すらすら読めるわけがない 芥川龍之介の『芋粥』をどう読むか③
しかし、五位はこれらの揶揄に対して、全然無感覚であつた。少くもわき眼には、無感覚であるらしく思はれた。彼は何を云はれても、顔の色さへ変へた事がない。黙つて例の薄い口髭を撫でながら、するだけの事をしてすましてゐる。唯、同僚の悪戯が、嵩じすぎて、髷に紙切れをつけたり、太刀の鞘に草履を結びつけたりすると、彼は笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、「いけぬのう、お身たちは。」と云ふ。その顔を見、その声を聞いた者は、誰でも一時或いぢらしさに打たれてしまふ。(彼等にいぢめられるのは、一人、この赤鼻の五位だけではない、彼等の知らない誰かが――多数の誰かが、彼の顔と声とを借りて、彼等の無情を責めてゐる。)――さう云ふ気が、朧ろげながら、彼等の心に、一瞬の間、しみこんで来るからである。唯その時の心もちを、何時までも持続ける者は甚少い。
ここはありきたりな国語の試験でも出されそうな、なかなか独特のロジックが展開されているところである。
まず作者は「しかし、五位はこれらの揶揄に対して、全然無感覚であつた。」と書いてみる。三人称の語り手は一般的にはほぼ全能の神なので、こう書かれたからには「しかし、五位はこれらの揶揄に対して、全然無感覚であつた。」というのは(少なくともこの作品の内部においては)真実である筈である。
その次に作者はこう言いなおす。「少くもわき眼には、無感覚であるらしく思はれた。」こうして話者はほぼ全能の三人称の語り手の地位を放棄して、五位の心の中には入り込めない単なる観察者の位置に下がっているように見える。この位置はこのまま確定したものではなく後に色々変化する。
まあそことはいいだろう。ここで躓くものはそう多くはないはずだ。気が付いていなかった人は、沢山いると思うけど。
語り手は「その顔を見、その声を聞いた者は、誰でも一時或いぢらしさに打たれてしまふ。」とまた誰の心の中にでも忍び込むことのできる全能の話者になる。
その上で何やらややこしい理屈を述べる。ここはややこしいよ。
①彼等にいぢめられるのは、一人、この赤鼻の五位だけではない
②彼等の知らない誰かが――多数の誰かが、彼の顔と声とを借りて、彼等の無情を責めてゐる。
この②がよく解らない。「彼等の知らない誰かが――多数の誰か」の誰かとは誰のことなのだ?
割とシンプルに考えるとこのこと自体を知りうる「彼らの知らない多数の誰か」とは「この作品の読者」、あなた自身でしかありえないだろう。
つまり作者は「この作品の読者」も五位に共感することによって彼等にいぢめられていたのであり、「いけぬのう、お身たちは。」という五位の言葉は、多数の読者の言葉の代弁でもあったということなのだろうか?
ただそれにしては作者はいぢめる側の立場に寄り添い「自然の数」としてルッキズムに加担していたのではなかったか。これがもし『ヘヴン』のような書き方がされていたなら、この理屈は解らないでもない。
しかしどうだろう。現に多数の読者はそれこそただ何となく五位を小ばかにしていただけではなかっただろうか。(あなた自身はどう? 五位に感情移入できていた?) 作者はそう仕向けておいて、ここで突然善良な読者をどこからか持ち出してきた。
これはそうではなかった読者に対する当てつけと嫌味であろうか。
それにしても作者が物語に参与するメタフィクショナルな小説と云うものは珍しくもないが、こうして読者を巻き込む書き方は極めて珍しい。多数の読者にはそうした物語構造が見えているだろうか?
これは言ってみれば登場人物が今まさに小説の中に書かれているということに自覚的で、読者の心の中に入り込み、読者の心の声を聞いているという設定なのだ。『羅生門』の語り手と登場人物の関係もややこしいのだが、『芋粥』の設定もきわどくかつ奇抜なものだ。これが一読でさらりと解ったら凄い。
その少い中の一人に、或無位の侍があつた。これは丹波の国から来た男で、まだ柔かい口髭が、やつと鼻の下に、生えかかつた位の青年である。勿論、この男も始めは皆と一しよに、何の理由もなく、赤鼻の五位を軽蔑した。所が、或日何かの折に、「いけぬのう、お身たちは」と云ふ声を聞いてからは、どうしても、それが頭を離れない。それ以来、この男の眼にだけは、五位が全く別人として、映るやうになつた。栄養の不足した、血色の悪い、間のぬけた五位の顔にも、世間の迫害にべそを掻いた、「人間」が覗いてゐるからである。この無位の侍には、五位の事を考へる度に、世の中のすべてが急に本来の下等さを露はすやうに思はれた。さうしてそれと同時に霜げた赤鼻と数へる程の口髭とが何となく一味の慰安を自分の心に伝へてくれるやうに思はれた。……
ここにおいて作者は何と語り手も気が付かないことを一登場人物、しかも「或無位の侍」という名無しに気づかせるという荒業に出た。しかし、五位はこれらの揶揄に対して、全然無感覚であつた。」と述べた語り手にはそれが見えていなかったが、五位には別の顔があり、無感覚のようでいて実は「世間の迫害にべそを掻いた、「人間」が覗いてゐる」という発見をさせてしまう。
なんというアクロバティックなやり方であろう。これでは語り手の立場がない。「或無位の侍」の方がよく物事が見えているので、彼が語り手になった方がいい。そう読者に思わせる仕掛けである。
これは宇宙で唯一芥川が駆使したレトリックではないと思うが、ずばりの例はちょっと思い出せない。いわゆる「信用できない語り手」の応用ではあるがこれほど巧妙に語り手のスキを突いた例は……。
これが腕でなく「女の脛(はぎ)の白さかな」であれば完全なセクハラである。開店前のパチンコ屋でミニスカートのお姉さんが入り口の掃除をしていて、ドアを拭いていると一瞬しゃがむタイミングがあるんじゃないかと立ち止まって眺めるようなものである。「山家かな」と慌てて逃げたのには、実はそんな事情があったのかもしれない。
例えばこのように書くことによって「この書き手自身が開店前のパチンコ屋の前で立ち止まって良からぬことを考えていたんじゃないか」と疑わせることができる。そういうささやかないたずらは小手先でできる。しかしただ語り手の信用を落とすだけではなく、語り手に気が付かせないというやり方は極めて珍しいものではなかろうか。
そのうえで「この無位の侍には、五位の事を考へる度に、世の中のすべてが急に本来の下等さを露はすやうに思はれた。」とは大きく出たものだ。「世の中のすべて」は大きい。そして「本来の下等さ」は敢えての短絡だ。ささいなことからやけを起こすかのような早すぎる一般化、極小の具体からはるかに遠いところまでを自在に結びつけようとする……、言ってみればこれは詩の常套手段だ。
天気
(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとさゝやく
それは神の生誕の日。
西脇順三郎のあまりにも有名なこんな詩は、詩というものが普通の言葉の結びつきではないことを宣言しているかのようだ。芥川の「世の中のすべて」の乱暴さは言うまでもない。しかし作者はここでこの「無位の侍」に無暗に大きいことを言わせたかったのだ。「世の中のすべてが急に本来の下等さを露はすやうに思はれた。」とはもうほとんど詩である。この「無位の侍」はどれだけの世界を見てきたのであろう。そしてどれだけ下等なものを見てきたのだろうか。
と感心したところで今日はこれまで。
いいですか皆さん落ち着いて聞いて下さいw
— 銀星王 (@ginseiou) February 29, 2024
コレはある人物が自分の本垢の発言をサブ垢で援護しようとして、うっかり本垢のまま書き込んでしまい、アップ後1分もせずに削除した画像ですw… pic.twitter.com/QBxFL0t7iB
[余談]
今日書いたことを含めて、芥川作品をキチンと読めていたという人はまずいないと思う。
それでいいのかなあ。
