芥川龍之介の『寒山拾得』をどう読むか① 何、死にやしません。
久しぶりに漱石先生の所へ行つたら、先生は書斎のまん中に坐つて、腕組みをしながら、何か考へてゐた。「先生、どうしました」と云ふと「今、護国寺の三門で、運慶が仁王を刻んでゐるのを見て来た所だよ」と云ふ返事があつた。この忙しい世の中に、運慶なんぞどうでも好いと思つたから、浮かない先生をつかまへて、トルストイとか、ドストエフスキイとか云ふ名前のはいる、六づかしい議論を少しやつた。それから先生の所を出て、元の江戸川の終点から、電車に乗つた。
まだ漱石が生きていた時代の芥川の文章が好きだ。
何か少し漱石に甘えたような、生意気のような、少しも苦しいところのない芥川が見える。折角漱石が「運慶が仁王を刻んでゐるのを見て来た」と面白い話を振っているのに完全にスルーする。この生意気なところが如何にも面白い。
しかしこの時既にロシアでは革命が始まっており、まずはこれが漱石の晩年、大正五年のことだと解る。
電車はひどくこんでゐた。が、やつと隅の吊革につかまつて、懐に入れて来た英訳の露西小説を読み出した。何でも革命の事が書いてある。労働者がどうとかしたら、気が違つて、ダイナマイトを抛りつけて、しまひにその女までどうとかしたとあつた。兎に角万事が切迫してゐて、暗澹たる力があつて、とても日本の作家なんぞには、一行も書けないやうな代物だつた。勿論自分は大に感心して、立ちながら、行の間へ何本も色鉛筆の線を引いた。
しかしこの後、「自分」は寒山拾得を見る。運慶も寒山拾得も昔の人だ。大正五年にいるわけもない。師が師なら弟子も弟子だ、という話である。
「ありや本当に昔の寒山拾得ですか」と、念を押すやうに尋ねて見た。けれどもその男は至極家常茶飯な顔をして、
「さうです。私はこの間も、商業会議所の外で遇ひました」と答へた。
「へええ、僕はもう二人とも、とうに死んだのかと思つてゐました。」
「何、死にやしません。ああ見えたつて、ありや普賢文殊です。あの友だちの豊干禅師つて大将も、よく虎に騎つちや、銀座通りを歩いてますぜ。」
※家常茶飯 かじょうさはん あたりまえのこと。
しかし唐の時代の人が大正五年の銀座にいてはおかしい。当たり前ではない。しかしどうだ。
このとき道翹が奧の方へ向いて、「おい、拾得」と呼びかけた。
閭がその視線をたどって、入口から一番遠い竈の前を見ると、そこに二人の僧のうずくまって火に当っているのが見えた。
一人は髪の二三寸伸びた頭を剥むき出して、足には草履をはいている。今一人は木の皮で編んだ帽をかぶって、足には木履ぼくりをはいている。どちらも痩やせてみすぼらしい小男で、豊干のような大男ではない。
道翹が呼びかけたとき、頭を剥き出した方は振り向いてにやりと笑ったが、返事はしなかった。これが拾得だと見える。帽をかぶった方は身動きもしない。これが寒山なのであろう。
森鴎外の『寒山拾得』も大正五年に、今今目にした出来事でもあるかのように書かれている。
唐の貞観のころだというから、西洋は七世紀の初め日本は年号というもののやっと出来かかったときである。
そう断りさえすればどんな時代にも生々しく臨場し、その過去の時空に存在できるものなのだろうか。そもそも人間はタイムマシーンを持っていない。唐の貞観、627年 - 649年、日本人がどんな言語を話していたのかということさえ定かではない時代だ。しかもその時代の中国人に「そんならこれでお暇をいたします」などと言わせている。これは時代劇で織田信長が「今夜八時に集合ね。ぜってい遅れんなよ」と言っているようなものだ。森鴎外は頭がおかしいのではないか……とは普通は考えない。
それは何故か。
それはどこかで作家が寒山拾得に会いに行くことが可能ではないかとみとめているからではなかろうか。作家にとって時間の制約とはいかほどのものか。そんなものはそもそもあるのかと。ならば、家常茶飯なことではないとはいえ、寒山拾得が銀座に現れることもまた可能なのではなかろうか。
いや、そんなものは単なる見間違えに過ぎないのだ、と言ってしまっていいものだろうか。
運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。
山門の前五六間の所には、大きな赤松があって、その幹が斜めに山門の甍を隠して、遠い青空まで伸のびている。松の緑と朱塗の門が互いに照り合ってみごとに見える。その上松の位地が好い。門の左の端を眼障わりにならないように、斜に切って行って、上になるほど幅を広く屋根まで突出しているのが何となく古風である。鎌倉時代とも思われる。
ところが見ているものは、みんな自分と同じく、明治の人間である。その中うちでも車夫が一番多い。辻待をして退屈だから立っているに相違ない。
「大きなもんだなあ」と云っている。
「人間を拵えるよりもよっぽど骨が折れるだろう」とも云っている。
夏目漱石の『夢十夜』は明治四十一年の作である。つまり芥川龍之介の『寒山拾得』において、「自分」が会った「久しぶりの漱石先生」は明治四十一年の漱石先生、つまり芥川龍之介がまだ中学生時代の漱石先生なのである。つまり大正五年と思われたものは勘違いで……。
この『寒山拾得』がいつ書かれたものかは詳らかにしない。全集に初出の記録がなく、ただ「小品」として大正九年三月の作に挟まれているので大正九年三月の作かと思われるだけだ。大正九年三月、既に夏目漱石はこの世にはいない。つまり『寒山拾得』の時空は大正五年なのか明治四十一年なのかそれとも大正九年なのか、さっぱりわからないのである。
つまりもう漱石が生きていた時代の思い出を書いたわけではないことだけが確かで、自分の知り得ない明治四十一年の漱石を大正五年にひっぱり出したのか、あるいは大正五年を生きている自分がふと明治四十一年に潜り込んだのか、その辺りがなんとも判別がつかないのだ。
それでも最初に書いた通り、私は漱石が生きていた時代にいる芥川の文章が好きだ。何か少し漱石に甘えたような、生意気のような、少しも苦しいところのない芥川が見えるのが良い。その漱石が幻でも構わない。そう気が付いてみて改めて「久しぶりに漱石先生の所へ行つたら」とは何たる語り出しの妙技であることかと感心させられてしまう。
この話は「久しぶりに漱石先生の所へ行つたら」が漱石の死後四年経った後のことであり、そのことも忘れて漱石山房を訪ねたら、そこに明治四十一年の漱石がいて、大正五年の自分と六ずかしい議論をして……、と読んでみると実に味わい深い。寒山拾得が銀座にいるなら、漱石が漱石山房にいてもおかしくはないのだ。
この『寒山拾得』では、芥川が昔に戻った感じがすることは矢張り確かだ。
「へええ、僕はもう二人とも、とうに死んだのかと思つてゐました。」
何、死にやしません。明治四十一年に戻りさえすれば、夏目漱石は生きていて、腕組みをしながら、何か考へてゐるのだ。そして芥川龍之介もやはり何、死にやしません。
※この感覚が私のベースです。ここが解らない人とは絶対に意思疎通は無理です。
[追記]
岩波によればこれは大正六年頃の作と推測されていて未定稿に分類されている。
