岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する84 夏目漱石『それから』をどのくらい正確に読めるか⑫
少し胡麻化していらっしゃる様よ
代助は一寸息を継いだ。そうして、一寸窮屈そうに控えている三千代の方を見て、御世辞を遣った。
「三千代さん。どうです、私の考は。随分呑気で宜いでしょう。賛成しませんか」
「何だか厭世の様な呑気の様な妙なのね。私よく分らないわ。けれども、少し胡麻化していらっしゃる様よ」
「へええ。何処ん所を」
「何処ん所って、ねえ貴方」と三千代は夫を見た。平岡は股の上へ肱を乗せて、肱の上へ顎を載せて黙っていたが、何にも云わずに盃を代助の前に出した。代助も黙って受けた。三千代は又酌をした。
代助の大演説に対して漱石はあくまで中立である。ここでは女の勘で対抗させる。具体的にどこがどうという理窟の前に、そういう「感じ」を指摘させる。この論法には理屈では勝てない。
おそらく代助に誤魔化しているものがあるとすれば、いや夏目漱石が誤魔化しているとすれば、昔の代助がまだ日露戦争の結末の前にいたという辺りではなかろうか。つまりいけいけどんどんの時代は過ぎて、何だか情けない日本が見えてきて、平岡も代助も変わらざるを得なかったのであり、丁度そのタイミングに卒業と結婚を重ね合わせたところに漱石のたくらみはあるのだが、そんな舞台裏は隠しておいて、三人は舞台で芝居を演じる。
日露戦争の結末に当事者として向き合うためには、老人が三人愚痴をこぼしてもしょうがない。
日本の近現代史という学校で教わらない歴史を眺めてみると、日露戦争で日本にケチが付いたと言えなくもないし、逆によくぞ日本は亡びなかったなと冷や冷やもする。その瞬間に立ち会った当時の人々にもさまざまな捉え方はあろうが、代助もまた谷崎潤一郎の『あくび』に登場する若者たち同様、まさに当事者として日露戦争を見てきたはずである。
明治十九年生まれの谷崎潤一郎は明治三十八年、日露戦争開戦時には十九歳、終結時には二十歳という計算になろうか。この世代にとって日清日露戦争は、とても他人事ではない。
代助は谷崎より少し年上ということにはなるが、日露戦争でガタガタになった日本というものを傍観できる立場ではない。しかし日露戦争が悪い、北朝は嘘だとは言えない。そこはどうしても誤魔化さなくてはならない。これは本来そう呑気な話でも無い筈だ。
忙がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だって忘れているじゃないか
「そいつは面白い。大いに面白い。僕みた様に局部に当って、現実と悪闘しているものは、そんな事を考える余地がない。日本が貧弱だって、弱虫だって、働らいてるうちは、忘れているからね。世の中が堕落したって、世の中の堕落に気が付かないで、その中に活動するんだからね。君の様な暇人から見れば日本の貧乏や、僕等の堕落が気になるかも知れないが、それはこの社会に用のない傍観者にして始めて口にすべき事だ。つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから、そうなるんだ。忙がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だって忘れているじゃないか」
平岡は饒舌ってるうち、自然とこの比喩に打つかって、大いなる味方を得た様な心持がしたので、其所で得意に一段落をつけた。代助は仕方なしに薄笑いをした。すると平岡はすぐ後を附加えた。
「君は金に不自由しないから不可ない。生活に困らないから、働らく気にならないんだ。要するに坊ちゃんだから、品の好い様なことばっかり云っていて、――」
代助は少々平岡が小憎らしくなったので、突然中途で相手を遮った。
「働らくのも可いいが、働らくなら、生活以上の働らきでなくっちゃ名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭を離れている」
平岡は不思議に不愉快な眼をして、代助の顔を窺った。そうして、
「何故」と聞いた。
コンスタンティヌス11世
— オスマン帝国bot (@E_ottoman_bot) February 5, 2023
ビザンツ帝国最後の、そして史上最後のローマ帝国皇帝。
滅びゆく帝国を守ろうと必死に戦うが1453年の攻防戦で戦死した。信心に厚い温厚な人物だったとされる。夏目漱石の「我輩は猫である」にも出てくるpic.twitter.com/UsXers9E4i
そうでもなかろう。必死なときに忘れかかるが、忘れることは無い。気にしなくなるだけだ。「いくら顔を見られても、それに頓着などはしていられません」という先生にしても自分が必死な顔をしていることは分かっている。
つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから
しかしここの理屈は合っている。つまり漱石が平岡に加担している。
代助はそのふっくらした頬を、両手で両三度撫でながら、鏡の前にわが顔を映していた。まるで女が御白粉を付ける時の手付と一般であった。実際彼は必要があれば、御白粉さえ付けかねぬ程に、肉体に誇を置く人である。彼の尤も嫌うのは羅漢の様な骨骼と相好で、鏡に向うたんびに、あんな顔に生れなくって、まあ可かったと思う位である。
このナルシストぶりを知っているのは漱石と、おそらくは門野だけである。平岡の比喩は案外代助の真実を突いている。代助は仕方なしに薄笑いをするしかない。
君は金に不自由しないから不可ない
私がこんな本を書いた理由の一つに、青豆雅美の優雅な生活ぶりに対する批判めいたものがなかったとは言えない。
1984年というバブリーな時代に、スポーツインストラクターが幾ら稼いでいたのかは分からないが、兎に角『ねじまき鳥クロニクル』で提示されたエリートとすりつぶされるだけのサラリーマンの問題がすっ飛ばされて、優雅な連続殺人鬼が出来上がってしまっていることには少々引っかかった。しかも自分とは無縁の人々を、写真だけを根拠に殺していく。それが加工されたものだったらどうするつもりかと全く考えもしない。麻原正晃が結跏趺坐で宙に浮いているような写真一枚で世に出たことを知らないでもなかろうに、と思った。
しかしこの「君は金に不自由しないから不可ない」式のやっかみはいつの時代にもやはりみっともないものであるのかもしれない。
少なくとも私の経験では「金に不自由した経験」が人を磨くことなどほぼあり得ない。「金に不自由した経験」がプラスに働くことなどまずないと思える。「金に不自由した経験」は人を金に執着させる。出来得ることなら「金に不自由した経験」などない方がいい。「君は金に不自由しないから不可ない」と言ってくるような人がいたとして、それは親切で云うのではなく、ただ羨ましいから云うのだ。つまり僻んでいるだけだ。「金に不自由した経験」によってお坊ちゃんから卒業できたとして、たいていは根性がねじ曲がってしまうだけだ。だから「君は金に不自由しないから不可ない」と言えるのだ。財産も天賦のものなら顔もそうだ。「君は美男子だから不可ない」というのと同じだ。おそらく漱石は平岡を「金に不自由した経験」故に金に執着する人間として性格づけようとしている。
しかもそもそも代助は金に不自由しているのだ。
代助はなるほどそんな事があるのかと思った。金高を聞くと五百円と少しばかりである。代助はなんだその位と腹の中で考えたが、実際自分は一文もない。代助は、自分が金に不自由しない様でいて、その実大いに不自由している男だと気が付いた。
代助の親の金をあてにして女房に金を借りさせようとまでしておきながら、代助に「君は金に不自由しないから不可ない」とまで言ってしまうのはさすがに理屈が合わない。
しかしここで平岡がこんなことを言うのはただ平岡の根性がねじ曲がっているからではない。
ダヌンチオの主人公は、みんな金に不自由のない男だから、贅沢の結果ああ云う悪戯をしても無理とは思えないが、「煤烟」の主人公に至っては、そんな余地のない程に貧しい人である。
この「金に不自由」のふりをやがて代助自身にふりかかる運命だと仄めかすためである。「金に不自由」の句は作中三度現れ、『それから』の筋を見事に運んでいる。ここで平岡は漱石に協力しているだけで、根は悪い男ではない。
神聖な労力
代助は少々平岡が小憎らしくなったので、突然中途で相手を遮った。
「働らくのも可いが、働らくなら、生活以上の働らきでなくっちゃ名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭を離れている」
平岡は不思議に不愉快な眼をして、代助の顔を窺った。そうして、
「何故」と聞いた。
「何故って、生活の為めの労力は、労力の為めの労力でないもの」
「そんな論理学の命題みた様なものは分らないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云ってくれ」
「つまり食う為めの職業は、誠実にゃ出来悪いと云う意味さ」
岩波はこの「神聖な労力」に注解を付け、『坑夫』の「神聖な労働」を例示する。この表現は、
神聖な勞力、もしくは正しい理由で受け得たお金て買ひ取る塲合を云ふのです、詐欺や暴力で奪ひ取つた財産に、少しの價値でもありますか、あなたは夫が神聖な財產と同じやうに、貴重すべき物と思ひますか。
吉丁字 下巻 渡辺霞亭 著春陽堂 1905年
と云つてもウツチヤリ拾ひの何たるを知らない人には一寸分るまいが、一ト度實際にウツチヤリ拾ひ先生の其の神聖な勞働を仕て居るところを眼にしたならば、如何なる人でも、アヽウッチヤリ拾ひなる哉と歎ぜざるを得まい。
蝸牛庵夜譚 幸田露伴 著春陽堂 1907年
……といった言い回しの中に現れる「神聖」の意味を離れ、純粋な混じりけのない、例えば無償奉仕のボランティアのようなもの、あるいは対価を求めない研究のようなものに近づいてはいまいか。
「僕はそんなに儲けなくっても、いいです。しかし働く事は働くです。神聖な労働なら何でもやるです」
どてらの頬の辺には、はてなと云う景色がちょっと見えたが、やがて、かの弓形の皺を左右に開いて、脂だらけの歯を遠慮なく剥き出して、そうして一種特別な笑い方をした。あとから考えるとどてらには神聖な労働と云う意味が通じなかったらしい。
ここで使われている「神聖な労働」にはウッチヤリ拾いもふくまれそうだが、代助の云う麺麭を離れた神聖な労力にはウッチヤリ拾いは含まれまい。同じ言葉なら皆同じ意味というわけではないからこそ注解が必要になる。
その労力は堕落の労力だ
「僕の考えとはまるで反対だね。食う為めだから、猛烈に働らく気になるんだろう」
「猛烈には働らけるかも知れないが誠実には働らき悪いよ。食う為の働らきと云うと、つまり食うのと、働らくのと何方どっちが目的だと思う」
「無論食う方さ」
「それ見給え。食う方が目的で働らく方が方便なら、食い易やすい様に、働らき方を合せて行くのが当然だろう。そうすりゃ、何を働らいたって、又どう働らいたって、構わない、只麺麭が得られれば好いと云う事に帰着してしまうじゃないか。労力の内容も方向も乃至順序も悉く他から制肘される以上は、その労力は堕落の労力だ」
代助の仕事論はますます尖っていく。働らく方が方便になると堕落の労力なのだそうだ。ブルシットジョブに日々耐えていらっしゃる皆さんは、舌打ちでもしたくなることだろう。しかし舌打ちをしてもブルシットジョブから解放される訳ではない。実はブルシットジョブに日々耐えていらっしゃる皆さんこそ、本音では代助坊ちゃんの理想のようなことを日々考えていたのではなかろうか。
そうした仕事が出来れば越したことは無い、しかし出来るわけがないと諦めてブルシットジョブに日々耐えていらっしゃるわけだ。
漱石自身『それから』を書きあげた後、中村是公に「相続財産のようなものが欲しい」とボヤいている。そして作品としては『門』で苦労した後、『彼岸過迄』『こころ』では相続財産によって働かなくても良い男を描くことになる。ここには坊ちゃんの妄想だけではなく、労働者たる夏目漱石の本音も混ざっていると見るべきだろうか。
堕落料理人じゃないか
「まだ理論的だね、どうも。それで一向差支えないじゃないか」
「では極上品な例で説明してやろう。古臭い話だが、ある本でこんな事を読んだ覚えがある。織田信長が、ある有名な料理人を抱えたところが、始めて、その料理人の拵えたものを食ってみると頗る不味かったんで、大変小言を云ったそうだ。料理人の方では最上の料理を食わして、叱られたものだから、その次からは二流もしくは三流の料理を主人にあてがって、始終褒められたそうだ。この料理人を見給え。生活の為に働らく事は抜目のない男だろうが、自分の技芸たる料理その物のために働らく点から云えば、頗る不誠実じゃないか、堕落料理人じゃないか」
「だってそうしなければ解雇されるんだから仕方があるまい」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云わば、物数奇にやる働らきでなくっちゃ、真面目な仕事は出来るものじゃないんだよ」
「そうすると、君の様な身分のものでなくっちゃ、神聖の労力は出来ない訳だ。じゃ益遣る義務がある。なあ三千代」
「本当ですわ」
「何だか話が、元へ戻っちまった。これだから議論は不可ないよ」と云って、代助は頭を掻いた。議論はそれで、とうとう御仕舞になった。
とはいえ、この堕落料理人の例えをそのまま『虞美人草』からの方向転換に当て嵌めることも出来まい。
確かに『虞美人草』は上等な料理だ。しかしおそらく『三四郎』に比べればやはりまだ前座でしかない。漢籍の教養を出すことを控えめにしたことは確かだが、『三四郎』は堕落ではない。
どうです、御燗は
代助は風呂へ這入った。
「先生、どうです、御燗は。もう少し燃させましょうか」と門野が突然入り口から顔を出した。門野はこう云う事には能く気の付く男である。代助は、凝じっと湯に浸ったまま、
「結構」と答えた。すると、門野が、
「ですか」と云い棄てて、茶の間の方へ引き返した。代助は門野の返事のし具合に、いたく興味を有って、独りにやにやと笑った。
この「御燗」に岩波は注釈をつけ、
風呂の湯加減を酒の燗にたとえたもの
……とする。しかしそもそも「燗風呂」という言葉があり、


お燗をする道具が風呂と呼ばれているので、……いやなんでもない。
如何にも不思議な動物である
湯のなかに、静かに浸っていた代助は、何の気なしに右の手を左の胸の上へ持って行ったが、どんどんと云う命の音を二三度聞くや否や、忽ちウエバーを思い出して、すぐ流しへ下りた。そうして、其所に胡坐をかいたまま、茫然と、自分の足を見詰めていた。するとその足が変になり始めた。どうも自分の胴から生えているんでなくて、自分とは全く無関係のものが、其所に無作法に横たわっている様に思われて来た。そうなると、今までは気が付かなかったが、実に見るに堪えない程醜くいものである。毛が不揃に延びて、青い筋が所々に蔓こって、如何にも不思議な動物である。
異化である。
代助の「人の感じ得ない事を感じる神経」が表現されたところだ。しかしここで足はたまたま選ばれたものではなかろう。代助はどこかで動物であることを放棄したがっているようでさえある。そこで改めて足などというものに違和感を覚えなくてはならないのだろう。
全く暇があり過ぎるので、こんな事まで考えるのか
代助は又湯に這入って、平岡の云った通り、全く暇があり過ぎるので、こんな事まで考えるのかと思った。湯から出て、鏡に自分の姿を写した時、又平岡の言葉を思い出した。幅の厚い西洋髪剃で、顎と頬を剃る段になって、その鋭どい刃が、鏡の裏で閃く色が、一種むず痒い様な気持を起さした。これが烈しくなると、高い塔の上から、遥かの下を見下すのと同じになるのだと意識しながら、漸く剃り終った。
いや逆に、何故圧倒的に多くの人はものを考えないのかと、私は日々疑問に思っている。
例えば芥川龍之介の『河童』について、これまで六本ほど立て続けに記事を書いた。しかしそこに書かれていることなどむしろ『河童』が発表された翌日にでも読者全員が考えていなければならないことだったはずである。ところが現実的には何故芥川の河童には甲羅がないのかとか、二十三号は番号が若すぎるとか、いきなり河童におどりかかるのは可笑しいとか、そういうことは殆ど言われてこなかったのではなかろうか。
同じことが『歯車』にも言える。レエン・コオトは『河童』前振りだとは誰も書いていないのではなかろうか。『歯車』については五十本も記事を書いた。それだけ書くことが残されていたのだ。『あばばばば』の鎌倉の光景がやがて津波に飲み込まれることも、誰にも理解されていない……。
しかも今だにだ。
現時点で『あばばばば』の鎌倉の光景がやがて津波に飲み込まれることを理解している人が一人も存在しない。
これは信じがたいが本当の事だ。
仮に理解できたとしたらこんな状況にはない筈だ。理解できた人は私の本を百冊くらい買うだろう。買わないということは本当には理解できていないということだ。ふーん、と通り過ぎることは理解とは言えない。理解とはあれとこれとが結び付けられることだ。
いやほとんどすべての近代文学が忙しい人々にただぼーっと眺められ、打ち捨てられて、今私の前に転がっている。
私は全く暇があり過ぎるので、淀見軒はアールヌーボではなくアールデコだと書くのではない。
時間の問題ではない。余裕の問題ではない。
むしろほかの人が気が付かなすぎなのではなかろうか。
代助の感覚は特殊なものだ。しかしそれは閑のお蔭ではない。
どうも先生は旨いよ
茶の間を抜けようとする拍子に、
「どうも先生は旨いよ」と門野が婆さんに話していた。
「何が旨いんだ」と代助は立ちながら、門野を見た。門野は、
「やあ、もう御上りですか。早いですな」と答えた。この挨拶では、もう一遍、何が旨いんだと聞かれもしなくなったので、そのまま書斎へ帰って、椅子に腰を掛けて休息していた。
門野はただのぼんくらではないと既に書いた。
【設問①】「どうも先生は旨いよ」とは代助のどういうところを指しているのか、具体的に説明せよ。
これまでに『それから』を読んだと言い張る人の中で、この問いに答えられる人がいるだろうか。
おそらくいないだろう。
で、今、その答えを考えている人もいないだろう。
そういうところだ。
そういう態度が近代文学を涛してきたのだ。
で?
いやこんなものはここまでの流れを見れば明らかな筈だ。
先生、奥さんですと囁く様に云った。
「そうして、肉の臭いがしやしないか」
「しますな。大いに」
「先生、どうです、御燗は。もう少し燃させましょうか」
門野は平岡夫婦の引っ越しを手伝い、家の様子を知っている。そして代助と三千代のただならぬ関係をはや嗅ぎ取っている。上手いのは門野の方だ。「もう少し燃させましょうか」とはよく言ったものだ。しかしそれも「どうも先生は旨いよ」に引っかからなければ気が付かないことだ。「もう少し燃させましょうか」とは読者も考えていることだ。しかし代助は焦らす。そこが旨い。いや、夏目漱石が上手い。
こんなうまいものを放っておくなんて!
[余談]
日本の「文豪」といえば誰? 2位の「芥川龍之介」を抑えた圧倒的1位は? 【“読書好き”316人に調査】
— 初版道 (@signbonbon) February 9, 2023
皆さんのご意見を伺います。日本の文豪といえば最初に誰を思い浮かべますか?「その他」の方は返信でマイ文豪を教えて下さい。投票総数が「316人」を超えたら嬉しいです。https://t.co/WN0Y0Ghfoz
芥川や太宰を文豪にしてしまうのはどうなんだろう。
literary giant的な感じの「豪」のイメージだと、線の細い作家たちは外れて來るように思う。みんな文豪にしなくてもいいし、文豪と呼ばれることが作家の唯一の価値でも無かろう。
この問題ってどう解くのが正解なの?小学生に出していい問題なのかこれ pic.twitter.com/B89hErrdR6
— まっつーばらばら (@mattubarabara) February 9, 2023
二宮金次郎とその仲間たち。#ねこ #猫 #cat pic.twitter.com/xqEBV16CNa
— ︎山本 正義 (Masayoshi Yamamoto) @立ち猫® ずんずんずん (@nekoiroiro) February 8, 2023
自宅の水道工事中。猫は恐怖と驚きで天袋に避難です。 pic.twitter.com/kNpQbY5VRx
— 花野純子 JunkoHanano (@hananojtheater) February 9, 2023
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— LOCKERROOM (@LockerRoomLOL) February 9, 2023
長崎の原爆が地上で起爆したという証拠写真とされるモノですが、
— 宇宙怪獣 (@bemusuta) February 8, 2023
勘の良い人は数秒で「戦後の写真じゃね?」
と気付く。 pic.twitter.com/lUf4dR1qKc
From: Yamato Ryu Goshin Jutsu (self-defense) 1937
— eric ゑリッ久 (@shinobu_books) February 9, 2023
Someone approaches from behind and reaches into your breast pocket to steal your wallet. pic.twitter.com/YLKwv1n34H
