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『彼岸過迄』を読む 4369 田川敬太郎は道教の信徒か?

 田川敬太郎は迷信のはびこる家庭に成長した。よくよく読むと、そのルールは父親だけから与えられたものではない。

 迷信のはびこる家庭に成長した敬太郎は、呪禁に使う品物を(これからその目的に使うんだという料簡があって)手に入れる時には、きっと人の見ていない機会を偸んでやらなければ利かないという言い伝えを、郷里にいた頃、よく母から聞かされていたのである。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 これも本当に注意して読まないと気が付かないことではあるが、このような教えを「よく」聞かされるという家庭は極めて珍しいものではなかろうか。そんなにしばしば呪禁(まじない)をすることもなかろうし、ここでは呪禁が家族の楽しい行事ではなく、怪しい秘め事として取り扱われている。呪禁とは普通に読めば「じゅごん」で、その意味は邪気を払う道教の術である。

 なるほど道教かと気がついて初めて杖の意味が明かになる。「じゅごん」では剣や杖を使い、邪気・獣類を制圧する。

 ところがその後摘草に行った帰りに、馬に蹴られて土堤から下へ転がり落ちた事がある。不思議に怪我も何もしなかったのを、御祖母さんが大層喜んで、全く御地蔵様が御前の身代りに立って下さった御蔭だこれ御覧と云って、馬の繋つないであった傍にある石地蔵の前に連れて行くと、石の首がぽくりと欠けて、涎掛だけが残っていた。敬太郎の頭にはその時から怪しい色をした雲が少し流れ込んだ。その雲が身体の具合や四辺の事情で、濃くなったり薄くなったりする変化はあるが、成長した今日に至るまで、いまだに抜け切らずにいた事だけはたしかである

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 御祖母さんも迷信好きだ。御祖母さんは「御地蔵様が御前の身代りに立って下さった御蔭だ」とやはり迷信めいたことを言うが、地蔵の首が落ちるということはただ事ではない。何しろ弥勒菩薩の代理なのだ。地蔵を身代わりにしたのは方位九星に詳しい神経家である田川敬太郎の父だろう。おかげで田川敬太郎の頭の中には怪しい色をした雲が今でもある。
 その田川敬太郎が邪気を払う杖を得たのだから、見る人から見ればこれはただものではない筈だ。怪しい色をした雲さえ見抜けない占いの婆さんは偽者である。

 田川敬太郎の祖父は江戸時代の浅草をよく知っている男だった。

 彼は小供の時分よく江戸時代の浅草を知っている彼の祖父さんから、しばしば観音様の繁華を耳にした。仲見世だの、奥山だの、並木だの、駒形だの、いろいろ云って聞かされる中には、今の人があまり口にしない名前さえあった。広小路に菜飯と田楽を食わせるすみ屋という洒落た家があるとか、駒形の御堂の前の綺麗きれいな縄暖簾を下げた鰌屋は昔から名代なものだとか、食物の話もだいぶ聞かされたが、すべての中で最も敬太郎の頭を刺戟したものは、長井兵助の居合抜きと、脇差をぐいぐい呑んで見せる豆蔵と、江州伊吹山の麓にいる前足が四つで後足が六つある大蟇の干し固めたのであった。それらには蔵の二階の長持の中にある草双紙の画解きが、子供の想像に都合の好いような説明をいくらでも与えてくれた。一本歯の下駄を穿いたまま、小さい三宝の上に曲んだ男が、襷がけで身体よりも高く反り返った刀を抜こうとするところや、大きな蝦蟆の上に胡坐をかいて、児雷也が魔法か何か使っているところや、顔より大きそうな天眼鏡を持った白い髯の爺さんが、唐机の前に坐って、平突くばったちょん髷を上から見下ろすところや、大抵の不思議なものはみんな絵本から抜け出して、想像の浅草に並んでいた。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 ここには聞き手の興味関心が示されてはいるものの、これは話し手の話題が齎したもの、つまり田川敬太郎の祖父は昔の浅草の食い物屋もさることながら、雑多ないかがわしいもの、曲芸やミステリーに大いに関心があったということなのだろう。また昔の浅草を懐かしみ、その懐かしさを語る形で田川敬太郎に浅草への憧れを植え付けたのだとも言える。

 またこれもたった今気が付いたのだが「蔵の二階の長持の中にある草双紙の画解きが、子供の想像に都合の好いような説明をいくらでも与えてくれた」というのもかなり特殊な環境ではなかろうか。田舎の土地持ちで蔵があることは珍しくない。しかし蔵に二階があり、そこに草双紙がたくさんあり、情報をいくらでも与えてくれるということはなかなかないことではなかろうか。
 そもそも田川敬太郎は帝国大学を卒業する法学士であり、エリートではあるのだが、その下地として草双紙が幾らでも読めるという幼児教育に恵まれた環境があり、道教の呪禁の加護もあったのだと捉えてみると、まだまだ解らないことだらけの『彼岸過迄』がまたほんの少しだけクリアになったと感じられる。

 さて、この祖父が江戸でいかなる仕事をして、その子が何故いかなる方位九星に詳しい神経家となり、田舎に土地を得て済みつき、どのようにして妻を娶って田川敬太郎を拵えたのか、非常に興味のあることながらそこは書かれていない。
 ただ頭の中には怪しい色をした雲が今でもある田川敬太郎が道教の影響下にあり、呪禁を使うことは、この名もなき祖父から継承されたいかがわしさではなかっただろうかと考えられる。


[余談]

 結局夏目漱石は難しすぎたのかもしれない。『彼岸過迄』に限らず、殆ど誰も読めていない。これは愉快なことではない。それが芥川龍之介作品も同じだと気が付いてみれば、如何にも惨憺たる思いだ。

 海を川だと云われた気分だ。そしてそんな人たちが人に物を教えているらしい。それでどうやって真面な読者が生まれてくるというのだろうか。
 例えば『あばばばば』では店の女が西洋髪から円髷に変わる。そこに変化を見てしまうのはミスだ。芥川龍之介がミスディレクションを仕掛けているからだ。女は最初から妊婦だった。それを胡麻化す仕掛けが店の女の髪形の変化なのだ。
 小説を読むということは、少なくとも私が取り上げている作家の小説を読むということは、殆どこの宇宙でたった一人になるような孤独な作業だ。時々シンプルに「馬鹿」と叫びたくなる。しかしおそらく誰かが「馬鹿」なのではないだろう。
 宇宙でたった一人になるような孤独な作業を経なければ夏目漱石も芥川龍之介も生まれなかった。小説を読むことが出来るのはたった一人なのだ。



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