川上未映子の『ヘヴン』をどう読むか⑥ どうして間違えたんだろう?
カレンダーには一九九一年十月と書かれてあった。
あれ、1991年だ。あと八年で人類は滅亡してしまうじゃないか。もしも今、十三歳なら、二十一歳で死んでしまう。十四歳なら二十二歳で死んでしまう。
1999年に22歳なら1977年生まれか。というより、これは1981年か1982年の頃の話なのか?
ここで計算を間違えている。1977年生まれで13歳か14歳なら、1990年か1991年だ。十年も計算が狂っている。なんでや?
とりあえず1991年だとしたら

新学期の朝は過ごしやすい気温と湿度だったようだ。講談社で良かった。新潮社なら何か言われているところだ。
1991年だとしたら前年には世界初のペットボトル入りの「お〜いお茶」が発売されていたが、これは1.5リットル入りだった。500ミリのペットボトルが解禁されるのは1996年で、まだ自販機でミネラルウォーターを買って飲む文化はなかった。ワードプロセッサーは書院、文豪など大画面での文章編集が可能な機種が出そろい、最高級クラスで価格は三十万円ほどだった。インターネットの仕組みそのものは存在していたが一般に普及するのはまだ先の話だ。1989年東芝がダイナブックを発売、1990年にはマイクロソフトがWindows3.0を発売していたが、コンピュータというものが一般に普及するのはこの四年後のことだ。
そして何より1991年は昭和ではなくもう平成三年だ。カエル少年事件が起きて、バルト三国が独立した。ビッグマックが290円で、吉野家の牛丼の特盛が650円だった。
僕はしだいに自殺について考えるようになっていた。
なぜか「会いたい」というコジマのメモに用事があって行けないと返す「僕」はあまり眠れなくなり、自殺について具体的に考えるようになる。夜中に泣くようになる。コジマからは相変わらずメモや手紙が届く。以前と何もかも同じなのに、コジマだけは得体のしれない「ちから」を身に着けているように感じる。「僕」とコジマに差を感じるのは間違いで、そもそも「僕」とコジマは同じではなかったんじゃないかと思えてくる。
たまたま病院で会った百瀬に、「僕」は何の考えもなく近づき、追いかけてまでして話があると切り出す。そこで百瀬から、いじめの原因は斜視ではないと告げられる。
「たまたまっていうのは、単純に言って、この世界の仕組みだからだよ」と百瀬は言った。
いじめに意味なんてなくただしたいことをしているだけ、僕の考えに納得してくれなんて頼んでいない、罪悪感はない、人の気持ちは知らない、そんなことを百瀬は塀然と言い張る。さらには芸術でも戦争でもなんでも同じだと。
「だったらなんで自分や身内がされたら耐えられないようなことを、他人にはできるんだよ」
「そのふたつにはまったく関係がないだろう? 妹にはされたくないことを他人にしちゃいけないって、それ、なんで?」
三島由紀夫の『金閣寺』のような運命愛系の傑作は文学としてはいわば定型ともいえますが『ヘヴン』はその逆に運命愛の魔力からの決死の離脱を描いた恐らくは世界で初めての小説ですから非常に高度なものだと思います。この小説に感動できる人が多数いるらしいのがむしろ不思議です。 https://t.co/0hPNUjZmQI
— 永井均 (@hitoshinagai1) November 23, 2021
いや、永井氏の関心はそこだったか。
離脱はまだだな。
しかし私はこの「そのふたつにはまったく関係がないだろう?」という百瀬の発言、ロジカルな会話には賛同はしないものの感心した。理屈としては百瀬の言う通りで、他人は自分ではないので、相手の気持ちをおもんばかるのは単なる道徳にすぎないのであって、不道徳な人に強要できることではない。現実的にはみな何らかの形でこの世界に利己的に参与しているのであって、他人と自分が入れ替えできない以上「そのふたつにはまったく関係がないだろう?」は正論である。
「でもそれも、全部たまたまのことだ。僕たちはいま、たまたまそれができる。君はいまたまたま、それができない。それだけのことだよ。半年後はわからない。来年はもつとわからない」
酒鬼薔薇君が『絶歌』で、何故人を殺してはいけないかという問題に一つの答えを出している。それは人を殺すことであなた自身が苦しむことになるからだ、という解ったような解らないような答えだ。問題を悪全般、あるいは悪いこと全般に置き換えてみるとそのロジックの頼りなさが理解できよう。
タバコのポイ捨てをすることであなた自身が苦しむことになるからだ、ということはまずない。路上喫煙であなた自身が苦しむことになるからだ、ともならない。飲みかけのコーラの500ミリリットルの缶を駅の階段に置くことであなた自身が苦しむことにはならない。
自分が刺されれば痛い。しかし誰かを指しても誰かは自分ではないので痛くない。この身体性の問題、自分と他人の区別が現にあることを越えて、他人の行動を制限するのは矢張り法や道徳であり、理屈ではない。
酒鬼薔薇君が指摘しているのは殺人者が報復される社会の仕組みであり、この仕組みを前提にしてしまうとばれなければ何をやっても良いということになり、そもそもの前提「何故人を殺してはいけないのか」という問題自体が成立しないというところに戻ってしまう。
少々乱暴な言い方をしてしまうと酒鬼薔薇君のように実際に人を殺して一家離散したような人間でさえ「人を殺すことであなた自身が苦しむことになるから」という陳腐な答えにしか辿り着けないのに対して、百瀬君には一体どんな経験があるのか知らないが、「全部たまたまのことだ」と達観している。
ただ悪ぶり、ふざけて、あるいはただ上っ面に言うのではなく、理屈として自分と他人の区別が現にあるこの世界の成り立ち、自分だけが自分で他人は自分ではないという当たり前のことを理解している中学生、道徳というものが良くも悪くもつくりものであることを知っている中学生の存在を出してきたあたりで、この作品が世界的に評価され、川上未映子を世界的人気作家に押し上げたのではないか。
いや、まだ六章で、この後の離脱が凄いのか?
それはまだ誰も知らない。
