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石原千秋『教科書の中の夏目漱石』を読む⑦ 夏目漱石論のために19 無理には気がついていた筈

 私が「先生はゲイではない」と書くたびに一定数の人は不快な思いになるようだ。かなり多くの人が先生はゲイだと確信していて、それを自分の大発見のように思いこんでいる。その間違いを指摘されると傷つく。そんなことが繰り返されているような気がする。

 しかし間違いは間違いである。大人なら間違いを指摘されて不快になるのではなく是非とも冷や汗をかかねばならない。感情的に拒否しても何にもならない。

 このことは、彼らが「ほしい」という欲望を持てないことを意味している。だから彼らの恋は、あのルネ・ジラールの欲望の三角形のように、いつも他人の欲望を模倣する。『三四郎』の小川三四郎は郷里の先輩野々宮宗八の里見美禰󠄀子への恋を、『門』の野中宗助は親友安井のお米への恋を、『行人』の長野一郎は弟の長井二郎のお直への恋を作りだし、『こころ』の「先生」は親友Kの静への恋を模倣する。そして『それから』の長井代助は、親友平岡常次郎の菅沼三千代への恋を模倣する。
 浪費と模倣。これは資本主義を成り立たせている原理でもある。それを漱石文学は批判的に書いてきた。もう一つあげておく。代助は女性ジェンダーである。冒頭の鏡を前にした見繕いや、政略結婚のコマとして使われる長井家での位置、そもそも代助の身体が反資本主義的なのだ。これほど高度な資本主義批判はそうはないだろう。

(石原千秋『教科書の中の夏目漱石』大修館書店 2023年)

 大爆笑。

 ね、言ったでしょう。

 前世紀末ルネ・ジラールは支配的に人気だった。この支配的というのは何と言うかあまり良くない意味でやたらと使いまわしされていたという程度の意味である。

 どこからやりますかね。

 ええと、まずなんで「愛」ではなくて「恋」なんですかね?

 これは私だけなんでしょうか「恋」は運命的なもので自分でコントロールなんてできないですよね。突然やってきて決してかなわないものが恋じゃないですかね。

 そこはまあひとまず置くとして、「『こころ』の「先生」は親友Kの静への恋を模倣する。」これせめてさかさまですよね。模倣したとすればむしろKの方でしょう。模倣したとしてですね。順番的にはそうなります。先に先生は御嬢さんに対して信仰に近い愛を抱いていました。Kが下宿にやってくるのはその後の事です。

 このミスは柄谷行人始め、大体一億人くらい踏襲していますから、もう「月がきれいですね」状態なわけですが、そちらと違ってこの順番というのは「青空文庫」で今すぐ確認できますから、やってみてください。

 やり方はそうですね、Ctrl+Fで検索窓を開けて、「信仰」と打ち込んで下さい。出てくるのは「下 先生と遺書」の十四章、Kが下宿に来るのは「食料」で出てくる二十三章です。


 それから「『それから』の長井代助は、親友平岡常次郎の菅沼三千代への恋を模倣する」というのはいかにもむりやりですよね。だって代助は平岡に三千代を斡旋したわけですから。それに後から模倣しようにも再会した時点で平岡夫婦の関係は冷めきっていたわけですよね。代助の愛は眠っていたものが三千代の引力で蘇ってきて意識されたという流れではないですかね。

 三四郎も野々宮と美禰󠄀子の関係に気がつく前に一発で美禰󠄀子に引っかかっていますし、「長野一郎は弟の長井二郎のお直への恋を作りだし」ってどこが模倣何ですか?

 結局悪いのは全部ジラールなんですよ。みんな型に嵌めたいわけです。そうすると論になった感じがしてきてつい調子に乗ってしまうわけです。しかし石原千秋も書いていて自分で途中から少し無理があるなと気がついてはいた筈なんです。「長野一郎は弟の長井二郎のお直への恋を作りだし」って困っていますよね。うまくパターンにはまらなくて、無理やりねじ込んでいますよね。そこまでしてなんとか論にしたいわけなんでしょう。

 この論にしたい人とジラールは随分相性がいい。

 しかしさすがに『明暗』は諦めていますね。

 浪費と模倣、これは笑えます。浪費がどこから出て来たのか分かりませんが、資本主義の原理は模倣ですか?

 初めて聞きました。資本主義の原理は自由競争、貨幣経済による市場の形成、計画経済ではないこと、あ、だから浪費と書いているのかな、しかし模倣は……ないなあ。

 漱石は確かに『それから』ではあらゆるものを批判しているけれども、まだ「資本主義」というものを明確に意識できてなかったと思う。『虞美人草』に「無政府主義者」が出てきて、『三四郎』の頃には石川三四郎、『それから』の頃には幸徳秋水が出てきているので、新聞を読む人間であればいわゆる当時の社会主義というものを何となくは理解していたわけだが、漱石は寧ろ資本主義の仕組みの中で上手くやる側に立ちたいと考えていて、少なくとも『それから』の後には中村是公に「相続財産のようなものがほしい」と言っているので『二百十日』の家族と金持ち批判というのはどこかへ消えてしまっている。

 長野家が土地成金であることにも批判的ではないし、先生が債券の利子で生活していることにも文句はない。なにしろ先生の家ではデザートに自家製のアイスクリームが出てくる。岩崎家とは比較にならないがこれはもうブルジョワ家庭と言ってもいい。ジョワとかミルミル呑んでいる人はプチブルだよ。「そもそも代助の身体が反資本主義的なのだ」なんて言ったってフランスの姉婿にタナグラ見つけてくれってたのんでたよね。タナグラなんて、本当に金持ちの道楽じゃない。

 一応「政略結婚のコマとして使われる長井家での位置」という指摘はらしいところだ。しかしそれを言うなら「先生」も財産の連携キーで、「健三」と「御縫さん」だってそうだ。

 いずれにせよこれほど高度な文芸批評ギャグはそうはないだろう。

[余談]

 この期に及んで私の本を読まない人、本当に一ミリも後悔しない自信あるの?

 石原千秋でさえこれだけ間違っているんだよ。

 あなた石原千秋より賢いの? 


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