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芥川龍之介の『カルメン』をどう読むか① 駄目だよ、君、それを飲んじゃ

お見事としか言いようがない

「イイナはあの晩ホテルへ帰ると、……」
「駄目だよ、君、それを飲んじゃ。」
 僕はT君に注意した。薄い光のさしたグラスの中にはまだ小さい黄金虫が一匹、仰向けになってもがいていた。T君は白葡萄酒を床へこぼし、妙な顔をしてつけ加えた。
「皿を壁へ叩きつけてね、そのまた欠片をカスタネットの代りにしてね、指から血の出るのもかまわずにね、……」
「カルメンのように踊ったのかい?」
 そこへ僕等の興奮とは全然つり合わない顔をした、頭の白い給仕が一人、静に鮭の皿を運んで来た。……       (大正十五年四月十日)

(芥川龍之介『カルメン』)

 キレッキレだ。お見事としか言いようがない。しかしついその日付に目がいってしまう。小穴隆一によれば、その五日後には死の覚悟が告げられるからだ。

 このダンスのステップのような華麗な言葉の運びの中には、紛れもなく詩的感興がある。その言葉一つ一つに、芥川のセンスが溢れている。この場面、黄金虫と鮭の二度の賺しで落としている。何でも三段にしなくていいのだ。二度で綺麗に落ちている。これがGとサラダでは駄目なのだ。黄金虫と鮭でなくてはならない。無論蛍とビステキでもいけない。蛍では憐れ過ぎるし、ここはなんとしても魚の切り身でなくてはいけない。切り身だから賺せるのだ。
 白葡萄酒はそのためにある。

 物語の構えも大きい。革命直後の露西亜のグランド・オペラの日本来日、旧帝国の侯爵の自殺、ボルシェヴィッキはカゲキ派ですからという今では通じない洒落。革命前のボルシェヴィッキは少数派なのに多数派を名乗っていた。そして革命後には過激派とも呼ばれるようになった。

 しかし「僕」と「T君」には、目の大きい、小鼻の張った、肉感の強い女、イイナ・ブルスカアヤにしか興味がない。

 あの晩、自分を追いかけて日本にやってきた旧帝国の侯爵が首をくくった晩、指から血の出るのもかまわず踊るイイナ・ブルスカアヤはまるで谷崎潤一郎みたいな「僕」と「T君」を興奮させている?

 いや、「T君」は興奮していたんだろう。目の大きい、小鼻の張った、肉感の強い女、イイナ・ブルスカアヤに。その流血の妄想に。

 しかし「僕」は「ごくりとつばを飲み込む」代わりに言ったのだ。

「駄目だよ、君、それを飲んじゃ。」と。

 ここは例の早食い男の逸話を思い出してみると大いにおかしい。

 京橋の大根河岸あたりだったと思う、鏡花のひいきにしている鳥屋があって、鏡花、里見、芥川、それに私と四人で鳥鍋を突ッついたことがあった。健啖で、物を食う速力が非常に速い私は、大勢で鍋を囲んだりする時、まだよく煮え切らないうちに傍から傍から喰べてしまう癖があるのだが、衛生家で用心深い鏡花はそれと反対に、十分によく煮えたものでないと箸をつけない。従って鏡花と私が鍋を囲むと、私が皆喰べてしまい、鏡花は喰べる暇がない。たびたびその手を食わされた経験を持っている鏡花は、だから予め警戒して、「君、これは僕が喰べるんだからそのつもりで」と、鍋の中に仕切りを置くことにしているのだが、私は話に身が入ると、ついうっかりと仕切りを越えて平げてしまう。「あッ、君それは」と、鏡花が気がついた時分にはもう遅い。その時の鏡花は何ともいえない困った情ない顔をする。私は相済まなくもあるが、その顔つきがまたおかしくて溜らないので、時にはわざと意地悪をして喰べてしまうこともあった。

(谷崎潤一郎『文壇昔ばなし』)

 グラスを持つ手がその振動に気が付かぬのに、「僕」は、自殺の覚悟を決めた「僕」は、その覚悟を「T君」には打明けぬまま、冷静に「T君」がグラスを持ち上げる所作を、そしてグラスに落ちる黄金虫を見ている。

 では「僕」は何に興奮していたのか?

 作中そこは明白ではない。ただ芥川が「僕」に、「駄目だよ、君、それを飲んじゃ。」と言わせたことだけが確かなのだ。
 あるいは「僕」は「T君」が生なましい人の死をもおかずにして、ロマンチックを搔き立てられる男だという事実に興奮したのではなかろうか。

 全く何の関係もない話だが、芥川龍之介の命日は、谷崎潤一郎の誕生日である。




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