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作田啓一「師弟のきずな ◆『こゝろ』」がどれだけひどいか② ずさん

 夏目漱石作品を読むということがどうしてかように困難のなのか。そんなことを痛感し続ける日々が続いている。

 故人である。

 しかし人にものを教えていた以上、その責任は負わねばなるまい。

「先生」は内的媒介者であるKのお嬢さんに対する欲望を模倣したのです。

(作田啓一「師弟のきずな ◆『こゝろ』」『新文芸読本 夏目漱石』河出書房新社 1990年)

 ルネ・ジラールを引き合いに出さずに「欲望を模倣」と書いていいものかどうか、私にはそのあたりのルールが曖昧だが、恐らくまずいのではなかろうか。そして間違っている。理由はもういちいち説明しない。

 ここに書いた通りだ。

殉死 「先生」は乃木大将の殉死を知って、自殺の決意を固めました。「先生」にとって乃木大将がモデルになったのです。大将が明治天皇に殉じたように、「先生」もKに殉じようと決心しました。

(作田啓一「師弟のきずな ◆『こゝろ』」『新文芸読本 夏目漱石』河出書房新社 1990年)

 ふう。

 ずさん。

 やる気が失せる。

それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。

(夏目漱石『こころ』)

 漱石はこのように含みを持たせている。つまりよく読むとの木夫妻殉死の報と自殺の決心を先後関係にして、因果関係にしていない。

 まあしかし「きっかけ」ではあっただろうとは読めるところ。この辺りのさじ加減が味わいどころだ。

 また、「殉死」かどうかに関しては、

「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。

(夏目漱石『こころ』)

 この部分に関して「先生が殉死の対象とした明治の精神とは具体的にどんなものか」という議論が山ほどあるために、「先生は殉死した」ということを誰も疑えなくなってしまっている状況がある。

 しかしここも良く読むと「明治の精神に殉死するつもりだ」という先生の答えは「無論笑談に過ぎなかった」とあるので、一旦話はここで終わっていて、実際に先生の自殺の建前なり形式なり「先生の意識」が殉死であったなどということはどうにも判断できないのだ。

 この「先生の殉死」に関して言えば、案山子理論みたいな話のようだが、漱石の意識としては笑談が本当になったというところが絶対にないとも言い切れないのであまり強く否定はしないが、小説に書かれている日本語を正しく読めば、「先生は明治の精神に殉死した」とは言い切れないと考えるべきであろう。

 無論「「先生」もKに殉じようと決心しました。」は完全に出鱈目である。そんなことはどこにも書いていない。

 嘘であり、間違いである。

 人間として決して許されることではない。

 こういうことを書いてはいけないという見本のような「解釈」である。殉ずる、という言葉の意味からしてむしろ先生に対するKの死が殉ずるものである。

 そしてまた例によって乃木静子が無視されている。

 どれだけ迂闊なのか。

 本当にそれでよくやっていけたね?

 甲南大学ってそんなところなの?





[余談]

 旗を取られたことより、日露戦役で多くの兵を死なせたことの責任の方が重いと思うが、そこはどうなんだろう?

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