谷崎潤一郎の『續惡魔』を読む 緞帳芝居の刃傷沙汰
お前が本を読んだ「感想」とか、どうでもいいよ、本当にどうでもいい。そんなものに何の価値がある? それ他人に読ませる価値がある? とタイトルから誤解されかねないが、私はそうでないものを書いているという自信があるので書いている。
勿論noteが屁のような読書感想文であふれかえっていて、「えっそれだけ。ねえ、他の人の感想読んで見た? そこから何か一歩でも踏み込んだ? 調べたりした?」と感じることが多いのは事実だ。あとは外側から余計なものをたくさん持ってきてごてごてと飾り付けたトンデモ説もちらほら。査読論文における先行研究の徹底の必要性みたいなことを考えないこともない。
ではそういうものとお前の書いているものは何が違うかと言われれば、結局百年前の作品について、これまで述べられていない新しいことを書き続けているという点に尽きる。
例えば谷崎潤一郎の『續惡魔』は講釋本の世界に遊ぶユーモア小説だと書いてみる。これがあてかんの逆張りではなく、ロジックの中から現れる読みだとしたら、少しは意外で、その意外さにおいて誰かが読む価値がある文章が書かれていると認められないものだろうか。
谷崎潤一郎の『續惡魔』は籾山書店の 1913年版では『惡魔』に収められ、そのタイトルを「惡魔續篇」としている。改造社の1924年版『新撰谷崎潤一郎集』で『續惡魔』と改められている。
こちらはどういう具合か「と」の活字がかすれていて読みづらいので、籾山書店の 1913年版、あるいはグーテンベルクでお読みいただきたい。
さてこの『續惡魔』を読み進めるにあたって、前回『惡魔』のところで書かなかったこと、つまり何が「惡魔」なのかという点について確認したいと思う。結論から言えば『惡魔』ではまだ「惡魔」は現れていなかった、というのが私の見立てになる。だから「惡魔續篇」が書かれ、『惡魔』として完結したのだ。『惡魔』に「惡魔」が描かれていれば「惡魔續篇」は書かれる必然性がない。どうも足らないなということで「惡魔續篇」は書かれたのだ。書かれたところでまた谷崎潤一郎は『惡魔』と「惡魔續篇」を別々の作品として見立てた時に、『惡魔』にも「惡魔續篇」にもそれなりの構えが見えることから『續惡魔』という一個の作品として一応分けたのだろう。
そう考えたところでやはり『惡魔』では何が「惡魔」なのかと再び問えば、それは照子の手巾をしゃぶる佐伯の中の仄めかす異常性とでも言えばいいだろうか。それはまだ形を伴わず、可能性でしかない。照子の肉体の下に魂が押しつぶされて藻搔いても焦っても逃げようのない苦しさを妄想する佐伯の、現実世界との乖離でしかない。あるいは照子や講釋本を対象として現れる佐伯の異常心理である。
むしろ明確に照子そのものでもなく、鈴木そのものでもない。確かに『續惡魔』において、佐伯は照子を何度も悪魔呼ばわりするが、その一方で妲己のお百のリトグラフに惹かれているのである。照子を妲己足らしめんとするのは佐伯の妄想である。
………名にし負ふ其の頃の十萬坪の事でございますから、まことに淋しいもの、あたりは人ひとツ子こ一人居りません。折柄ポツーリポツーリと雨さへ降り出して參つた樣子。時分はよしとお百は德兵衞の隙を見すまし、兼て帶の間に隱し持つたる短刀を拔くより早く、男の脇腹へグサとばかりに突き徹しました。「アツ」と云つて、德兵衞が逃げようと致しましたが、重い荷物を背負はされて居りますので、身動きもなりません。「う、う、うぬ、さては己を殺すのだな。」「德兵衞さん、お前の生きて居るうちは、わたしの出世の妨げ故、お氣の毒だが殺してやる。此れと云ふのもみんなお前が馬鹿だからさ。グヅグヅ云はずに早く往生しておしまひよ。」と、襟髮取つて引き廻し、所嫌はず滅多めつた斬り、………プツーリ喉笛を搔き切つて、止とゞめを刺し、死骸は河へ投げ込んでしまひました。………(谷崎潤一郎『續惡魔』)
こんな講釋本が佐伯を魅了する。一方では地震の恐怖におびえながら、佐伯はこの講釋本の世界に飲み込まれることを予感していた。
「こんな下くだらない事ばかり苦に病み續けて居て、己はいつ迄世の中に生きて居られるだらう。」―――彼は到底今年の暮れが安隱に越せないやうな心地がした。每日々々、朝夕に五六度も胸をドキ付かせ、渾身の神經をピクピク戰をのゝかせて、一つ間違へば氣狂になりさうな危あぶなツかしい輕業を演じながら、どれだけ命が保つて行くだらう。手を換へ品を換へて、執拗に襲ひ來る恐怖の大波を搔い潜りつゝ、盲目滅法に悶え廻り、次第に精根が盡き果てゝ行く無慙な姿を、佐伯は自みづから顧みてハラハラするやうな折もあつた。呪ふべき運命が、もうついついつい近所まで迫つて來て、刻一刻に彼を待ち構へて居た。(谷崎潤一郎『續惡魔』)
むしろ鈴木が最後にやったことは、佐伯がやらせたことに過ぎない。穏便に済ませたいという鈴木に対していきなり決闘しようと脅したのは佐伯である。先に鈴木を殴ったのも佐伯である。鈴木を殴り続けて、殺せと言ったのも佐伯である。鈴木はただの横恋慕の偏執狂に過ぎない。一方では地震の恐怖に怯えながら、その一方で自ら危険な方へと進んでいく佐伯は、確かに異常であり、悪魔に取りつかれたようだとは言えるかもしれない。
しかし妙に俗なものも見えなくはない。
「たんとお擲りなさい、女はとられるし、男には擲られるし、私も散々ですな。」
「口惜しければ、僕を殺したらいゝだらう、何か刃物を持つて來てやらうか。」
「なに其れには及びませんよ、………」にやにやと笑つて、壞へ手を入れて、「困りましたな、それでは、どうしても改心なさらないんですな。」
「だから殺せと云ふんだ。」
其の瞬間、ぴかりと光つたものが、鈴木の右の手に閃いて、又外套の蔭に隱れた。
「いくらおどかしたつて駄目だぞ、殺すなら早く殺せ。」
佐伯は新派の俳優が見えをするやうに、胸を突き出し、兩手を背後に組んで空を仰いだ、星がきらきらと綺麗に輝いて居る。
それでも鈴木は、まだにやにや笑ひ續けて、容易に斷行するやうな形勢もない。
「ほんとに男らしくない奴だな。殺せないならグヅグヅして居ないで此處を出ろ。」
いゝ氣になつて胸倉を押へつゝ、裏木戶の方へ引き擦り出さうとした刹那、
「そらそら御覽なさい。此れでも男らしくありませんかな。」
かう云ふ言葉と共に、佐伯は頤の下をピシリと鞭で打たれたやうに感じたが、忽ちたらたら血が流れ出した。
「ふん、とうとう斬つたな。感心だよ、男らしいよ。」
よろめきながら、傷口へ手をあてゝ、こんな負け惜しみを云ふ間もなく、鈴木は彼の體を板塀の傍へ踏み潰す如く倒した。さうして、やつぱりにやりにやり笑つて居るらしかつた。
喉笛を抉られる時、佐伯は最後の息を振り絞つて不思議な聲を發したが、それは負け惜しみではなく、痛苦のあまり悲鳴を擧げたのだつたらう。痩せて居る割合に多量の血液が景氣よく迸つて手足の指が蜈蚣のやうに戰いて居た。(谷崎潤一郎『續惡魔』)
何か得体の知れないものに突き動かされてのふるまいではなく、「新派の俳優」を気取り、「いゝ氣になつて」やってしまったことなら、これはただの喜劇である。少しも悪魔的ではない。刃傷沙汰の緞帳芝居である。
私は、鈴木の異常な屁理屈が佐伯の前にだけ現れていたことから、鈴木の異常さごと佐伯の妄想であったかもしれないという妄想を途中まで抱いていた。しかし谷崎はそこまで幻想的な世界にはもっていかない。あくまで講釋本の世界に留めようとする。
「兎に角、御參考までに申し上げて置きますが、つまり私は此れだけの處置を付けて頂きたいんです。―――先づ第一に姦通の事實を認めて、謝罪狀を書いて頂く事。それからですな、謝罪の條件として、將來斷然照子と手をお切り下さること。………」
と、鈴木は、爪の先が悉く短く喰ひ切られた右の手の指を折り數へて、
「手をお切り下さる證據に、此處の家を立ち退いて頂く事、………尤も此れは何ですよ、下宿をお尋ねなさる御都合もございませうから、五日以内に實行して下されば宜しいのですよ。あなたが照子に野心を持つておいでにならなければ、以上の條件を承諾なさるのは、そんなにむづかしい事ではございますまい。どうか一つ、明日のうちに御挨拶が願ひたいのです。私の方もいろいろ都合がございまして、………」
云ふだけの事を云つたら、好い加減にして引き退つたらよささうだが、殆んど際限なくブツブツと口を動かす。相手がどんなそつけない素振を見せようと、耳があつたら聞えるだらうと云はんばかり、石に向つて念佛を唱へるやうな態度に出て居る。―――
「………お互ひにつまらぬ女の事なぞで、爭論したかないですよ。此れを御緣に御交際を願つて、又何かの時には私のやうな者でも、及ばずながらお力添へにならない事もないでせう。此れが男と女ぢや仕方がありませんけれど、男同士の喧嘩なんですから、濟んで了へば却つてサツパリして好い心持ちです。はゝ。」
佐伯は頭から蒲團を被つて、寢た振りをして了つたが、いつまで立つても愚劣な獨語が止みさうもない。(谷崎潤一郎『續惡魔』)
この横恋慕の偏執狂の理屈は林久子や照子の意思を無視した一方的なものであるばかりか、書生の分際で親戚の下宿人に家を出ろとはまさに主人気取りで異常である。これがまるごと佐伯にだけ聞こえていた妄想なら面白かったのだが、この横恋慕の偏執狂の理屈が文章となり、三人に晒されてしまう。
續いて、再びばた〳〵と梯子段を駈け昇る音がして、お雪が爆裂彈でも運ぶやうに、氣味わる〳〵赤い封筒の書面を持つて來る。
「いゝから、お前は下へ行つておいで。」
受け取ると等しく、叔母は、狀袋の頭を引きちぎりながら、お雪を追ひ返して、勸進帳を讀むやうに、手紙を兩手で胸のあたりに支へ持つた。
斷ことわつて置くが、狀袋の表には、「御主人樣」とでもあるべき處を、わざわざ「林久子殿」と叔母の本名を麗々れい〳〵しく楷書で認したゝめてある。本文の方は半紙二枚へ、大小不揃ひの拙劣な文字が、穗の擦り切れた筆で、而も墨黑々くろ〴〵と走り書きしてある。(谷崎潤一郎『續惡魔』)
なるほどやはりこれは緞帳芝居だ。ユーモアだ、と確信させる場面である。悪魔だなどど散々脅しておいて…、と一旦気が付いてしまえば、あ、そうかと思い当たる。鈴木のいかにも独りよがりの強引な申し出は、講釋本の世界の中の理屈で成り立っている。
予ハ第一に照子の母たる久子の罪を鳴らさゞる可からず。汝は夫敏造氏の死後果してよく未亡人たるの勤めを完うセシヤ。敏造氏生前の遺訓に背き、夫が唯一の忘れ紀念なる娘の敎育法を誤解して、照子をして今日の如く墮落せしめたるは汝の罪にあらずして何ぞや。敏造氏の生前に比べて林家の家風の頽廢せる事殆んど言語に絕エタリ、予の如きは之を憂へて幾度か忠吿したるも、汝は更に耳を傾けず、却つて予をうるさがり、甚しきは予を嘲笑して毫も反省する所アラズ。實に家名を傾くるものと云ふべし。(谷崎潤一郎『續惡魔』)
これは芝居だ。歌舞伎、狂言の世界の古い窮屈な論理だ。ここでは明らかに古い家制度における未亡人の役割が語られている。現代人から見ればとても受け入れがたい、理解できない理屈ではあるが、遺訓や家風や家名というものが確かに封建社会を支えていた時代があり、そうしたものは芝居や講釋本の中にのみ残っている。その時代の論理が強引に持ち出されているのだから鈴木が意地悪く偏執的に見え、その理屈が独りよがりに感じられてしまうのだが、講釋本の世界では鈴木の理屈も通るのだ。
出來るだけ相手の話が聞えないやうに、佐伯は心を餘所へ外らして、一生懸命興奮を押し鎭める事に努めた。其の恰好は、丁度五段目の勘平が切腹して今にも落ち入らうとする斷末魔に、片手を急所の傷口にあてながら、息をせいせい云はせる姿によく似て居た。(谷崎潤一郎『續惡魔』)
佐伯は既に緞帳芝居の中にいた。『仮名手本忠臣蔵』の六段目、早野勘平腹切の段の芝居をまねて、なお五段目と惚けて見せる。五段目は「恩愛の二つ玉」である。「紂王の寵妃、末喜」と惚けるのと同じだ。
「やい、もう堪忍ならねえぞ!」
と、云ふより早く懷の匕首を拔き放ち、夜具の上からズバリとやられるかも知れない。伊勢音頭の貢が萬野を殺すやうに散々無禮をさせ、增長をさせた揚句、いきなり不意討ちを喰はせないとも限らぬ。(谷崎潤一郎『續惡魔』)
これもまた緞帳芝居である。伊勢音頭とは『伊勢音頭恋寝刃』という歌舞伎、または人形浄瑠璃だが、「やい、もう堪忍ならねえぞ!」では緞帳芝居である。いかにも堪忍なるまいお相手になり申さう、が浄瑠璃、歌舞伎である。
だから最後は笑っていいのだ。「痩せて居る割合に多量の血液が景氣よく迸つて手足の指が蜈蚣のやうに戰いて居た。」とはいかにも谷崎らしいユーモアではなかろうか。こういう場面で真面目なら景氣よくとは書かない。蜈蚣は「丁度二つの掌の、網代に組み合はされた部分が、さながら蟹の腹のやうに思はれた」という表現と共に人間の指の不気味さを捉えたものではあるが、大根役者が最後に見せた名演技でもある。
【余談①】『續惡魔』の言葉たち
安政の地震
佐伯 さへぎ さえぎ 日本人の姓の一つ。佐伯氏。 蝦夷の一つとされる民族。大和朝廷に協力的で、日本統一に貢献したと言われる。が、さへぎの読みはない。
南海トラフ地震も含むんだ。安政の地震が1855年。
関東大震災が1923年 谷崎がこれを書いたのが大正二年だから1913年、丁度10年前か。今年は2022年。ええと。そろそろか。
険難 けんのん けんなん けわしくて困難なさま。そのような難所。苦しみ悩むさま。嶮難。ここは剣呑でいいんじゃないかな。
本郷 地盤
斯学 しがく この学問
石塊 いしころ
蠟しんこ 蝋を用いた新粉細工。谷崎の『憎念』に説明がある。
多くの讀者は、私達の少年時代に蠟しんこと云ふ玩具のあつた事を御存じでせう?あの玩具が子供に喜ばれて、一時非常に流行したのはどう云ふ譯でせう?
蠟しんこを以て、さまざまな形のしんこ細工を拵へる事も、勿論愉快であつたには相違ありません。
私が安太郞の肉體の虐げられるのに興味を覺えたのは、つまり蠟しんこや蒟蒻玉を喜ぶのと同じ氣持ちなのです。蒟蒻だの心太がブルブルと動搖する樣は、傍で見て居るだけでも變に面白いものです。(谷崎潤一郎『憎念』)
濕む うるむ 濕は湿の旧字体
龜甲絣
鞐 こはぜ 足袋の履き口についている薄い金具の部分。
高橋お傳
Obscene picture 猥褻の図画
ビユーカナン、ヰスキー 不明 カナンの地を見るという名前のウイスキー?
權衡 けんこう
佐竹騒動妲己のお百
米琉
米沢琉球紬(よねざわりゅうきゅうつむぎ)の略称。別名「長井(ながい)紬」「置玉(おいたま)紬」ともいい、山形県長井市、荒砥(あらと)(現白鷹(しらたか)町)付近で産する絹の紬織物である。実用的な着尺もので、経糸(たていと)に玉糸を用い、緯糸(よこいと)には紬または玉糸を使ったものである。板締め絣(かすり)、紅花(べにばな)などで染める草木染め紬がある。
伊達巻
突慳貪 つっけんどん 仏教用語
堪忍して かにして
苟且 かりそめ 仮初
敷島 崇神天皇の宮である磯城瑞籬宮が置かれた地、磯城(しき)に由来する日本の古い国号のひとつ。1904年6月29日から1943年12月下旬まで生産・発売された。発売当初は国産の高級たばこであった。
故障を申し込む 反対意見。異議。邪魔。
憎體に にくていに 憎らしいさま。 憎々しいさま。 可愛げがないさま。
得々然 勝ち誇ったようにして
剣突 けんつく 荒々しくしかりつけること。 語気強く人に当たること。 どなること。
跌く つまづいて
五段目の勘平が切腹して 勘平の切腹は六段目
伊勢音頭
怫然 ふつぜん おこって顔色を変えるさま。
網代 指を組んで裏返した形
一閑張の机 日本の伝統工芸品である紙漆細工のこと。またはその紙漆細工を作る方法のこと。一貫張と書かれることもある。
玄関から座敷へ通って見ると、寺尾は真中へ一閑張の机を据えて、頭痛がすると云って鉢巻をして、腕まくりで、帝国文学の原稿を書いていた。邪魔ならまた来ると云うと、帰らんでもいい、もう今朝から五五、二円五十銭だけ稼いだからと云う挨拶であった。(夏目漱石『それから』)
畳んでおく 表に示さず、心の中に秘める。 胸に畳んでおく。
山桐の下駄 江戸時代初期ごろに用いられた桐材の粗雑なつくりの下駄のこと。当時、樵などが山でつくっていたもの。
蜈蚣 むかで
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これなかなか。
Holi 2022: જાણો ક્યાં રંગથી હોળી રમવાથી સમાજમાં માન સન્માન વધવાની સાથે ધન સંપત્તિમાં થશે વૃદ્ધિhttps://t.co/41kbbIYzPF
— ABP Asmita (@abpasmitatv) March 9, 2022
確認しました。
भारत के प्रस्ताव पर नेपाल और बांग्लादेश सहमत पर भूटान की चुप्पी https://t.co/rYiPD8VoN5
— BBC News Hindi (@BBCHindi) March 9, 2022
ネパールとバングラデシュに対するブータンの沈黙は、インドの提案に同意する?
Horoscope : આવનાર 5 દિવસો સુધી આ રાશિના લોકોને રહેવું પડશે સાવધાન,થઇ શકે છે મોટું નુકસાન, જાણો રાશિફળhttps://t.co/VGdsmvCNGR
— ABP Asmita (@abpasmitatv) March 9, 2022
星占い:この星座の人々は、次の5日間は注意する必要があります。って、日本でも活きなのかな。
小さなトラブルや大きなトラブルが来る日もあるかもしれませんが、それを無視して一生懸命頑張れば、平和に時間が経ちます。アートの世界とつながる人々は、新しい機会を得るでしょう。海外で働く人はより良い情報を得るでしょう。生計の分野で新しい選択肢を見つけることに成功するでしょう。衣料品商人は恩恵を受けるでしょう。3月9日と10日はビジネスの観点から優れています。オンラインで取引する顧客の要求を満たす準備をしてください。潰瘍の問題がある人は注意する必要があります。現時点では心がさまよっている可能性があり、そのような状況では瞑想が有益になります。うつ病の患者は医師に相談する必要があります。家族生活は楽しいものになります。電子製品を購入する時が来ました。
スーパーで買われたゴーヤを切ったらめちゃくちゃ可愛かった… pic.twitter.com/0n4HVDaodE
— もふもふ動画 (@tyomateee2) March 9, 2022
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確かに。
違う。
