阿刀田高は谷崎を読んだと言えるのか?
阿刀田高の『谷崎潤一郎を知っていますか──愛と美の巨人』を読むを読んでいる。丁寧に筋を追い、
A ストーリーのよしあし。
B 含まれている思想・情緒の深さ。
C 含まれている知識の豊かさ。
D 文章のみごとさ。
E 現実性の有無。絵空事でも小説としての現実性は大切であり、むしろ多崎的リアリティを考えるべきだろう。
F 読む人の好み。作者への敬愛・えこひいきも入る。
というパラメーターでレーダーチャートを作り、評価している。阿刀田自身が「大胆で、不遜」と云っているので、このような方法が可能だろうかなどど真面目に考える必要はなく、こういう「遊び」なのだと受け止めるべきではあろうと思うが、中身を読んでいくと、それぞれの作品の肝の部分を捉えきれていないことに気が付いた。
まず『刺青』関しては「中国の紂王の妃・末喜」をそのまま受け入れる。
おかしいのだ。「紂王の寵妃、末喜」ではおかしいのだ。末喜は「夏」の最後の帝・桀(けつ)の妃の一人である。紂王は殷(いん)王朝末代(第30代)の王である。時代が違う。「夏桀殷紂」と呼ばれる暴君の代名詞であることだけ共通している。「紂王の寵妃」は妲己、酒池肉林の語源となる悪女である。
これは「中国」と丸めたが故に、起こった事故なのだろうか。阿刀田は新潮文庫版、あるいは中央公論の全集を読んでいるようだ。全集には注釈が一切ないので、何の予備知識もなければ確かに読み飛ばしても可笑しくはないと言えなくもないが、それでも『麒麟』を読めば読み飛ばしには気が付く理屈ではある。つまり阿刀田は『麒麟』を読んでいない可能性が高い。つまり『谷崎潤一郎を知っていますか──愛と美の巨人』というタイトルで読者に呼び掛けられる程度には読んでいないという理屈にならないだろうか。
私でさえ「~を読む」と作品を一つ一つ謙虚に読み、その肝を探る事に徹している。
阿刀田は『お艶殺し』について、
ファム・ファタルを強調するストーリーとして、典型的だ。気きまじめな(ママ)新助が妖女の魅力にどう蝕まれていくか、人間のどうしようもない性を映したフィクション……男性ならだれしもが多く、少なく持っている傾向を訴えて鮮やかだ。そこにこそ小説としての凄さがある。日本版の〈カルメン〉なのだ。モチーフはとてもよく似ている。読み応えのある名作だ。(阿刀田高『谷崎潤一郎を知っていますか──愛と美の巨人』新潮社・2020年)
……とべた褒めだ。「妖女の魅力」?
しかしお艶が殺される理由は浮気であり、そのあたりに起伏はない。お艶は毒婦と云えば毒婦ではあるものの、その毒婦らしいことを発揮した死に方をしていない。
「新さん後生だ、芹澤さんに一と目會はせてから殺しておくれ」
と逃げ回って、芹澤の名を呼びながら死ぬ。これではただの女である。こんな女のために振り回されていた新助が気の毒になる。やはりここでも谷崎は本物のドミナ、本物の悪魔が日本には存在しないことを念押ししているかのようでさえある。
また「男性ならだれしも」などという言い回しが2020年に使われることをどう考えればいいのだろうか。そもそも谷崎潤一郎は世にもまれな自身の変態性を売り物にしようとしたのであり、それを「男性ならだれしも」と云われてしまえば、立つ瀬がないではないか。
死んだやうに固くなつて考へ込んで居る新助を傍へ置いて、彼女は獨り屍骸の處置をつけ始めた。「冥途へ行くのに用はあるめえ」とお艶は屍骸の懐中へ手を挿し入れて、まず百兩の胴巻を引き出した。それから着物を残らず剥がして、小さく圓めて紐で括つた。證據となる可き品物は悉く持つて逃げる算段なのである。しまひには例の剃刀を出して德兵衛の顔を縦横に切り刻んで泥田の中に埋め込んだ。此れなら死體が發見されても、識別される恐れはない。(谷崎潤一郎『お艶殺し』)
こう書く谷崎潤一郎は、おそらく元少年A、酒鬼薔薇くんが『絶歌』で猫殺しのシーンを描く際に意図したもの、善良な人々の悲鳴を期待したのではなかろうか。「人間のどうしようもない性を映したフィクション」と云ってしまえばいかにも普遍的な、本質的なものが語られているかのようであるが、
いきなりお艶の襟を取つて引き据ゑると、衣紋竹で所嫌はずびしびしと撻つた。(谷崎潤一郎『お艶殺し』)
むしろこのようなふるまいを生涯しようとも、したいとも思わない人間が殆どではなかろうか?
阿刀田高は『刺青』『お艶殺し』ともに現実性を五点満点の四と高く評価している。「予が濃厚なる主觀の色を自由に純粹に盛り上ぐる能はざりき。」とは谷崎潤一郎自身の弁である。
阿刀田高は谷崎を読んだと言えるのだろうか?
