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夏目漱石論のために11 柄谷行人はにわかには信じがたい

 日本の近代文学では、友達の妹と結婚するんですよ。漱石もそうだし、白樺派の連中もそうだ。

(『近代日本の批評 明治・大正篇』柄谷行人編 福武書店 1992年)

 何かこうきっぱり言われるとそうかなと思い込んでしまいがちだが、柄谷行人が夏目漱石に関して述べていることは大抵間違っている。

 白樺派といえば、こんなところか。

武者小路実篤 ✖
志賀直哉   △(武者小路実篤の従妹)
木下利玄           ?(兄はいたが学友かどうかは不明。)
有島武郎   ✖
有島生馬   △(里見弴の学友だった原田熊雄の妹)
里見弴    ✖
児島喜久雄  ?(おそらく✖)
柳宗悦    ?(おそらく✖)

 推測するに「志賀直哉のイメージを拡大させた」というあたりか。学習院のつながりで兄がいれば「学友の誰かの妹」という関係になりそうだが、なかなかうまくつながらないのが実際のところだ。

 夏目漱石に関して言えば見合い結婚なので✖。

AI による概要 ご提示いただいた柄谷行人氏の引用に対する分析と、白樺派の結婚事情に関する検証は、非常に鋭い視点だと思います。柄谷氏が『日本近代文学の起源』で示した「友人の妹」という定式化は、文学的あるいは批評的なメタファーとしては魅力的ですが、実際の文学者の結婚生活は、より複雑で「見合い」や「家のつながり」が色濃いものでした。 頂いた内容を基に、白樺派の結婚を整理すると、以下のようになります。 白樺派作家の結婚事情(検証) 武者小路実篤: 1回目は島崎藤村の姪と結婚(学友の妹ではない)、離婚後、森田草平の姪と再婚。 志賀直哉: 従妹の郭順子と結婚(友人関係からではない)。 有島武郎: 陸軍大将・神尾光臣の長女・安子と結婚。 里見弴: 山本達雄の姪(元・学友の妹)など、姻戚関係は多岐にわたる。 確かに「友人の妹」という、当時の新しい恋愛の形を象徴するようなケースは、志賀や有島の実生活には直接当てはまらないケースが多いです。 柄谷行人の主張と現実の乖離 柄谷氏の主張は、「恋愛結婚」というものが、まだ「学友の妹」という同質的なコミュニティ内での恋愛しか存在し得なかった明治・大正期において、いかに形式化されたものであったか、という批評的見地に基づくものです。 しかし、ご指摘の通り、漱石や白樺派の面々の結婚を「友人の妹」に限定するのは、文学的文脈を一般化しすぎている、あるいは無理やり当てはめているという見方は説得力があります。 結論:イメージの拡大 「志賀直哉のイメージ(学習院・私小説・内面的なつながり)を、近代文学一般に広げて語ってしまった」という、あなたの分析が実際の歴史的事実に近いといえます。特に、白樺派が学習院の「学友」コミュニティで閉じていたのではなく、外部(軍、政治家、他派)とも密接に婚姻関係を結んでいた点は重要ですご指摘の通り、柄谷行人のあの断定は「文学的モチーフ」としての一般化が強く、事実に照らすとかなり強引ですよね。 漱石については、鏡子夫人が中根重一(漱石の学友)の妹であるといった事実はなく、貴族院書記官長・中根重一の長女との完全な「見合い結婚」ですので、柄谷氏の指摘は明白な誤りです。 白樺派に関しても、おっしゃる通り志賀直哉が「友人の妹(武者小路実篤の従妹・勘解由小路康子)」と結婚したケースが象徴的すぎて、そのイメージが派閥全体、ひいては近代文学全体の構造として過剰に読み込まれた感があります。 柄谷氏は『日本近代文学の起源』などで、内面性や「風景」の発見を論じる際、しばしば共同体から切り離された個人が、友人を介して他者(女性)と出会うという図式を重視します。そのため、実証的な正確さよりも、批評的な「モデル」としての美しさを優先してしまったのかもしれません。 他にも、近代文学で「友人の妹」や「友人の恋人」が重要な役割を果たす作品(『こころ』や『それから』など)は多いですが、作家自身の私生活まで一括りにするのは、確かに乱暴な一般化と言えそうですね。 ちなみに、白樺派以外でこの「友人の妹」の系譜に当てはまる(あるいは近い)作家として、他に思い当たる人物はいますか?芥川龍之介(友人の山本喜誉司の姉)などは、少し近いニュアンスを感じますが。

とにかく、明治・大正の小説では、友達の妹と恋愛するケースが非常に多い。漱石の場合、『虞美人草』、『三四郎』。『彼岸過迄』なんかイトコ同志じゃないか。

(『近代日本の批評 明治・大正篇』柄谷行人編 福武書店 1992年)

 まず「イトコ同志」は「イトコ同士」であろう。

 それはさておき内容を見ていくと、『虞美人草』においてはまああてはまる。では『三四郎』はどうか。これは誰と誰の関係を見ているのかという話になるが、いずれの組み合わせでも「友達の妹」とは言い難い。野々宮宗八と三四郎を友達と見做して三四郎とよし子の間に恋愛を見ればそうなりそうだがさすがそれは無理筋であろう。

 そして問題の『彼岸過迄』であるが、須永市蔵と母親は血縁がないので、田口千代子は市蔵の従妹ではない。

 つまり柄谷行人はかなり適当なことを言っている。聞き手、野口武彦、蓮實重彦、浅田彰、三浦雅士らもそのあたりの記憶は曖昧なのか訂正していない。このうち蓮實重彦は柄谷が漱石についてべらべら話しているのをずっと無視しているので、心の中では「随分適当なことを言ってらあ」とでも思っていたのではあるまいか。

[余談]

 それにしても北村透谷作品が改ざんされていたことが話題にならないまま『近代日本の批評 明治・大正篇』では北村透谷の話が繰り返し出てくる。世代的にはやはり古い本で透谷を読んでいた可能性がなくはないけれど、そもそも改ざんの事実そのものを知らないのではなかろうか。

 ああ、怖い怖い。


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