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歯車になぞらふものや白絽蟵 芥川龍之介の『歯車』をどう読むか58 兼 俳句をどう読むか143

眼底にうごめくものや白絽蟵(しろろちゆう)

 大正八年七月二日、佐佐木茂索宛の書簡に添えられていた句だ。

拝啓 当日の句記憶に残れるは唯左の一句のみ艸稿は既に悉廃紙と致し候

 これは「佐佐木茂索の詠んだ句の中で」という意味で、そもそもこの句は芥川の句ではないのであろうか。それでインターネットには痕跡がなにも見当たらない?

 しかし例えそうであれ、「この句は芥川の句ではない」という痕跡位見当たりそうなものである。件の羅列系のサイトもこの句をガン無視している。

 それでもまあ一応これは芥川の俳句として読んでおこう。

 まず「白絽」とは、白い長襦袢のことと見ていいだろうか。

 そして「」とは? これは万葉集の「馬声蜂音石花蜘蟵荒鹿」の「いぶせくもあるか」 

万葉集 : 西本願寺本 巻12

 の「クモ」だろう。

 しかしここには別の解釈の余地もある。「」には蚊帳の意味もあるので、「白い絽のような蚊帳」「蚊帳代わりに吊った白い絽」と考えて考えられないわけではない。

 しかし「眼底にうごめくものや」とあるのでどうもこれは白い絽のように光るクモのようなもの、例えば『歯車』に現れる歯車のようなものなのではなかろうか。

 僕はそこを歩いているうちにふと松林を思い出した。のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを?――と云うのは絶えずまわっている半透明の歯車だった。僕はこう云う経験を前にも何度か持ち合せていた。歯車は次第に数を殖やし、半ば僕の視野を塞いでしまう、が、それも長いことではない、暫らくの後には消え失せる代りに今度は頭痛を感じはじめる、――それはいつも同じことだった。眼科の医者はこの錯覚(?)の為に度々僕に節煙を命じた。しかしこう云う歯車は僕の煙草に親まない二十前にも見えないことはなかった。僕は又はじまったなと思い、左の目の視力をためす為に片手に右の目を塞いで見た。左の目は果して何ともなかった。しかし右の目の瞼の裏には歯車が幾つもまわっていた。僕は右側のビルディングの次第に消えてしまうのを見ながら、せっせと往来を歩いて行った。

(芥川龍之介『歯車』)

 作者はここで「二十前にも見えないことはなかった」と書いているが、その明確な記録としては定かなものはない。そもそも日記は嘘だらけということで信用もできない。

この頃又半透明なる歯車あまた右の目の視野に廻転することあり、或は尊台の病院の中に半生を了ることと相成るべき乎や。

[昭和二年三月二十八日 斎藤茂吉宛]

 これまで私はこの書簡にある半透明なる歯車が唯一の症状詳記と見做していたが、白絽蟵という言葉の意味を真面目に考えてみるとき、白い絽のようなクモと半透明なる歯車とは、何か重なって見えてこないものであろうか。無論『歯車』でも斎藤あての書簡でも歯車は回転しており、ここで白絽蟵は蠢いているという違いは明白にある。ただしあるいは別のものが見えていたにせよ、眼底に白いクモのようなものが蠢くという症状は半透明なる歯車あまた右の目の視野に廻転するという症状と近接している。

 これはうがちすぎかもしれないが、白絽蟵が白蛛巣、つまりくもの巣なら形状はほぼ歯車である。


本草綱目卷1-21,39-52圖卷上中瀕湖脉學1卷奇經八脉攷1卷脉訣攷證1卷附本艸綱目品目1卷本草名物附録1卷 [20]

 とにかく現時点ではこの句そのものどころか、「白絽蟵」そのものがどこにも見つからない。

眼底にうごめくものや白絽蟵(しろろちゆう)

 むしろ白絽蟵が研究されていないことが解るだけである。そういう意味においては今日私がここに、白絽蟵と『歯車』の歯車は何か関係があるのではないか、この症状は本人の言う通り、以前からあり、薬物による幻覚なのではないのではないかと書き残すことにいささかでも意味はあろうか。

 もちろんこれが佐佐木の句であれば噴飯物の解釈にはなる。しかしこれだけ気持ちの悪い句が佐佐木の句だとはどうも私には思えないのだ。

 指が痛いので少し休憩。


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