芥川龍之介の『歯車』をどう読むか60 ホミカとアヘンエキスは伏せられた
五月三日、雨。
題未定の小説を一二枚書いてみる。(中略)ランケの小説にベツドを共にしたる亭主の魂鼠となりて水を飲みに行くを細君の目撃する小説あるよし。(中略)疲るること甚し。ホミカ、カスカラ錠、ヴエロナアル等を服用。
多くの未公開作品のある谷崎潤一郎と異なり、芥川龍之介作品は未定稿も含めて本人が公開を望まなかったものまで含めてあらかた公開されている。では日記や書簡を含めて、自分の作品がどのくらい網羅的に公開されるのかということを芥川龍之介は理解してただろうか。あるいはここまでは公開されまいと日記を書き、これは恐らく出るだろうなと『歯車』の未定稿を残したということはないだろうか。
吉田精一は「ホミカ、カスカラ錠、ヴエロナアル」に註解をつけて「みな催眠剤」としている。これはとんでもない知ったかぶりである。嘘である。この中で一般に催眠剤として投与されるのはヴエロナアルだけである。つまり三分の二は催眠剤ではない。吉田精一が医者でなくてよかった。いや、だからと云って迷惑な話だ。こうしたいい加減なことを書いて平気で文学博士が名乗れるのだから、人文学をやっている人間は理系の人たちから見れば全員馬鹿に見られてしまうのだろう。確かにこれは馬鹿だ。馬鹿に馬鹿というのも馬鹿な話だが、これはいけない。
これは本当にいけない。出版社もいけない。


結果としてこんなお追従馬鹿が生まれてくる。何故調べないで書くのだろうか。何故こんな記事がチェックもされずに拡散されるのだろうか。何が(ホミカも催眠剤の一種)だ。とんでもないお調子者がいたものだ。こうした迂闊な行動によりデマがデマを産み、収拾がつかなくなる。解らなければ書かなくていいのに。吉田精一はこの責任をどうとるつもりなのであろうか。出版社はどう責任を取るつもりなのであろうか。


カスカラ錠は恐らく下剤として処方されたものであろう。
そしてよく読むと、書簡の所の註では「ホミカ 薬品名。未詳」とある。なんといい加減なことか。これはいけない。これはダメだ。吉田精一はこの時正常だったのだろうか?
そして、
鴉片エキス、ホミカ、下剤、ヴエロナアル――薬を食つて生きてゐるやうだ。
とあるので「ホミカ、カスカラ錠、ヴエロナアル等」の「等」には、鴉片エキスが含まれるだろう。それを敢えて「みな催眠剤」と濁してしまいたい理由は定かではない。ただし芥川が『歯車』に、「ホミカ、カスカラ錠、ヴエロナアル等」と書かなかった理由は、ホミカや鴉片エキスを伏せる意図があったのではなかろうか。
ホミカが何なのか解らない読者であってさえ、鴉片エキスがどういう作用と副作用を持つのかということくらいはおおよそ明らかであろう。そして鴉片エキスを持ち出すことで、『歯車』の主人公が精神に異常をきたした人ではなく、単なるアヘン中毒者に見られてしまうことを、芥川龍之介は意図的に避けたのではなかろうか。仮にそう考えてみると、
「ああ、あすこ? まだ体の具合は悪いの?」
「やっぱり薬ばかり嚥んでいる。催眠薬だけでも大変だよ。ヴェロナアル、ノイロナアル、トリオナアル、ヌマアル……」
こうした睡眠薬の多剤投与の告白に見えるところも、
歯車はやはりまわりながら、次第に数を殖やして行った。僕は頭痛のはじまることを恐れ、枕もとに本を置いたまま、○・八グラムのヴェロナアルを嚥み、とにかくぐっすり眠ることにした。
こうしたヴェロナアルのみの摂取の告白に見えるところも、同じように調整された「設定」でしかないと言えるだろう。

それにしてもストリキニーネを睡眠薬としている理由は何だろうか。以前芥川にホミカの適用病名がないと書いたが、苦みを以て胃腸薬として処方されていた可能性はなくはない。あるいは陰萎の治療に使われていた例があるので、何か別の薬効があるのかも知れない。しかしどうもホミカは睡眠薬ではない。
とりあえず芥川が『歯車』の主人公にホミカの服用をさせなかったのは一つの演出であろう。芥川は『歯車』の主人公をギョウチュウもちのアヘン中毒者にしたくはなかったのだ。
だからどうだという話にはまだしないが、少なくとも『歯車』がまもなく自殺する精神異常者の苦悩の告白などではありえないということを繰り返し書いておく。
脚の向きw pic.twitter.com/4xgI7QHNml
— ヒロクライム🤣 (@tannokasa3) December 31, 2023
