石原千秋の『漱石はどう読まれてきたか』をどう読むか48 一義化なんてされていない
「書物」の「黙読」によって自らを読解主体として形成する独身男性たちのホモジェニアスな共同体は、同時にそれを共有しない者たち(女性)を読解対象として一義化することによって、常に特権的に働きかける「読書」共同体でもある。
なんか難しそうなことを書くなあ。これは松下浩幸の「『三四郎』論――「独身者」共同体と「読書」のテクノロジー――」からの孫引きになる。「読書」のテクノロジーが「黙読」のようだ。
AI による概要
ビニル床タイルの区分について | 建築の納まり図とその解説
ホモジニアス(homogeneous)は、「均質・同種・同質」を意味し、全体が同じ性質や成分で構成されている状態を指します。床材の「ホモジニアスタイル」は、樹脂含有率が30%以上で、柔らかく、耐摩耗性に優れた素材です。対義語は異質のものを指すヘテロジニアス。
主な特徴と用途
床材(ホモジニアスタイル):
特徴: 複層ビニル床タイルの一種で、単一素材(バインダー含有量が多い)で構成され、歩行感が良く、耐久・耐摩耗性に優れる。
デザイン: デザインやバリエーションが豊富。
施工・維持: 下地の不陸(凹凸)を隠しやすく、メンテナンスが比較的容易。可塑剤の移行により、施工後初期はワックスが密着しにくい場合がある。
物理・科学: 混合物全体が均一な状態。
コンピューティング: 全て同じ種類のプロセッサで構成されたシステム。
この言葉は、素材の均一性だけでなく、ITや実験系など幅広い分野で均質性を表現するために使用されます。
これ『三四郎』に登場する独身男性たちはみな本を黙読しているという前提の話なのだろうが、大学生や教師で本を読まない者はいないだろうし、現に『三四郎』を黙読している女子も存在する訳だから、「近代のはじめにはそれは男性にだけ許された組織だった」なんてことにはならないのではなかろうか。勿論これがベーコンの論文集や「オルノーコ」などで言えば、中学英語では読めない。しかし広田に英語を教わっている里見美禰子には読めたのではなかろうか。でなければ聖書の引用は出来ない。
つまり里見美禰子も黙読を許されていたのであれば、この一点で松下浩幸の「『三四郎』論――「独身者」共同体と「読書」のテクノロジー――」は無意味になるのだが、「同時にそれを共有しない者たち(女性)を読解対象として一義化することによって」言う部分に関しても踏みつぶしておきたい。なぜなら野々宮よし子については佐々木与次郎が小川三四郎に推薦するくらいで、ほとんど読解対象とされていないからである。
一義化も何もない。
三輪田のお光さん、汽車の女は「独身者」共同体によって読解の対象とはされない。共有化されていないからだ。野々宮よし子は兄から「ぼくの妹はばかですね」と言われるくらいで原口の話題もならない。それを共有しない者たち(女性)と言われているのがどうも里見美禰子一人なのだ。
しかし里見美禰子に嫉妬する野々宮よし子が見えていたら、「独身者」共同体によって読解の対象とはならないよし子が読者の読解の対象として俄然浮かび上がってくるはずだ。それはよし子単独の謎としてではなく、すらりと背の高い青白い女として野々宮よし子が、何故か小川三四郎との間に「母性」のようなものを介在させていることと併せて意識されるべきであろう。
里見美禰子と野々宮よし子はけして一義化されることのない別々のキャラクターなのだ。
三四郎の中では三輪田のお光さん < 汽車の女 < 里見美禰子という形の序列で、三人の女が「九州色」の女としてランキングされている。野々宮よし子はこの系列にはない。一義化はされていないのだ。
作品の中では「その脚本のなかに有名な句がある。Pity's akin to love という句だが……」と一部ではあるが音読がされていて、演芸会では女も観劇している。黙読共同体も全然仮想できない訳ではないが、ならば観劇共同体もあったと言わねばならないだろう。黙読共同体といい本郷文化圏といい、何かを鋭く言い当てようというやましい精神が見え見えで恥ずかしい。ピタリとはまらないから恥ずかしいのだ。里見美禰子が聖書の引用をすること、そしてストレイシープという事、それを見逃して黙読共同体といってしまうのはほとんどヨコチンである。
