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石原千秋の『漱石はどう読まれてきたか』をどう読むか50 「商売結婚」は言い過ぎだ

 中山和子の「『三四郎』―「商売結婚」と新しい女たち―」は石川三四郎にも言及しているようだ。と言っても小川三四郎のモデルは石川三四郎であると言ったモデル論ではなく、石川三四郎が自由恋愛を唱えていたのに、里見美禰子は「商売結婚」をしたと言いたいようだ。そしてロマン主義的近代恋愛思想が砕かれたという。

 しかし果たしてそうであろうか。

 やはり里見美禰子は恋愛結婚した可能性があり、その愛は極端に省かれているからほぼ見えないものではあるけれど、『それから』でからくりが明かされたと見れば、まるで長井代助の様に、突然相手の名前が浮かび上がってきた、ということがない訳でもなかろう。

 この後継作品で前の作品の怪しいところが説明されたりひっくり返されるというやり方は『坊っちゃん』と『野分』の間にも『こころ』と『明暗』の間にもみられる。だから必ず里見美禰子は恋愛結婚なのだと言い張るつもりはないけれど、むしろ今は「見合い結婚だとしたらあまりにも不自然」と考えている。

 野々宮と広田は美禰子の結婚披露宴にフロックコートで出席した訳なので、和式ではなく、教会で結婚したに違いない。キリスト教式結婚なら、愛を誓いあわなくてはならない。美禰子は耶蘇教の会堂に通っている。こればかりが証拠にはならないがやはり恋愛結婚の可能性が高い。

 こう一つの根拠は美禰子の結婚相手らしき紳士の発する「はやく行こう。にいさんも待っている」という言葉だ。友人である里見恭助のことを「里見」または「恭助」とは呼ばないで、わざわざ美禰子から見た関係性で呼んでいる。そして実際美禰子と結婚すれば、美禰子の結婚相手にとって里見恭助は「兄さん」なのである。その前提でそう呼んだというより、これまでの美禰子との関係性が案外深かったので、自然と美禰子の意識に寄り添うようになったと捉えるべきであろうか。少なくともバタバタと決まった結婚相手という感じがまるでない。結婚は確かに急でも、それまでにそれなりの関係性は出来ていたとみていいのではなかろうか。

 しかしそれにしても突然現れたのではないかと言われると、まあその通りなのではある。

 それがまた生憎僕には興味の乗らない話題ばかりなので、僕はみんなを相手にする事もできず、高木一人を相手にする訳にも行かなかった。彼は田口の叔母を親しげに御母さん御母さんと呼んだ。千代子に対しては、僕と同じように、千代ちゃんという幼馴染おさななじみに用いる名を、自然に命ぜられたかのごとく使った。そうして僕に、先ほど御着になった時は、ちょうど千代ちゃんとあなたの御噂をしていたところでしたと云った。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 田口千代子にとって「高木」は妹の百代子の友達のお兄さんなのである。しかし突然海水浴に参加していて、「千代ちゃん」と呼んでいる。これは「急に関係性ができた」わけではなく、従兄妹関係では相手の交際範囲が全部判っているわけではないという理屈が示されているところだ。広田や野々宮や佐々木が承知しない、里見美禰子の交際があっても何ら不思議ではないのだ。

 それでも三四郎は兎も角、野々宮宗八との関係を考えると、里見美禰子の心の中にもう一人の男性が潜伏していたとは、あまりにだらしなさすぎないかという考えもあり得るだろう。実際突然の高木の出現に須永市蔵は激しく嫉妬している。しかし田口要作の考えの中では、まだ別の第三者が出てくる可能性があるのだ。

 高木は始めから候補者として打って出たのではないと告げた。けれども相当の身分と教育があって独身の男なら、誰でも候補者になり得る権利は有っているのだから、候補者でないとはけっして断言できないとも告げた。この曖昧な男の事を僕はなお委しく聞いて見て、彼が今上海にいる事を確かめた。上海にいるけれどもいつ帰るか分らないという事も確かめた。彼と千代子との間柄はその後何らの発展も見ないが、信書の往復はいまだに絶えない、そうしてその信書はきっと父母ふぼが眼を通した上で本人の手に落つるという条件つきの往復であるという事まで確めた。僕は一も二もなく、千代子には其男それが好いじゃないかと云った。田口はまだどこかに慾があるのか、または別に考えを有っているのか、そうするつもりだとは明言しなかった。高木のいかなる人物かをまるで解しない僕が、それ以上勧める権利もないから、僕はついそのままにして引き取った。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 幼馴染の資産家の須永市蔵、何だか色々と条件の良さそうな高木、その上まだ誰かが出てくるのかも知れない訳である。

 改めて里見美禰子のだらしなさというのに目を向けると、それはそれなりに悩んだ末の切り替えではないかと思えなくもない。これが男なら、例えば「お兼さんを貰っておけばよかった」と軽口を叩きながら嫂に引っ付いている長野二郎や、適当に惚れたり惚れられたりしている三沢なんかもいる訳だし、佐々木与次郎など「じつはぼくにもいろいろあるんだ」と言っているので、里見美禰子だけ特別悪く言うわけにはいかないように思える。

 つまり里見美禰子の結婚は恋愛結婚では有り得ないという思い込みこそが、男は奔放であっても構わないが女は一途であるべきという『虞美人草』的一つ古い時代の道義に過ぎないのだ。

 あるいは「蝉の羽根の形のリボン」などの初手すぎる贈り物が、野々宮宗八と里見美禰子の関係の浅さを示してはいなかっただろうか。石原千秋や小森陽一は二人を婚約状態かあるいは結婚寸前と見做していたようであるが、その見立ては少し修正すべきかもしれない。



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