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岩波書店・漱石全集注釈を校正する66 花電車が自然の数、律にも絶句にもならず

花電車が風を截って来る

 花電車が風を截って来る。生きている証拠を見てこいと、積み込んだ荷を山下雁鍋の辺りで卸す。雁鍋はとくの昔に亡くなった。卸された荷物は、自己が亡くならんとしつつある名誉を回復せんと森の方にぞろぞろ行く。

(夏目漱石『虞美人草』)

 この花電車に岩波は注を付けない。

はな‐でんしゃ【花電車】
1 祝賀や記念などのために、花や色電球、旗などで美しく飾って運転する電車。明治期には客を乗せたが、大正以後は見るだけのものとなった。
2 (見せるだけで客を乗せないところから)女陰で種々の芸をする見世物。
3 カンザシウミウシ科の大形のウミウシ。本州中部以南の浅海に分布し、アジモの中にすむが、まれにしかとれない。体は長さ約一〇センチメートル、幅約五センチメートルの楕円形で、貝殻はもたない。背面は白黄色で、緑・赤・白などの多くの短い突起があり、刺激を受けると全面から青白い光を発するところからの名。

日本国語大辞典

 ここではこの「明治期には客を乗せたが、大正以後は見るだけのものとなった」という説明がないと何のことかわからなくなる。ウィキペディアでも客を乗せている旨の記載がない。

答礼使御来朝記念写真帖 中巻 大阪毎日新聞社 編荒木利一郎 1922年

 こんなものに乗せられては……と思う。

大東京寫眞帖

 カラーで見るとウミウシと言われる理由がよく解る。

明治神宮写真帖 : 鎮座祭紀念 溝口白羊 著日本評論社出版部 1920年
写真交名大鑑 : 御大典奉祝記念 共道社 [編]共進社出版部 1929年


写真交名大鑑 : 御大典奉祝記念 共道社 [編]共進社出版部 1929年


写真交名大鑑 : 御大典奉祝記念 共道社 [編]共進社出版部 1929年

 さすがにこれには人は乗れない。宣伝トラックみたいなものか。今のラッピング電車とはかなり違ってごちゃごちゃしていたようだ。

実際より高いから


「形容は旨く中ると俗になるのが通例だ」
「中ると俗なら、中らなければ何になるんだ」
「詩になるでしょう」と藤尾が横合から答えた。
「だから、詩は実際に外れる」と甲野さんが云う。
「実際より高いから」と藤尾が註釈する。
「すると旨く中った形容が俗で、旨く中らなかった形容が詩なんだね。藤尾さん無味くって中らない形容を云って御覧」
「云って見ましょうか。――兄さんが知ってるでしょう。聴いて御覧なさい」と藤尾は鋭どい眼の角から欽吾を見た。眼の角は云う。――無味くって中らない形容は哲学である。

(夏目漱石『虞美人草』)

 宗近君も漢詩のようなものを書いているが、作品全体の中では詩人は小野さんであることが繰り返し確認されている。甲野さんは哲学者、小野さんは文学者にして詩人である。

 ここではまるで役に立たない甲野さんを見下し、詩人の小野さんを持ち上げているかのようである。

   ではあるが、そんなに単純な話ではない。


自然の数


 詩人ほど金にならん商買はない。同時に詩人ほど金のいる商買もない。文明の詩人は是非共他の金で詩を作り、他の金で美的生活を送らねばならぬ事となる。小野さんがわが本領を解する藤尾に頼りたくなるのは自然の数である。あすこには中以上の恒産があると聞く。腹違の妹を片づけるにただの箪笥と長持で承知するような母親ではない。ことに欽吾は多病である。実の娘に婿を取って、かかる気がないとも限らぬ。折々に、解いて見ろと、わざとらしく結ぶ辻占があたればいつも吉である。急いては事を仕損ずる。小野さんはおとなしくして事件の発展を、自おのずから開くべき優曇華の未来に待ち暮していた。小野さんは進んで仕掛けるような相撲をとらぬ、またとれぬ男である。

(夏目漱石『虞美人草』)


玉かつま 11の巻 本居宣長 著永楽屋東四郎等

 岩波はこの「自然の数」に、

 人の力の及ばない自然のいきおい、なりゆき、運命。

(『定本漱石全集 第四巻』岩波書店 2017年)

 とやや大げさな注釈をつける。

しぜん‐の‐すう【自然の数】 自然の運命で、人力の企て及ぶべきではないこと。自然のなりゆき。

広辞苑

 この広辞苑の解釈に近い。

しぜん-の-すう 【自然の数】 自然の成り行き。「固より―である/小説「エイルヰン」の批評(漱石)」

大辞林

 大辞林の解釈はもう少し軽い。

しぜん‐の‐すう【自然の数】 自然の運命。自然のなりゆき。「上役たちが頭から彼を相手にしないのは、寧ろ―である」〈芥川・芋粥〉

大辞泉

 大辞泉も同じく。新辞林、日本国語大辞典、学研国語大辞典、明鏡、新明解には「自然の数」の項目がない。

既に說く所の如しされば顯要の族が、其地位を堅うせんが爲に、特に其子弟の教育に注意するは、自然の數なりといふべし。

教育史講義 高島平三郎

 たとえばこれは教育の話であり、人が人に及ぼす影響の話なので「人の力の及ばない」という説明は当たらない。むしろここにあるのは人情である。

勢力微々たりし漢文も、再ひ舊來の光輝を發揮せんとする傾向あるは、葢し自然の數といふへし


日本政記講義 竹添治三郎 述大日本中学会

 これも人間がやっていることで、「人の力の及ばない」という説明は当たらない。
 作中では「自然の順序」「自然の径路」「自然の法則」「自然の為すがまま」といった表現が出て來る。「自然の数」もこの程度の軽い意味ではなかろうか。

一聯が律にも絶句にもならず


 温い水を背に押し分けて去る痕は、一筋のうねりを見せて、去年の蘆を風なきに嬲る。甲野さんの日記には鳥入雲無迹、魚行水有紋と云う一聯が律にも絶句にもならず、そのまま楷書でかいてある。春光は天地を蔽わず、任意に人の心を悦しむ。ただ謎の女には幸いせぬ。

(夏目漱石『虞美人草』)

無題 明治三十二年己亥

眼識東西字
心抱古今憂
廿年愧昏濁
而立纔回頭
靜坐觀復剝
虛懷役剛柔
鳥入雲無迹
魚行水自流
人間固善事
白雲自悠悠

 岩波はここに上記の漢詩があることのみ示す。学校で漢詩を今どのくらい教えているのかは知らないが、ここはみな分かっているのだろうか。

 一聯とは漢詩の一対となる句のことで、絶句とは四句の起承転結、律詩は八句の首・頷・頚・尾の聯が起承転結に対応する。漱石の漢詩は排律である。

 また『和漢朗詠集』に「花落騎風鳥入雲」があり、「鳥入雲」はありふれた句題である。

 

柑子句集


其角俳句全集


 また「魚行水」は『碧巌録』に「魚行水濁、鳥飛落毛」という語句があるところから採ったものであろう。この『碧巌録』のリアリズムを詩に昇華させているのが甲野さんの一聯であり、私には甲野さんもなかなかの詩人だと思える。
 いや宗近も甲野も詩人という見立ては、あくまでも表面上小野清三を詩人、詩人と持ち上げる漱石が悪戯をしていないかという指摘である。例えば、

 得意な小野さんは同時に失意である。自分一人でこそ誰が眼にも当世に見える。申し分のあるはずがない。しかし時代後れの御荷物を丁寧に二人まで背負て、幅の利きかぬ過去と同一体だと当世から見られるのは、ただ見られるのではない、見咎られるも同然である。芝居に行って、自分の着ている羽織の紋の大きさが、時代か時代後れか、そればかりが気になって、見物にはいっこう身が入らぬものさえある。小野さんは肩身が狭い。人の波の許す限り早く歩く。
「阿爺さん、大丈夫」と後から呼ぶ。
「ああ大丈夫だよ」と知らぬ人を間に挟んだまま一軒置いて返事がある。
「何だか危なくって……」
「なに自然に押して行けば世話はない」と挟まった人をやり過ごして、苦しいところを娘といっしょになる。
「押されるばかりで、ちっとも押せやしないわ」と娘は落ちつかぬながら、薄い片頬かたほに笑えみを見せる。
「押さなくってもいいから、押されるだけ押されるさ」と云ううち二人は前へ出る。巡査の提灯が孤堂先生の黒い帽子を掠めて動いた。
「小野はどうしたかね」
「あすこよ」
と眼元で指さす。手を出せば人の肩で遮られる。
「どこに」と孤堂先生は足を揃える暇もなく、そのまま日和下駄の前歯を傾けて背延びをする。先生の腰が中心を失いかけたところを、後ろから気の早い文明の民が押のしかかる。先生はのめった。危うく倒れるところを、前に立つ文明の民の背中でようやく喰い留める。文明の民はどこまでも前へ出たがる代りに、背中で人を援たすける事を拒まぬ親切な人間である。

(夏目漱石『虞美人草』)

 これが果して詩人の態度であろうか。偏屈も鷹揚も詩人の条件ではなかろう。詩人とは本来誰よりも恥を知るものではなかろうか。


[余談]


  ええ?

  そうなの?


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