清水康次の『「羅生門」の世界と芥川文学』をどう読むか⑦ 利仁は漱石
清水は「芋粥」の前半部はゴーゴリの「外套」を典拠にしているという。その比較してある部分を読んでみると確かにそうだ。これは気がつかなかったが、ただ偶然似たにしては似すぎている。
これは大変勉強になった。
勿論だからどうしたという話ではあるが、これが比較文学ということなのであろう。
「高木の細君は夜具でも構わないが、おれは一つ新らしい外套マントを拵こしらえたいな。この間歯医者へ行ったら、植木屋が薦で盆栽の松の根を包んでいたので、つくづくそう思った」
「外套が欲しいって」
「ああ」
御米は夫の顔を見て、さも気の毒だと云う風に、
「御拵えなさいな。月賦で」と云った。宗助は、
「まあ止そうよ」と急に侘しく答えた。
うだつの上がらない下級官吏が外套を欲しがる話としては漱石の『門』もゴーゴリの『外套』に似ているが、清水の指摘は「五位」がアカーキイ・アカーキエウィッチ同様周囲から小馬鹿にされているという設定の部分だ。
背丈がちんちくりんで、顔には薄あばたがあり、髪の毛は赤ちゃけ、それに目がしょぼしょぼしていて、額がすこし禿げあがり、頬の両側には小皺が寄って、どうもその顔いろはいわゆる痔もちらしい……しかし、これはどうも仕方がない!
五位は、風采の甚揚がらない男であつた。第一背が低い。それから赤鼻で、眼尻が下つてゐる。口髭は勿論薄い。頬が、こけてゐるから、頤が、人並はづれて、細く見える。唇は――一々、数へ立ててゐれば、際限はない。我五位の外貌はそれ程、非凡に、だらしなく、出来上つてゐたのである。
清水はこの「五位」に対するいじめを「集団が共有する悪意」と呼んでみる。これは洋の東西と時代とを問わず「いじめられやすい対象」に向けられうるものであることを、「外套」という典拠を指摘することで清水は指摘しているように思えるが、清水はこれを芥川の認識だとして、芥川は「いつも悲観的な方向へ、つまり問題を解決不可能なものにしてしまう方向へ急速に進んでいく」と説明する。
うーん。「集団が共有する悪意」というものは川上未映子の『ヘヴン』でも描かれた。共通するのは「集団が共有する悪意」がしばしば何か目印となるものを持つものに向けられやすいという原理である。そこで「いじめられる理由なんてない。常にいじめる側が100%悪い」と言ってもしょうがない。おそらく「集団が共有する悪意」というものは「五位」やアカーキイ・アカーキエウィッチのようなものに向けられやすい性質が根本的にあるのだ。
ここの関係性を解決不可能なものと見てしまうとは少々残酷である。
唯、同僚の悪戯が、嵩じすぎて、髷に紙切れをつけたり、太刀の鞘に草履を結びつけたりすると、彼は笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、「いけぬのう、お身たちは。」と云ふ。その顔を見、その声を聞いた者は、誰でも一時或いぢらしさに打たれてしまふ。(彼等にいぢめられるのは、一人、この赤鼻の五位だけではない、彼等の知らない誰かが――多数の誰かが、彼の顔と声とを借りて、彼等の無情を責めてゐる。)――さう云ふ気が、朧げながら、彼等の心に、一瞬の間、しみこんで来るからである。
ここで芥川は一時ながら「読者」によるいじめ非難の可能性を夢想している。よく見てほしい。
世間全部が悪ではなく、どこかに善意の人がいるにちがいない。note民全員がケチではなく、毎月100円チップをくれる人がいるに違いないと考えている私と同じである。
しかし清水はむしろその後に現れる「無位の侍」の「世の中のすべてが急に本来の下等さを露す」という感覚に注目する。ただやはり「無位の侍」自身は「一味の慰安」を覚える程度には人間的? なのであり迫害の側に立たないという意味では五位もまた真面ではある訳だ。
しかし、芥川の作品では、すでに「鼻」において、すべての人間の持つ傍観者の利己主義が明らかにされていた。
こう言われているが「鼻」は現実的には夏目漱石の激賞という思いがけない奇蹟を得た。
――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。
内供は心の中でこう自分に囁やいた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。
作者はきっと内供が再び哂われることを含みとして書いていた筈である。その上で「はればれとした心持ち」で終わること。少しの希望が残されていることが幸いしたのだろう。書きすぎないという漱石の流儀にも沿っている。どんなに絶望的に思える状況の中に置いても希望を持つこと、それが全てが下等な悪意の集団の中で生きるということなのではなかろうか。
この前半部の「五位」には「羅生門」がさっぱり評価されなかった恨みも込められていよう。そして後半部の利仁の圧倒的な影響力、いやそれは支配力と呼んでしかるべきものだが、その支配力と過ぎた歓待は夏目漱石の激賞とそれに続く文藝雑誌への推薦といった一連の出来事を模しているかのようでもある。
芥川は漱石の影響力を怖れた。利仁に対する「五位」の恐縮そのものである。こうして考えると『芋粥』はほぼ私小説である。
色々な私小説があるものだ。

