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岩波書店・漱石全集注釈を校正する60 一奩楼角雨、閑殺古今人、忽䎸彈琴響、垂楊惹恨新

一奩楼角雨、閑殺古今人


 甲野さんは寝ながら日記を記けだした。横綴の茶の表布の少しは汗に汚れた角を、折るようにあけて、二三枚めくると、一頁の三が一ほど白い所が出て来た。甲野さんはここから書き始める。鉛筆を執って景気よく、
「一奩楼角雨、閑殺古今人」
と書いてしばらく考えている。転結を添えて絶句にする気と見える。

(夏目漱石『虞美人草』)

 この「一奩楼角雨、閑殺古今人」に対して岩波は、

「奩」は香ばこ。化粧ばこ。美しい楼閣の一角を濡らす雨は、古人・今人のこころをしずかにする。「閑殺」の「殺」は強意。

(『定本 漱石全集 第四巻』岩波書店 2017年)

 ……と注を付ける。
 むむむ、色々ある。
 まず「一奩」が勝手に「美しい」という形容詞にすり替わっている。ここは「~のような」という比喩であろう。

 そして、そもそも「奩」は香ばこなのだろうか。香奩、粧奩ともにあるも、一奩は鏡一奩のように鏡のようなもの(池とか?)に使われることが多い。(国立国会図書館デジタルライブラリーでは「一奩」が53件「「鏡一奩」が13件ヒットする。)また鏡一奩は、

虞美人は明鏡一奩を出し、呂氏は金釵一股を留めで以で相贈り韶鍾としで而しで別を惜む。

『虞美人』 宮崎来城 著大学館 1901年

 ……とイメージ的に結びつくことから、どうも私には「一奩」が香奩、粧奩ではなく鏡奩、鏡匣であり、雨に濡れて銀色に映える楼閣の画に見える。

 そして「閑殺」の「殺」は強意とあるも、「閑殺」は既に当時日本語として名詞となっており、動名詞として用いられているという事実が示されていない。

かん-さつ [0] 【閑殺】 (名)スル
気を滅入(メイ)らせて活動できないようにすること。「冷淡は人を―し/熱意(透谷)」

大辞林

かん‐さつ【閑殺】 [名]スル人の気持ちを暗くし、活気を失わせること。「冷淡は人を―し」〈透谷・熱意〉

大辞泉

接待や欠がちなる昼さがり    畏計
 摂待というのは「仏寺あるいは街衢がいくにて往来の人に茶湯を施すこと」と歳時記にある。日は別に定きまっておらぬらしい。
 この句は摂待する側の人を描いたものである。仏寺であるか、街衢であるか、それはわからぬ。通行の人は次から次へと来て、茶に咽喉を潤して去る。いずれ酌むに任せ、飲むに任せてあるに相違ないから、摂待する側の人はただそこに詰めているものと思われる。昼下りは由来最も眠くなりやすい時刻である。秋の日といえどもその点に変りはない。もし残暑の去りやらぬ時分でもあればなお更であろう。摂待する側の人が閑殺されたような形で欠ばかりしているというのも、慥かに同情に値する事実である。摂待の句としては変った種類のものといわねばならぬ。

(柴田宵曲『古句を観る』)

「忙殺される、といふ言葉はあるが、閑殺されるといふ事は初めて經驗した。」


『柿二つ』高浜虚子 著養徳社 1948年


頼山陽の人と思想 木崎好尚 著今日の問題社 1943年

鐵路一たび仙臺を過ぎつてより車窓旅人の閑愁ひとへにかの單調無變の長途に閑殺す。そこに目を奪ふの奇勝もなければ魂を飛ばしむる佳景もない。

黛 松根東洋城 著秩父書房 1941年

 また「楼角」は「楼閣の一角」ではなく、二階建ての建物の曲がり角のことである。この場合は宗近君が角部屋の縁側にいたことを指すのだろう。字そのものの意味で読むのではなく成語は成語として読んでいかなければ解釈を曲げかねない。

詳解漢和大字典 服部宇之吉, 小柳司気太 共著富山房 1943年


現代漢和大字典 日本通信大学法制学会編輯部 編日本通信大学法制学会 1938年


新修漢和大字典 小柳司気太 著博文館 1936年


 つまり「美しい楼閣の一角を濡らす雨は、古人・今人のこころをしずかにする」ではなく、「鏡匣のような楼の曲がり角を濡らす雨は、古人・今人の気を滅入らせて活動できないようにするものだなあ」と読むべきではなかろうか。


忽䎸彈琴響、垂楊惹恨新

 

「忽䎸彈琴響、垂楊惹恨新」
と甲野さんは別行に十字書いたが、気に入らぬと見えて、すぐさま棒を引いた。あとは普通の文章になる。

(夏目漱石『虞美人草』)

 
 この「忽䎸彈琴響、垂楊惹恨新」に対して岩波は、「ふと聞こえてくる琴の音、枝垂柳は恨むがごとき風情で新緑の糸を垂れている」と読む。

 まず「忽」は「ふと」ではなく、「不意に、急に」であろう。そして、

鑑賞物揮毫書範 辻本史邑 編駸々堂書店 1941年

 この「惹恨」をこの詩のように「されば、昔日の皇都たりし面影もなく、細柳は空しく絲を垂れて常に我々をして恨めしくさへ感ぜしめる」と読んだということだろうか。

字源 簡野道明 著字源刊行会 1931年

○「惹恨長」春風も愁を吹去らず、却て傷心の種となれば、春日の長きは則ち我が恨みを長からしむるなり。

唐詩選全釈 平野秀吉 著東洋図書刊行会 1929年

 この「恨」の意味だが、そのまま日本語の「恨む」とは少し違うように思える。残念、心に残るという程度の意味ではなかろうか。

漢籍國字解全書 : 先哲遺著 第10巻 早稻田大學出版部 編輯早稻田大學出版部 1928年

 このように「とりついてはなれぬ」という読みもある。

子規全集 第8巻 (少年時代創作篇) 正岡子規 著アルス 1925年


和漢名詩選 : 訳註 附・作詩初歩 奥村梅皐 編文江堂書店 1912年

 恨みを惹く、は本当によく使われる言葉で、つまり今現代日本語で「恨む」というほどのどぎつさはない。いわゆる「怨恨を抱く」というような意味ではないのだ。恨みを惹いて銃撃したりはしない。

和漢名詩選 : 訳註 附・作詩初歩 奥村梅皐 編文江堂書店 1912年

 心に留まるという程度の軽い意味にもとれる。

漢籍国字解全書 : 先哲遺著 第十巻 早稲田大学編輯部 編早稲田大学出版部 1911年

 さて、では「ふと聞こえてくる琴の音、枝垂柳は恨むがごとき風情で新緑の糸を垂れている」はどうだろう。「恨むがごとき風情」というのはなんとも恐ろしく頑固な感じの読みではなかろうか。

 まあ漱石には時々「突拍子もない感覚」の露出があり、そうした破調が出たところという見立てもあり得るとして、ここはどうか。

 これは「ふいに聞こえてきた琴の音、しだれ柳は新しくて気になる」という程度の読みではどうだろう。

他人の金銭を預かると一般である

解けぬ謎である、苦痛である。親兄弟と云う解けぬ謎のある矢先に、妻と云う新しき謎を好んで貰うのは、自分の財産の所置に窮している上に、他人の金銭を預かると一般である。

(夏目漱石『虞美人草』)

 夏目漱石作品を読んだ、という人には説明するまでもないことだが、注釈のつけ方として、その作品で初めて現れる特殊な言葉の使い方には注を付けるべきなのであろう。
 ここはもう当たり前すぎてふりがなもないが、漱石の語彙において「一般である」は「同じである」という意味で、普通の「一般」は「一般に」という場合に使われる。

死とはあまりに無能である

 ……すべての疑は身を捨てて始めて解決が出来る。ただどう身を捨てるかが問題である。死? 死とはあまりに無能である 

(夏目漱石『虞美人草』)

 ここは岩波の注が付かぬところ。しかしやたらと漱石作品に「自殺願望」を見出してしまう有象無象の為に一言書き添えておきたいところ。

 漱石は人生は自殺するほど価値のあるものではないと考えており、もっと無茶苦茶なことを考えている。

貝合わせ


雨は一つである。冬は合羽が凍る。秋は灯心が細る。夏は褌を洗う。春は――平打の銀簪を畳の上に落したまま、貝合せの貝の裏が朱と金と藍に光る傍に、ころりんと掻き鳴らし、またころりんと掻き乱す。宗近君の聴いてるのはまさにこのころりんである。

(夏目漱石『虞美人草』)

 岩波はこの貝合わせに普通の説明をつける。

 貝合わせと絵貝はともに藤原時代から伝わったようだが、どうも資料が嘘くさい。貝を合わせようとすれば、一度では合わないので、何度か繰り返すうちに端が擦り切れる筈であり、そうなれば今度は合うはずの貝が合わなくなる。どうも理屈に合わない。かるた式の絵貝ならまだわかるが。

愚にして賢と心得ているほど片腹痛い事はないものだ

 ですって。

まあ立ん坊だね

「なんて生意気を云う君はどうだ。酔払っていると知りながら、胡坐をかく事も跪坐る事も出来ない人間だろう」
「まあまあ立ん坊だね」と甲野さんは淋し気に笑った。勢込んで喋舌って来た宗近君は急に真面目になる。

(夏目漱石『虞美人草』)

 この「立ん坊」に岩波は、

 坂の下などに立っていて、臨時に車の後押しなどをして日銭を得る労働者。

(『定本 漱石全集 第四巻』岩波書店 2017年)

 ……と注を付ける。無論ここは、比喩としての「立ん坊」ではなく「いよいよ本当の立ん坊か」の注であろう。

「立ん坊か」と云ったまま宗近君は駱駝の膝掛の馬簾をひねくり始めたが、やがて
「いつまでも立ん坊か」
と相手の顔は見ず、質問のように、独語のように、駱駝の膝掛に話しかけるように、立ん坊を繰り返した。
「立ん坊でも覚悟だけはちゃんとしている」と甲野さんはこの時始めて、腰を浮かして、相手の方に向き直る。
「叔父さんが生きてると好いがな」
「なに、阿爺が生きているとかえって面倒かも知れない」
「そうさなあ」と宗近君はなあを引っ張った。
「つまり、家を藤尾にくれてしまえばそれで済むんだからね」
「それで君はどうするんだい」
「僕は立ん坊さ」
「いよいよ本当の立ん坊か」
「うん、どうせ家を襲いだって立ん坊、襲がなくったって立ん坊なんだからいっこう構わない」
「しかしそりゃ、いかん。第一叔母さんが困るだろう」

(夏目漱石『虞美人草』)

 この「立ちん坊」は本当の立ちん坊のことではなく象徴的な意味での立ちん坊であり、車夫以下、くずひらひ以下、乞食のちょいと上を明確に指すのではなく、より具体的に言えばいわゆる日雇の手前、辺りを指すもので、その仕事内容は必ず坂の下で待っていたわけでもない。

俗に「立ちん坊」と稱せられ市場昇り口に數十名一團となり、早朝來場せる小賈商人の傭使に應じ荷物の運搬又は跡押をなす。

大阪市内卸市場調査 第1輯 大阪市商工課 編大阪市商工課 1923年

 そもそもここは比喩的表現なので真剣に考えるところでもない。

公使館の佐伯

「ハハハハ。時に御叔父さんの遺物はもう、着いたか知ら」
「もう着いた時分だね。公使館の佐伯と云う人が持って来てくれるはずだ。――何にもないだろう――書物が少しあるかな」

(夏目漱石『虞美人草』)

 夏目漱石作品では「関」同様使いまわしにされる名前に「佐伯」「清」「お光」などがある。佐伯は『門』、『彼岸過迄』にも出て來る名前で、キャラクターに共通点は見られない。

[余談]

 今回は苦手な漢詩を解釈してみた。これはなかなか手ごわい。冷汗が出る。何しろ漢詩は中国人のものなので、中国人なら全く別の解釈をして来ることだろう。

 ただ少なくとも現時点での岩波の注釈に全く問題がないわけではないということだけは確認できたのではなかろうか。最後が「恨み新たなり」のような気もしないでもない。ここはさすがに餅屋に任せたいところ。

 あの人に頼んでみたいが、まだ接点がないからなあ。
 趣味でやってくれるかな?



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