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岩波書店・漱石全集注釈を校正する35 食い心棒のお母さんは「い」の一号に金壺眼

食い心棒

 おれは脳がわるいから、狸の云うことなんか、よく分らないが、蕎麦屋や団子屋へ行って、中学の教師が勤まらなくっちゃ、おれみたような食い心棒にゃ到底出来っ子ないと思った。それなら、それでいいから、初手から蕎麦と団子の嫌いなものと注文して雇うがいい。だんまりで辞令を下げておいて、蕎麦を食うな、団子を食うなと罪なお布令を出すのは、おれのような外に道楽のないものにとっては大変な打撃だ。

(夏目漱石『坊っちゃん』)

  この字も使われなくなった。しかし昔は普通に使われていた。ちなみに「食維新」という言葉もあった。

地藏と云ふものは元來食ひ心棒、そこで之においしい物を見せ、酒の香をかゞせて、「地藏さん、こゝまでお出で」と朝から晩までやつて見たが、地藏さん。

『青年に訴ふ』大迫元繁 著実業之日本社 1923年

「あたしが喰ひ心棒だと云ふことを、あなたにお目に懸けようとしてるんですよ。自分 こそ、何か知ら舐つてなきや生きてゐられない男の癖に。」「ぢやまあ、白狀いたしますがね」ラエルテスはそれに答へた。


『ゲーテ全集 第8巻』大村書店 1926年

 ただし確認できたのは全て漱石以降の用例である。つまり漱石が影響していないという確証はない。要検証ということだ。


マドンナ

「まだご存知ないかなもし。ここらであなた一番の別嬪べっぴんさんじゃがなもし。あまり別嬪さんじゃけれ、学校の先生方はみんなマドンナマドンナと言うといでるぞなもし。まだお聞きんのかなもし」
「うん、マドンナですか。僕あ芸者の名かと思った」
「いいえ、あなた。マドンナと云うと唐人の言葉で、別嬪さんの事じゃろうがなもし」
「そうかも知れないね。驚いた」

(夏目漱石『坊っちゃん』)

 現在の我々の位置から眺めると『坊っちゃん』一作の中でマドンナの意味が聖母マリアから別嬪さんに変化したかのようだが、実際には支那経由の俗語で別嬪さんをマドンナと呼ぶならわしが既にあり、明治二十八年当時の松山には実際にマドンナとあだ名される美人がいたということになっている。

 このあたりのねじれ具合は、さらに掘り下げるべきだろう。またマドンナとは飽くまでも「母」であり、未婚女性ではないという点も確認しておきたい。すると話がまるで変ってくる感じがするはずだ。つまりマドンナは「お母さん」でもいいのだ!


ハイカラ頭

 ところへ入口で若々しい女の笑声が聞きこえたから、何心なく振ふり返ってみるとえらい奴が来た。色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奥さんとが並んで切符きっぷを売る窓の前に立っている。おれは美人の形容などが出来る男でないから何にも云えないが全く美人に相違ない。何だか水晶の珠を香水で暖っためて、掌へ握ってみたような心持ちがした。

(夏目漱石『坊っちゃん』)

 この「ハイカラ頭」に関してはこの後で、「花月巻、白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはヴァイオリン、半可の英語でぺらぺらと、I am glad to see you」という歌が出て來ることから「花月巻」と捉えても良いところだ。しかし語彙としての「ハイカラ頭」は花月巻とは限らない。

「叔父さんお在でゞすか。」とばかり細目に開けた扉の隙間から蜻蛉のやうに光つたハイカラ頭を入れる。
 總一郎は秘書役を相手に、重要書類の整地に餘念なかつたが、その聲でふつと無髯の顔を上げた。
「碩夫か。」
「は、僕です。」

『女の誓 : 小説』北島春石 著春江堂 1923年


仰天百画 東京滑稽社 1911年


仰天百画 東京滑稽社 1911年

 このように「ハイカラ」頭という表現は男女ともに用いられるので、その時々で流行している髪型が「ハイカラ頭」となろうか。作中では「ハイカラ野郎」が明かに悪口として使われており、「ハイカラ頭」は決して誉め言葉ではない。

 そもそも「ハイカラ」自体が良い意味ではないのだ。

イヨー廂髪の馬鹿女め、鍋被りのハイカラ野郎め、斯んな奴等を碎肉にしてハイカラ汁を 拵へたら何んなものだ、いかな己でも吸へめいな、吸たら反吐だらう、ハヽハヽハヽ。

『今様水滸伝 : 明治豪傑』三宅青軒 著大学館 1906年

【ハイカラー】(High-collar) (C)英語はいかの高襟と云ふことばから轉じた語。
①はやりを追って、みなりをかざること、また、其の人。
虛飾家(キヨシヨクカ)花々公子(クワクワコウシ)脂粉客(シフンカク)、花散嘅人(クワサンガイジン)ごらんなさい、あのハイカラを。見よ彼の花々公子を。
②新しい新しい服裝新樣(シンヤウ)新流行(シンリユウカウ)新樣服(シンヤウフク)ハイカラのがらが、すきだ。新流行の模樣を好む
③にゃけたこと。輕薄なこと、また其の人嬌熊(ケウタイ)繊弱(センジヤク)輕佻(ケイテウ)
あのむすめは、いやにハイカラだ彼の孃は可厭嬌態なり。

俗語辞海

 この『俗語辞海』では「ハイカラ」に良い意味が見つからない。これは俗語に落ちたとたん意味が転じる典型だろう。スノッブでお洒落な感じで「ハイカラ」が使われるのは「ハイカラ」が一周廻った稲垣足穂以降の事か。ただいろいろな使われ方があるのは事実だ。

「君はそんな事を云ふが、ハイカラと云つても、必ずしも排斥す可き者では無い」、と白頭がチビに向つて云つた。「勿論、我々は蛮カラを以て自任して居る。大人君子、向陵の健児にして理想としてゐる物だから、蛮カラーは大いに賞す可しだ。が、併しだ、君だつて花見に行かぬ事はあるまい。月を賞せぬ事は無いだらう。今、ハイカラーを見るにだな、頭の髪をスツカリと奇麗に分けた処は、丁度、雌浪雄浪がドー/\と、寄せては返す如く。雪の様に白い、しかも高いカラー、折目のシヤンとした洋服で以て、スラリと立つた所は、第一奇麗ぢや無いか。我輩は敢て華美を云ふのではない。清潔を云ふのだ。清潔は我四綱領の一つを占めて居る。翻つて、バンカラーを見るにだ、尤も近き例は君さ、モシヤ/\と味噌玉に菌の生えた様な頭で、シヤツの鈕ボタンはまるで無しさ。帯は割けてゐる、袴はポロ/\さ。おまけに異様な汚臭を放つに至つては、公平な眼を以て、決して左袒さたんする事は出来ないよ。我輩、豈敢て形式のみを云はんやだ。成程、天真爛漫は好いさ。しかし、今世界の人間がすつかり、マツ裸で往来したら何と思ふ、我輩が決して疑はない真理が有る。即「美は隠すに有り」だ。早い話が、今もし僕が君に向つて、「大馬鹿め、死んでしまへ」と云つたら、仮令たとい、友人の情で怒らぬかもしらんが、面白くないだらう、さ、其れを心に隠して居て、何も云はない、知らん顔して居る、と云ふ処で何事も美くしう行くのではないか。美は隠すに有りだよ。なんだか矢たらに形式にばかり走ると思ふかもしらんが、そーではない。と云ふのは、此ハイカラなる者は、僕は無邪気だと思ふ。即悪気と云ふ物がない。即悪う云へば、少々御目出度い方かも知らんが、天真だと思ふ。頭を分けて、たのしんで居る処は無邪気ではないか。以て愛す可しだ。反対で、蛮カラーと云ふ奴は、表裏は天真ラシイかも知れないが、僕はどーも陰険だと思ふな。かう云ふと君は蛮カラ也、故に陰険也と来るかもしれんが、君丈は例外だ。之は証明するのは苦しいが、慥に、一筋繩では行かぬ人間だ。えらい奴も有らうが、悪党もきつと蛮カラーに有るよ。だから僕は蛮カラー親しむ可からず、ハイカラー愛す可しと云ふのだ。どうだい」、水でもほしいと云ふ顔付だが、可愛さうに、此の大議論に誰も耳をかたむける者がなかつた。

(尾崎放哉『俺の記』)

「ハイカラ」は明治の後年期十年間ばかりのところに指摘される、新規な「美男の坩堝」、その製造方法であるが、およそ「明治」のことと云えば何でも「明治天皇」にもとづかないものはないように、「ハイカラ」といえども、もし明治天皇が明治五年に洋装なさらなかったならば、日本になかったものだろう。御一新にあたって断然陛下が散髪なさり洋装なさったことは、「日本」全体がそこから変貌して髪を切り・服を改めたことだったので、その天皇の御意見、「夫唱婦随」もあったことだろう。それよりも更に能動的・直接には、侍従の島団右衛門あたりの御すすめによって、率先して、おすべらかしお美しかった皇后が、お馴れにならないローブ・デコルテの洋装に身なりをお改めなすったのは、――辱けなや、開国文明のためである。
 明治天皇は十八歳のお年(明治二年)までに、東海道を往復数度なさったが、その時のお姿が、白羽二重のお召物に、緋の袴を召されて、お馬だった。
 明治天皇のお馬の道中には、片脇に侍臣が付き添うて、馬上の陛下に紺蛇の目に銀の蒔絵をしたお傘をさしかけたということである。
 今から九十年前に陛下が江戸――この東京へ先ずおいでになった時には、そういう「お国振り」とも云おうか、われわれ、今にして思えば、千年も前のようなお姿で、東下りなさったのであったが、明治四年になると散髪令一下されて、参議連の木戸、大隈、伊藤等の頭上から一瞬にしてちょん髷がなくなり、つづいて日本中で切り下されたちょん髷の数々は、日に日に無数だったことだろう。横浜ではその頃から、「仏蘭西五十三番」にヂバンという商人があって、洋服、靴、帽子、手袋等、アチラの装身具一切をあきなったという。
 時は少し下るが、数奇者の――そしてモードに対して常にカンの鋭かった――音羽屋五代目菊五郎は、好んで横浜(ハマ)まで洋品の買いあさりに出かけ、或る時は長靴を求めて、意気揚々とそれを履いて「小屋」入りしたことがあったという。
 二十一歳におなりになると、それからは明治天皇は、公式服装の場合は一切、出るにも入るにも洋装となさった。千年の緋袴白袍は深々と蔵に埋められて、歴史の彼方に去ったのだ。

(木村荘八『ハイカラ考』)


明治天皇御一代

 なるほど。剣呑である。
 とりあえずマドンナに対しての「ハイカラ頭」は「えらい奴が来た」という驚きが込められた表現だろう。

いの一号

かくて二階の、いの一號ともいふべき隅の室に請ぜらる。床には漢詩をのたくらしたる懸幅の前、花瓶に車百合の花と、紫苑とを投げ挿しにしたり。六疊敷ながら、小締んまりとして居心よし。


『山岳文学』小島烏水 著太陽出版社 1944年

 戦前まではこの「いの一号」の用例は普通に見つかる。しかし次第に「いの一番」に置き換わったようで戦後では見つからない。青空文庫では用例が夏目漱石『坊っちゃん』しか検索で引っかかって来ない。いろは歌さえすたれた現在、「まっさきに」という意味であるということさえ伝わらなくなるかもしれない。「活版」も今や、想像上のものであろう。

野芹川

付近を流れる御手洗川は小説坊っちゃんの中では、野芹川と称されていたと思われる。

http://kazmal.ty.land.to/03sansaku/6229_e_ka.html

 流石に特定されている。

相生村

 特定されていない。

金壺眼

 そうなると一銭五厘の出入りで控所全体を驚ろかした議論の相手の山嵐の方がはるかに人間らしい。会議の時に金壺眼をぐりつかせて、おれを睨めた時は憎い奴だと思ったが、あとで考えると、それも赤シャツのねちねちした猫撫声よりはましだ。

(夏目漱石『坊っちゃん』)
帝国大辞典 第1版 藤井乙男, 草野清民 編三省堂 1896年

寫眞を見れば馬蛇眉に金壺眼の類なき醜男、


『奥様』川上眉山 著博文館 1897年
にこり水 前田曙山 著春陽堂 1899年

前頭のすッペリと禿げた、金壺眼の、頰の骨の張つた、年輩は六 十に近い老人である。

あやめぐさ 広津柳浪 著春陽堂 1903年

 この「金壺眼」は「くぼんで丸い目」とネットではさりげなく描かれているが、最も古い説明では「丸い」ということが書かれていない。

 総じて良い用例は限られている。

赤シャツの弟

 頼むと云ったら、赤シャツの弟が取次に出て来た。この弟は学校で、おれに代数と算術を教わる至って出来のわるい子だ。その癖渡りものだから、生れ付いての田舎者よりも人が悪るい。

(夏目漱石『坊っちゃん』)

 旧制中学の在学中となれば十七歳以下で、と勘定して見ると、兄の赤シャツが何歳なのか気になるところ。設定では赤シャツは独身らしいので、文学士で教頭と雖も、案外若いのかと思わせるところ。

 またここはでは「おれ」は何故「二十三年四か月」なのかと考えさせる仕掛けだろう。

日向の延岡

「どうも難有う。だれが転任するんですか」
「もう発表になるから話しても差し支えないでしょう。実は古賀君です」
「古賀さんは、だってここの人じゃありませんか」
「ここの地の人ですが、少し都合があって――半分は当人の希望です」
「どこへ行くんです」
「日向の延岡で――土地が土地だから一級俸上って行く事になりました」

(夏目漱石『坊っちゃん』)

 岩波書店『定本 漱石全集第二巻』注解に、

日向の延岡 宮崎県の北部、日向灘に臨む町。僻遠の地として用いられている。二四五頁に「名前を聞いてさへ、開けた所とは思へない」とあるのは、天孫降臨を語る日向系神話がこの日向の地を舞台としているからであろう。

(『定本 漱石全集第二巻』岩波書店 2017年)

 ……とある。

 それも花の都の電車が通ってる所なら、まだしもだが、日向の延岡とは何の事だ。おれは船つきのいいここへ来てさえ、一ヶ月立たないうちにもう帰りたくなった。延岡と云えば山の中も山の中も大変な山の中だ。赤シャツの云うところによると船から上がって、一日馬車へ乗って、宮崎へ行って、宮崎からまた一日車へ乗らなくっては着けないそうだ。名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。猿と人とが半々に住んでるような気がする。いかに聖人のうらなり君だって、好んで猿の相手になりたくもないだろうに、何という物数奇だ。

(夏目漱石『坊っちゃん』)

 しかし、このように「おれ」は「延岡と云えば山の中も山の中も大変な山の中だ」と言っており、「日向と云えば山の中も山の中も大変な山の中だ」とは言っていない。日向という言葉には引きずられていない。神話のイメージに流されたのではなく、「赤シャツの云うところによると船から上がって、一日馬車へ乗って、宮崎へ行って、宮崎からまた一日車へ乗らなくっては着けないそうだ」と経路を教わっている。

 つまり「猿と人とが半々に住んでるような気がする」は神話のイメージかもしれないが、「おれ」が海辺の町である延岡を「山の中も山の中も大変な山の中だ」と思いこまされたのは「赤シャツの云うところ」ゆえということになる。
 では何故、赤シャツはすぐにもばれそうな嘘を言ったのか。
 あるいは何故延岡を山奥にしたのか。


 これは、

大方田舎だから万事東京のさかに行くんだろう。物騒な所だ。今に火事が氷って、石が豆腐になるかも知れない。

(夏目漱石『坊っちゃん』)

 ここにかかっているのではなかろうか。「松」が「船つきのいいここ」ならば「延」も海ぺりで良さそうなものを、そもそもその命名が「さか」だから誤魔化されたわけだ。

 そもそも「地図で見ると海浜で針の先ほど小さく見える」としたところで「松山」の文字を隠した時点で、「延岡」を山奥にする計画は既にあったのかもしれない。

 また赤シャツが延岡を僻遠の地としたのは渡り者であったためで他意はなく、あるいは田舎者のエスノセントリズムethnocentrismのようなところに対する揶揄が込められているとも考えられよう。

 いずれにせよ結果としてその嘘か誤解が「おれ」のうらなり君への同情を嵩増しし、その結果が鉄槌に跳ね返った、罰が当たったと見なければ、『坊っちゃん』という小説の筋が読めているとは言えないのではなかろうか。

 そもそも注解とは正しく読むための工夫と考えることからやや厳しい表現となった。ただ勝手な思い込みはいけない。そんなもののためにどれだけ漱石作品が涛されてきたことか。


[余談]

 夏目漱石のその後の小説は東京での暮らしが描かれることが多く、住み込みの下女だけではなく、仲働き、飯焚や書生といった使用人の存在が当たり前だったが、「おれ」の赴任先にはそうした存在が現れない。これが東京と地方の差なのかなんなのか判然としない。赤シャツの家を訪ねても弟が応対に出て來る。旅館には下女はいるが、一般家庭はどうだったのだろう。

 下宿先の萩野ではお婆さんが晩めしを持ってくる。そのあたりも何か注解が欲しいところだ。



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