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芥川龍之介の『「私」小説論小見』をどう読むか

 もう一度念の爲に繰り返せば、「私」小説の「私」小説たる所以は「譃ではない」と言ふことであります。これは何も僕一人の誇張による言葉ではありません。現に「どんなに巧妙でも、『私』小説以外の小説は信用する訣に行かない」とは久米君自身も一度ならず力説してゐる所であります。しかし「譃ではない」と言ふことは實際上の問題は兎に角、藝術上の問題には何の權威をも持つてゐません。

(芥川龍之介『「私」小説論小見』)

 芥川の私小説論はいくつかあるが、私はこの「譃ではない」小説無意味論にその説明は尽きているのではないかと考えている。つまり「譃ではない」から価値があるのではなく、「譃ではない」から価値がないのでもない。「私小説の私小説たる所以は本質的には存在しない」として、小説の背後にある事実を「どうでもいいこと」と見做しているのが芥川の立場である。

 このことが全く理解できず「保吉もの」の背後に芥川龍之介の体験があることを根拠に、「身辺雑記的私小説」と罵るのは、殆ど小児である。そしてさらに「猶気取りをすて切れず、す直に自己を流露することができていない」などとと云い出せば、これはもう酔人である。

 たとへば或「私」小説の作家はその小説の主人公に彼自身の持つてゐない孝行の美德を與へたとして見ませう。成程その小説の主人公は彼と異つてゐる以上、道德的に彼を譃つきと言ふのは當つてゐるかも知れません。が、かう言ふ主人公を具へた或「私」小説はまだ表現されない前に既に彼の心の中に存在してゐたのでありますから、彼は譃つきどころではない、唯内部にあつたものを外部へ出して見せただけであります。若し又譃をついたとすれば、それは彼が何かの爲に彼の天才を賣淫し、彼の内部的「私」小説を十分に外部化することを(或は表現することを)怠つた場合だけでありませう。

(芥川龍之介『「私」小説論小見』)

 本当に「朝日ビイル」と言ったのかどうかなどどうでもよろしい。駅の待合室の物売りを「我々の生命を阻害する否定的精神の象徴である」と捉えて、そこに誰も得をしない問答を仕掛けて勝ち誇る滑稽が『十円札』にはあった。

 そもそも駅の待合室の物売りが「我々の生命を阻害する否定的精神の象徴である」とは何と主観的な見立てだろうか。そしてここにナポレオンを持ち出すとはなんと客観的な仄めかしだろうか。
 小説に書かれるモチーフとしての事実は、例えば精々『羅生門』における「羅城門登上層見死人盗人語 第十八」程度のものに過ぎない。

 『地獄変』の元ネタも知られているものとしては「自分の家が焼けて喜んだ」という程度のもので、よくこんなネタから『地獄変』が出来上がったなと感心します。『鼻』で言えば元ネタの落ちを捨てて、構成を完全に組み直しているわけです。『地獄変』はまあ、なんというか、もう一つのモチーフは別の所から持って来たんじゃないかと思いますね。

 ……と既に書いた通り、

 あらゆる藝術の本道は唯傑作の中にだけ橫はつてゐます。

(芥川龍之介『「私」小説論小見』)

 はっきりしているのは「保吉もの」だからくだらないなどという偏見を捨てなければ、いい小学校高学年にはなれないということだ。酔っぱらいにはなれても小学七年生には絶対になれない。小学八年生など夢のまた夢だ。



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