岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する92 夏目漱石『行人』をどう読むか④
牡丹餅と重箱あるいは御萩
小説を読むということは小説を愉しむということに似ている。『行人』を読んで「塵労」で分裂などと云ってみるのは、残念ながら『行人』を愉しめなかったというのと同じ意味であろう。
例えば岩波書店も「重箱」に注解を付けない。
果たしてそれで本当に『行人』を愉しめたのであろうか。
この重箱を巡っては、直と二郎が実に面白い芝居をする。さして大きくない、抑えた芝居だ。しかしそれは『行人』における一つの見せ場と言っていい。まず直の芝居がこちらだ。
自分はつと立って嫂の後へ廻った。彼女は半間の床を背にして坐っていた。室が狭いので彼女の帯のあたりはほとんど杉の床柱とすれすれであった。自分がその間へ一足割り込んだ時、彼女は窮屈そうに体躯を前の方へ屈めて「何をなさるの」と聞いた。自分は片足を宙に浮かしたまま、床の奥から黒塗の重箱を取り出して、それを彼女の前へ置いた。
「一つどうです」
こう云いながら蓋を取ろうとすると、彼女は微かに苦笑を洩らした。重箱の中には白砂糖をふりかけた牡丹餅が行儀よく並べてあった。昨日が彼岸の中日である事を自分はこの牡丹餅によって始めて知ったのである。自分は嫂の顔を見て真面目に「食べませんか」と尋ねた。彼女はたちまち吹き出した。
「あなたもずいぶんね、その御萩は昨日宅から持たせて上げたんじゃありませんか」
自分はやむをえず苦笑しながら一つ頬張った。彼女は自分のために湯呑へ茶を注いでくれた。
自分はこの牡丹餅から彼女が今日墓詣のため里へ行ってその帰りがけにここへ寄ったのだと云う事をようやく確めた。
「大変御無沙汰をしていますが、あちらでも別にお変りはありませんか」
「ええありがとう、別に……」
言葉寡な彼女はただ簡単にこう答えただけであったが、その後へ、「御無沙汰って云えば、あなた番町へもずいぶん御無沙汰ね」と付け加えて、ことさらに自分の顔を見た。
いや、いい芝居だ。芝居も何もまだ台本なのに、名演技が見える。実にいい。「あなたもずいぶんね、その御萩は昨日宅から持たせて上げたんじゃありませんか」の「宅」を直の実家だと思いこんだ二郎が「大変御無沙汰をしていますが、あちらでも別にお変りはありませんか」という。「そちら」ではなく「あちら」と云ったことから直は、「あ、二郎さんは妾の実家から御萩を持って来たと思っているのね」と察した。察しながらただ「ええありがとう、別に……」と云って訂正しない。そしてもう「宅」が使えないので「番町」と云う。実にうまいせりふ回しだ。
しかもこの「芝居」が見えてくるのは六章も後のことなのだ。初見ではだまされる。読者の記憶の中で呼び起こされた場面が名演技になるのだ。この快感は何なのだろう。
そしてここでは二郎がいい芝居をする。
「御母さんは驚いているよ。御彼岸に御萩を持たせてやっても、返事も寄こさなければ、重箱を返しもしないって。ちょっとでも好いから来ればいいのさ。来られない訳が急にできた訳でもあるまいし」
自分は何とも返事をしなかった。
いや。実に実にいい演技だ。ジャルジャルの後藤君か誰かにやらせたらいい絵になるんじゃなかろうか。ここでじたばたしないのが良い。二郎はここでようやく重箱が直の里からではなく、自分の実家からもたらされたものだと知る。そして二郎の勘違いに気が付きながらも適当に話を合わせて誤魔化した直の意図を測りかねる。当惑して言葉がない。ここで何か一言でも言えば芝居が壊れる。
まさに絶妙だ。ここに夏目漱石の筆の妙がある。読者の記憶の中で呼び起こされた場面が名演技になるのはこの瞬間だ。二郎と共にしばし脳みそがぐらぐらする。
しかし岩波はむしろ「上り口に待つてゐた車夫」に注釈をつけて、こんな説明をしてしまう。
車夫を待たせていたくらいなのだから、二郎の意識過剰ともいうべきうろたえようとは裏腹に、直にとってはこの訪問は何のやましいところもないものであったことが種明かしされている。
先に「下女の眼元に一種の笑ひを見た」とあるところに注釈をつけているので、これでふりと落ちが完結したかのように読んでいるようだが、重箱の出所が実家だったとすれば車夫はまだふりである。
これで直がただ二郎に気がある嫂何ぞという薄っぺらなキャラクターではありえないことが分かる。そしてそんなキャラクターの謎はここでも強調される。そして「この訪問は何のやましいところもないものであったことが種明かしされている」という岩波の注解が完全に間違いであることも直に解る。
座敷に這入った時、母は自分の顔を見て、「おや珍らしいね」と云っただけであった。自分はほとんど権柄でここへ引っ張られて来ながらも、途々父の情をありがたく感じていた。そうして暗に家に帰ってから母に会う瞬間の光景を予想していた。その予想がこの一言で打ち崩されたのは案外であった。父は家内の誰にも打ち合せをせずに、全く自分一人の考えで、この不心得な息子に親切を尽してくれたのである。お重は逃げた飼犬を見るような眼つきで自分を見た。「そら迷子が帰って来た」と云った。嫂はただ「いらっしゃい」と平生の通り言葉寡な挨拶をした。この間の晩一人で尋ねて来た事は、まるで忘れてしまったという風に見えた。自分も人前を憚って一口もそれに触れなかった。比較的陽気なのは父であった。彼は多少の諧謔と誇張とを交ぜて、今日どうして自分をおびき出したかを得意らしく母やお重に話した。おびき出すという彼の言葉が自分には仰山でかつ滑稽に聞えた。
もしも『行人』が面白い小説なのだとしたら、それはこんな書き方がされているからではなかろうか。
二郎には母の態度が案外だった。読者の意識はそこにフォーカスされてしまうが、肝腎なのはむしろそこではない。妹のお重が「そら迷子が帰って来た」とあくまで家族扱いをしているのに、直は「いらっしゃい」と客扱いの挨拶をしているのだ。人間の関係性はこうしたちょっとした態度に現れる。これは日常生活では言われた当人ではないと気が付かないことだ。「あれ、今、いらっしゃいって言われた……」とは当人で無いと気が付かない。つまり『行人』では二郎に肩入れして読んでいないと気が付かない。一郎のことばかり考えている人にはこの流れが見えない。
二郎に肩入れして読んでいると、そこで「宅」が効いてくる。ここで、ああ、「宅」ね、と思い出さない人にはきっと『行人』は面白くない小説なのだろう。
例えば『こころ』の先生は未亡人の下宿のことを二回も「私の宅」と呼ぶ。
その感じがつかめない人には『こころ』も面白くない小説なのだろう。しかし小説を面白くなくさせているのは誰だろう?
直は二郎を勘違いさせたままにすることによって、重箱を洗って帰さないという不義理に導き、疎外した。そもそも娘しかいない直が長野家における自分の存在を守るには、二郎を追い出すべきであった。そこまで考える必要はないものの、そんな直のふるまいは財産家の長男に嫁いで娘を生んだ母の本能的な生存戦略であるとは言えまいか。
無論意識の上で全てが算盤ずくとは言わない。二郎に気があるふりをして一郎と仲たがいをさせて、二郎を家から追い出し、さらに二郎を実家から疎遠にさせる戦略などは直の意識の上には存在しなかったのだろう。
それはむしろ無意識の領域でたまたま、偶然にそうなっていったものなのかもしれない。ただここに現れるふるまいは、直という女の裏の顔ではなく、家父長制度下におかれた家長の妻、しかし娘しか持たない母という人間存在の中に生まれた言語化されない不可解なものを示しているかのようでさえある。
つまりここで漱石は「狡猾な女」などというものを批判してさえいないのだ。「狡猾な女」などいない。漱石はただ私の本を買わない人を批判しているのだ。多分。
