのだろうと、自分の我儘さに驚いたのだ。

 それからその手の老婆に対する不快感は一度も感じていない。私の母はそういう考え方が息子にあれば叩く人だったからである。だから今ではたまにスーパーでカートをぶつけられてチッと思うくらいなものだ。

 ただこの件に関する小谷野の正直さは理解できるように思える。そして小谷野敦の言説にはところどころかなり正直には見える。なんなら素直すぎて小説家にも文藝評論家にも向いていない感じがする。江藤淳や蓮實重彦の受け売りが多く柄谷行人を批判しきれていない。

 ただそんなことよりも一番の問題は学者として誠実であり正確であるかということである。この二つの要素はセットだと思う。つまり正確であろうとする誠実さがなければ、自ら学ぶこともできないし、人にものを教える資格もない。人は常に間違う。だから正確であろうとする誠実さが必要なのであり、やり続けなくてはならないのは訂正である。

 現に私は最近になって、というより小谷野敦の刺激もあり、私小説とは何なのかと考えて調べていく間に、芥川龍之介作品を私小説として読むという試みに至り「利仁は漱石」という新解釈を得た。

 これまでは「芥川は私小説を否定していた」という先入観で、そうした解釈はできずにいた。訂正は苦しいことではなく喜びだった。

 母は私が子供のころから、正直であれと言い続けた。大学生の頃、この世には正直で損をすることも多く、正直者は時に嫌われることを知った私は母を恨んだこともあったが、結局私はバカのつく正直者として今日まで生きてきた。それをよしとしてくれる人々がいるなら、それは母のおかげである。 

(小谷野敦『リアリズムの擁護 近現代文学論集』新曜社 2008年)

 この言葉が真実ならば、小谷野敦はやり直せるはずである。

 谷﨑潤一郎が「誕生」に用いた「億兆の国民」とはどういう意味なのか? この作品は単に藤原道長の栄華を讃えているのか? 天皇の血脈を呪ってはいまいか?

 夏目漱石の『こゝろ』は本当に失敗作なのか? ただ「静を生かす」という奇天烈なアイデアが全人類に見えていなかっただけなのではないか?

 森鷗外は『最後の一句』で大嘗会が何十年も行われていなかったことを指摘していたのではないか。十三回忌の殉死は惚けすぎではないのか? 鴎外の数字に対するこだわりは繰り返し現れる。

 そうしたことどもを一つ一つ誠実に正しく考え直し、訂正していくのでなければ、この母に捧げた言葉が大嘘になるであろう。そして学者としての功績がゼロになる。

 小谷野敦自身が訂正しなくとも、やがてAIは正しい答えを導き出す筈である。人文学的言説に正解などはないということにはならない。文学作品の解釈に多様性の余地はあるとして、むしろ明確に指摘されねばならないテキストの意味というものがある。だからいつか「谷崎」「谷﨑」問題に答えは出るだろう。しかし小谷野敦は今こそ正直であるべきではないのか。

 平野啓一郎も新潮社も今のところ誠実ではなく正しくはない。

 このままでいいのか?



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