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誰がそんなことをしているのか 芥川龍之介の俳句をどう読むか⑧

暖かや蕊に蝋塗る造り花

次の二つの句も、やはり同じやうに觀察の細かさと技巧の凝り性を街つた句で、末梢神經的な纖銳さはあるとしても、ポエヂイとしての眞實な本質性がなく、やはり頭腦と才氣と工風だけで造花的に作つた句である。

萩原朔太郎 「小說家の俳句-俳人としての芥川龍之介と室生犀星-」

 萩原朔太郎に一蹴されている句である。

といふ句を見るに至つて、まるである一派の若い詩人が、そのままな態度で俳句に臨むやうな、素材と感覺のおもしさを感じ初めた。


春すぎし : 佐藤惣之助詩文集 佐藤惣之助 著鶴書房 1942年

 佐藤惣之助はおもしろいと褒めてくれている。


七里恒順師語録 : 付・七里和上手簡 小泉了諦 編顕道書院 1910年

いやいやいや。造花に季節はない。

https://haikutown.jp/post/result/other-thursday.php?k_no=108

 この人はやはりこの程度の人なのであろう。



 この句はやはり嵐雪の有名な句、

梅(むめ)一輪一輪ほどの暖かさ

梅一輪一輪ずつの暖かさ

 との対比でみるべきや。

梅一輪一輪ずつの暖かさ

 に関しては様々な議論があろうが私は梅華の力の逆説だと考えている。

風をひき雪をなし、歳を序あらしめ、および溪林万物をあらしむる、みな梅花力なり  『正法眼蔵』「梅花」

 という嘘がデッドコピーされているが、正しくはこれは

風ヲヒキ雪ヲナシ、歲ヲ序アラシメオヨヒ谿林万物ヲアラシムルミナ梅ノチカラナリ             

『正法眼蔵』「梅華」

 である。そしてこれは「路地裏の陽だまりでひっくり返って寝てている猫の為にこの宇宙は存在するのではないか」というアイデアと同じ程度に錯覚である。


暖かや蕊に蝋塗る造り花 

 に関しても、

①誰かが造花の蕊に蝋を塗っているのか(何のために?誰が何の得をする話? そんな風習でもある?)

②暖かいから造花の蕊の蝋が溶けたのか(そもそも造花の蕊に蝋は塗られていた? 何のために蝋が?)

 と曖昧なところが「はっきりとある」にもかかわらず、これは「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」のような認知バイアス、前後即因果の誤謬、錯覚に遊んだ句だと見做している。

 要するに①も②も解釈としては成立しない。

 暖かくなったら花はいくらでもあろうに何故造花というひねりにはそもそも答えはない。平たく言えば、これはちょっとない、しかし絶対にないとは言えないところを詠んだ句であり、これが見たままだとして、この句の意匠そのものは前後即因果の誤謬、錯覚に遊んだと見るよりないと考えている。

 ないとはいいながら、これが

 暖かくなったので本物の花々が一斉に蕊に蜜をたらして蝋を塗ったようになっているのはいかにもわざとらしく造花のようでさえあるよ

 という意味ではないかと考えたことはある。少し無理があるか。

 萩原朔太郎がこの句を一蹴したのも無理はないし、佐藤惣之助の言うところの「感覚のおもしろさ」が「暖かや」と「造り花」の取り合わせを言っているのなら頷ける。しかしこの取り合わせを知らないで俳句の選者をする感覚は私には解らない。

 



【余談】

二月二十一日
 木
 野上さんのところに夜、御飯によばれる。そして尾上氏のうたいをきく。同席者中川一政夫妻、内田百間、芥川龍之介。

(宮本百合子『日記 一九二四年(大正十三年)』)

 そういえば宮本百合子は芥川のことを何度も書いているけれど、芥川は宮本百合子のことを書いていたっけ?


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