芥川龍之介の『魚河岸』をどう読むか④ 鏡花の小説は死んでいない。
コント形式の漫才で、「俺、昔からやってみたい職業があって……」「ちょっとやってみようか」と、漫才師が刑事や犯人を演じることがある。このフォーマットの起源は解らないけれど、よくよく考えてもみれば、漫才という立ち位置を一旦消してしまえば、残るのは大きな意味での虚構である。それをコントと呼ぶか芝居と呼ぶかは別として、そういう虚構は、「実際にはないけれどもあったていで行われる」ものであり、その虚構の枠組みには当然ながら小説も含まれる。
しかし書き手と演者が明確に分けられるタイプの映画や芝居、つまりヒッチコックタイプでない映画や芝居と異なり、コント形式の漫才や小説というものには、その漫才師や作者の立ち位置が求められかねない。
このことは至極当然のように扱われてきた。
例えば『鼻』を読んで「芥川の顔面コンプレックスが現れている」とは言われないものの『羅生門』では「下人のあらあらしさに実父の野武士的なイメージが重ねられている」とは言われてしまう。
先日『寒山拾得』を読み直して、作者の立ち位置と物語空間の時空の在り方について考えた。
627年 - 649年と鎌倉時代と明治四十一年と大正五年と大正九年をごちゃまぜにする。中国の詩僧を銀座に連れて來る。汽車も使わず徒歩でもなく京都に臨場する。小説ではそもそもそんな出鱈目が可能だったのだ。
してみると『魚河岸』の時空はどうだ。そもそも『魚河岸』は江戸っ子でもない泉鏡花が江戸っ子ぶって現代の東京で書き上げた江戸時代の光景のカリカチュアを笑おうとしていたのではなかったか。つまりそれは大正十一年に書かれていて、
去年の春の夜、――と云ってもまだ風の寒い、月の冴えた夜の九時ごろ、保吉は三人の友だちと、魚河岸の往来を歩いていた。
こうあることから、大正十年の春、日本橋の魚河岸のまだ現存する風景を翌年、また日本橋の魚河岸のまだ現存する時期に描いた、と決めつけることにはさして意味がないのではなかろうか。確かに日本橋の魚河岸は大正十二年の関東大震災をきっかけに築地へ移転する。従って『魚河岸』を大正十三年に書きさえすればほかの保吉ものの「失われたものを回顧の形式で書く」「書かれている時代と書いている現在の間に物語構造が生まれる」というスタイルを継承できる。
しかしそもそも「失われたもの」とは日本橋の魚河岸だったのだろうか。保吉ものは「失われたものを回顧の形式で書く」小説だったのだろうか。
鏡花の小説は死んではいない。少くとも東京の魚河岸には、未だにあの通りの事件も起るのである。
例えば『寒山拾得』は漱石も若き日の時分も寒山も拾得も運慶も失われていない体で書かれる小説である。無論「体」であり、漱石はもういない。しかし「鏡花の小説は死んではいない」と書いてみる。死ぬわけもない。そもそも鏡花は江戸っ子ではないのだ。
嘘は死なない。
漫才師が同時に刑事やピザ屋の店員であることが可能なように、小説家の書く「自分」は何でもありの世界に生きている。
つまり『魚河岸』が大正十一年に、大正十年の日本橋の魚河岸を書いた作品であると決めつけることには殆ど意味がないのではなかろうか。少なくとも大正十一年に書かれたことは認めるとして、大正十年の日本橋の魚河岸を書いたと決めつける根拠は乏しい。
ピザ屋のコントで「ちょっと待って、今令和何年の設定なの?」と確認する漫才師もなかろう。それはとにかく虚構なのだから。
なんせ魚河岸でビフテキやライスカレエを食べるのだから。
それによくよく考えてみれば、大正十年に洋画家の風中はまあよいとして、蒔画師の如丹は飯が食えるのだろうか?
蒔画師とはいかにも時代錯誤な商売ではなかろうか。ここはのっけから芥川が「時代錯誤性」を持ち込んだところではなかろうか。つまり、
弁護士・藤井
銀行の支店長・飯沼
大学教授・野口
電気会社の技術長・木村
ドクタア和田長平
と、いかにもな現代を入れていないところ、
それが『一夕話』と比較した時、明確になる。だからこそ滑稽な、やはり時代錯誤性を帯びた雅号で呼び合うのだ。
無論『魚河岸』の時代設定が大正十年では絶対にない、というつもりはない。むしろ大正十年であっても構わない。しかし芥川がその大正十年の日本橋に泉鏡花という虚構を持ち込んだことは確かである。そもそも鏡花とは鏡に映った花で、掴むことはできない。
嘘は失われない。
そういう意味では『魚河岸』は「失われない虚構を回顧の形式で書く」「書かれている虚構と書いている現実の間に物語構造が生まれる」というスタイルの作品であると見做してよいかもしれない。
いや、見做してよいかもしれないではなく、見做してよい。
なんせ河岸でビフテキやライスカレエを食べるのだから。
大切なことなので二回書きました。
※太宰は芥川だって揶揄う。それだけ信頼しているのだ。されてはいないけれど。
【余談】
いちやつくを大村兵部睨め付け 久良伎
忙中閑あり魚河岸の道具店 同
魚河岸を出ると電車も珍しい 同
すべて是れ大正年代の東京。第一句は九段大村益次郎の銅像下に於る歓会風景である。この句の中からあの辺りの青葉若葉濃やかに匂ふ闇の夜に聳り立つ巨像の姿を、目に描き得た人たちは幸福とおもふ。第二句第三句は、未だ日本橋にあつたころの魚河岸である。服部伸演ずる一心太助の喧嘩場に見られるやうな大鮪引摺つて歩く久利加羅紋々の兄イたちも歩いてゐたらう。さうして丸花の料理には未だ/\なか/\に生一本の風味がのこつてゐたらう、少くとも魚河岸を出ると電車の行くのが珍しかつたほど、河岸の中は広重ゑがく河岸の景色をそのままのこしてゐたのだ。尤もそれは蒲原有明の「朝なり」と云ふ詩を見ても肯かれるが。芥川龍之介氏の「魚河岸」と云ふごく短い小説にはあの日本橋時代の魚河岸の景色に「腥い月明りの吹かれる通りを」と鋭い描写の冴えを示してゐるが、ここでも作者自ら「現代の日本橋は、到底鏡花の小説のやうに、動きつこはないとも思つてゐた」のが、俄然、最終末に至つて「鏡花の小説は死んではゐない。少くとも東京の魚河岸には、未だにあの通りの事件も起るのである」と嘆ぜしめたほど、未だ何と云つてもあの時代の日本橋には江戸伝統の「生活」ありし日本橋が呼吸いきづいてゐたのだ。この日本橋が非衛生だとて現今の築地へ移転されたとき、故人小勝は左のやうな警句を吐いてニヤニヤ笑つたつけ。
「日本橋の人の衛生に悪くて、築地の人の衛生にやいいンでがせうか。ちよいと皮肉に訊いて見度い」云々。
人目はばかる女らの
あしひそめきあひて、
足ばやにきし渡れば軋む橋の板。
にぎやかな場所にはそういう女がいるものだ。小説には書いてあることと書かれないことがある。
