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岩波書店・漱石全集注釈を校正する56 袴も脱がず兀々と瞳裏に五指を弾いて

まだ袴を御脱ぎなさらないの

「湯豆腐かい」
「はあ、何にもなくて、御気の毒ですが……」
「何、なんでもいい。食ってさえいれば何でも構わない」と、膳にして重箱をかねたるごとき四角なものの前へ坐って箸を執る。
「あら、まだ袴を御脱ぎなさらないの、随分ね」と細君は飯を盛った茶碗を出す。
「忙しいものだから、つい忘れた」

(夏目漱石『野分』)

 岩波はここに『吾輩は猫である』の一節を引く。

「先達つてなどは学校から帰ってすぐわきへ出るのに着物を着換えるのが面倒だものですから、あなた外套も脱がないで、机へ腰を掛けて御飯を食べるのです。」

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 しかしここは袴を取る取らないの話なので、余り極端な例を持ち出すべきではなかろう。

机に向ふ時の漱石氏は折々前垂を掛けて居られる。鷗外氏は家にあるも袴を取られたことが無いと聞く。(『夏目漱石氏の鶉籠』川路柳虹 著名著評論社 1915年)

 当時の風習として家にいる時は袴は脱ぐことが多かったようだ。つまり鴎外のように袴を取らないのはなかなかかしこまった態度である。ちなみに天皇の御幸にさいして見物に出た漱石はわざわざ袴を穿いてきたので、「袴をはく」→「かしこまる」、「袴を脱ぐ」→「くつろぐ」という程度に捉えていいと思われる。家でも袴を取らない鴎外が奇態というわけではない。

兀々と

 細君は大功名をしたように頬骨の高い顔を持ち上げて、夫を覗き込んだ。細君の眼つきが云う。夫は意気地なしである。終日終夜、机と首っ引をして、兀々と出精しながら、妻と自分を安らかに養うほどの働きもない。

(夏目漱石『野分』)

 岩波はこの「兀々と」に「一心不乱に」と注釈をつける。

着実に努力したり律儀に働き続けたりするさま。

広辞苑

地味ではあるが着実に物事を行うさま。

大辞林

地道に働くさま。たゆまず努め励むさま。

大辞泉

地味ではあるが着実に物事を行うさま。

新辞林

たゆまず着実に物事をするさま。地味ではあるが確実に一つ一つしていくさま。

日本国語大辞典

〔ある一つの物事に対して〕休まずめだたない努力を続けるようす。

学研国語大辞典


地道に努力を続けるさま。

明鏡

 そして新明解はなし。「一心不乱に」はさすがに独自解釈過ぎないだろうか。

瞳裏に一道の電流を呼び起して

 この物質的に何らの功能もない述作的労力の裡には彼の生命がある。彼の気魄が滴々の墨汁と化して、一字一画に満腔の精神が飛動している。この断篇が読者の眼に映じた時、瞳裏に一道の電流を呼び起して、全身の骨肉が刹那に震えかしと念じて、道也は筆を執る。吾輩は道を載す。道を遮さえぎるものは神といえども許さずと誓って紙に向う。誠は指頭より迸しって、尖る毛穎の端に紙を焼く熱気あるがごとき心地にて句を綴る。

(夏目漱石『野分』)

 岩波の「兀々と」の注釈はこの気迫に押されたものであろうか。あるいは、禅語としての「兀々と」には「たんたんと」というよりもやや強いひたむきさのようなものがあるので、そこから「一心不乱に」とやってしまったのだろうか。

 それにしてもここは少し油断していないだろうか。
 この「瞳裏」を岩波は「まぶたの裏」とするが、瞳とまぶたは別ものである。これは「まぶたの母」の連想でもあろうか。

 よくよく読めば「瞳裏に一道の電流を呼び起して」とあるので、網膜の視神経のことを指しているものと考えられる。つまり瞳の裏そのもの、あるいは瞳裡でよいのではなかろうか。

眼は文字の上に落つれども瞳裏に映ずるは詩の国の事か。夢の国の事か。

(夏目漱石『一夜』)

 外に用例が確認できないので断定的なことは言えないが、意味としては目を閉じていない方が通る感じがする。

ことごとく五指を弾いて

わが穿く袴は小倉である。羽織は染めが剥げて、濁った色の上に垢が容赦なく日光を反射する。湯には五日前に這入ったぎりだ。襯衣を洗わざる事は久しい。音楽会と自分とはとうてい両立するものでない。わが友と自分とは?――やはり両立しない。友のハイカラ姿とこの魔力ある眼の所有者とは、千里を隔てても無線の電気がかかるべく作られている。この一堂の裡に綺羅の香を嗅ぎ、和楽の温かみを吸うて、落ち合うからは、二人の魂は無論の事、溶けて流れて、かき鳴らす箏の線の細きうちにも、めぐり合わねばならぬ。演奏会は数千の人を集めて、数千の人はことごとく双手を挙げながらこの二人を歓迎している。同じ数千の人はことごとく五指を弾いて、われ一人を排斥している。高柳君はこんな所へ来なければよかったと思った。友はそんな事を知りようがない。

(夏目漱石『野分』)

 この「五指を弾いて」に岩波は、

『淮南子』「兵略訓」に、五本のばらばらの指で、一本一本弾く力は握り拳の一撃に及ばないように、個々に分かれて事にあたる力は一致団結の力には及ばない、とある。

(『定本 漱石全集 第三巻』岩波書店 2017年)

 なるほど。一致団結の力には及ばない、と。で、排斥されているのに、どうやって一致団結するんだろう?

 そもそもここは「五指を弾いて」の注解にはなっていない。

甲を上にして出す手は抑壓、制止の意味を表し、甲を固めたる手は、やがて怒の意をあらはす、固めた拳を振り上ぐるは、打つぞの義、五指を屈伸すれば計數器に代用せられ、五指を彈ずるは排斥の表現となる、


手と人格 : 活動的修養法 河野清丸, 加藤貞次郎 著建文館 1911年

彈指とは邦語の所謂爪彈きすることで通常不快なものを拂らひ遣る場合の所作であるが、虚空神のやうな偏空に墮する者は實に憐むべきものよと爪彈きしつ悲しむといふのである。

碧巌録講話 第1集 中島久万吉 著素修会 1944年

 この「五指を弾いて」という表現の内に排斥の意味があることを説明せねばならないだろう。



[余談]

 この第三巻、北村透谷、樋口一葉、小栗風葉、森鴎外などほかの作家の話が出て來る。余程近代文学に親しんだ人らしく、夏目漱石の語彙を近代文学の中で読み解こうとして、ところどころポカをしている。

 昨日書いた「世界は一たび我を」が「恋愛は一たび我を」になっている件、については調べてくれている人がいて、
 どうも初出が「恋愛」なので岩波、筑摩は「恋愛」に戻したようだ。

 それにしても

博文館 1902年
松栄堂書店 1914年
新潮社 1914年
改造社 1931年
岩波書店 1947年

 ……が「世界は一たび我を」で、

確かに、

戀愛は一たび我を犠牲にすると同時に我れなる「己れ」を寫し出す明鏡なり。

透谷集 北村透谷 著||星野慎之輔 編文学界雑誌社 1894年

 となっているのは、最初、本人が書き直していて、「全集」が出ているということは、決定稿がでてきたんであって、と当初は軽く考えていたが、そもそも1894年に死んだ北村透谷がこの後書き直したという可能性はかなり低いので……その書き直し原稿が出て来なければ、1902年の博文館に「やりすぎ編集者」が存在した疑いが濃厚になってくる。

 ※この件に関しての詳細は後日。

 少なくとも岩波書店だって1947年には「世界は一たび我を」とやっているので四十五年以上は二つの版が流布していたわけだ。

 夏目漱石をやっているだけでも時間が足りないのに、なんだかな。



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