見出し画像

小谷野敦の『片思いの発見』を読む⑤ あれ? 一郎の不安の根本に気がついていない?

 小谷野敦は真面な学者である。誰でも小説をレビューできる時代だが、そんな時代だからこそ特権的に語り得る、形式的に評論家を名乗ることが可能な稀有な存在である。その著書はどれも刺激的で、仮に中身に齟齬があったにせよ、そこから何か汲み取れるものがあるから面白い。

 しかしやはり残念なことに『行人』の一郎の不安、その根本の部分には届いていなかった。

 たとえば漱石の三四郎が、美禰子から愛されていると「自惚れ」られるとしたら、三四郎が優秀な一人息子で、母から愛されて育ったからであり、長野一郎が、妻が弟の二郎のほうに惚れているのではないかという疑惑に神経症的に捕らわれるのは、恐らく、優秀な長男だけれども愛敬に欠けた一郎が、二郎のほうが母から愛されていると感じて育ったからである。

(小谷野敦『片思いの発見』新潮社 2001年)

 まず三四郎が一人息子かという問題がある。
 母親を田舎から呼び寄せるという願望があることから現時点では一人息子の可能性が高いものの、父、そして兄が戦死した可能性がなくはないことをその名前が暗示している。勿論兄の事などは書かれていないので、書かれていないことを論う必要はない。

 そして「二郎のほうが母から愛されていると感じて育った」という見立て自体は正確なものであろう。母親は二郎に三沢の入院費もろもろの金をせびられて金を渡す際「兄さんには内緒だよ」とわざわざ断っている。これは普段から何かと二郎を贔屓しているから出てきた言葉だろう。
 この金は母親の手持ち現金の中から出されているが、入院費というのはざっと一日一万円は必要なので渡された金額は少なくとも十数万円になる。そういうことを母親は一郎にはしてやらないのだ。

 とはいえおそらくは大学教授の身分の長野一郎が「弟ばかりに小遣いをやるなんてずるい」と拗ねると考えるのも普通は可笑しい。「兄は俥まで学校へ出た」とあるが、漱石が帝大で教えていたころ、わざわざ俥で大学に乗り付ける漱石を見て、谷崎潤一郎が豪勢なものだと感心したそうだ。その頃から時代が下って、さらに電車が発達した時代、俥を使う長野一郎は一種のステータスを持っていたわけで、大学講師、ではあるまい。それでは先輩から生意気だと叱られてしまう。作中長野一郎の年齢は示されないが、まず大学を卒業してから十年は経っているだろうか。

 ところがその長野一郎の存在は、父親の「今から二十五六年前、ちょうど私の腰弁時代」の昔話の中に現れてこない。
 この父親「あなたが学校を卒業なさると、二十五六に御成なさる」みたいな数字を出して読者に何か勘定させたがる。

のみならず彼がまた昔その女と別れる時余計な事を饒舌っているんです。僕は少し学問するつもりだから三十五六にならなければ妻帯しない。でやむをえずこの間の約束は取消にして貰うんだってね。ところが奴学校を出るとすぐ結婚しているんだから良心の方から云っちゃあまり心持はよくないのだろう。それでとうとう私が行く事になった。

(夏目漱石『行人』)

 これが父親の「いい加減なお使い」である。この〇〇の嘘は父親の軽口からバレてしまう。

「〇〇さんは今何をしておいででございますか」と女はまた空中に何物をか想像するがごとき眼遣いをして父に聞いた。父は残りなく〇〇が学校を出てから以後の経歴を話して聞かせた後、「今じゃなかなか偉くなっていますよ。私見たいな老朽とは違ってね」と答えた。
 女は父の返事には耳も借さずに、「定めてお立派な奥さんをお貰いになったでございましょうね」とおとなしやかに聞いた。
「ええもう子供が四人あります」
「一番お上のはいくつにお成りで」
「さようさもう十二三にも成りましょうか。可愛らしい女の子ですよ」
 女は黙ったなりしきりに指を折って何か勘定し始めた。その指を眺めていた父は、急に恐ろしくなった。

(夏目漱石『行人』)

 しかしこれは一郎に指折り数えてみろと言っているようなものだ。大学教授には少し学問をしないとなれないだろう。二十五六で卒業して十年というイメージはこの父親の昔話の中にすでに埋め込まれている。自分の年を知っている一郎は父親の昔話を聞いて不安になる。

兄は苦々しい顔をして父を見ていた。父は何という意味か、両手で長い頬を二度ほど撫でた。

(夏目漱石『行人』)

 父親はなだめ行動をとる。他人事だから笑えるはずの話を一郎は苦々しく聴いている。

「お前はお父さんの子だけあって、世渡りはおれより旨いかも知れないが、士人の交わりはできない男だ。なんで今になって直の事をお前の口などから聞こうとするものか。軽薄児め」

(夏目漱石『行人』)

 この一郎の二郎に対する罵倒はどうも父親に向けられてはいまいか。この言葉が一番堪えるのは父親であろう。この時一郎は間違いなく父の実子ではない不安の中にいる。

 この不安はさまざまに形を変えて漱石サーガの中で繰り返されてきたものだ。

 ササハラに棄てられる吾輩、両親に愛されない「おれ」、母親の声を出す蒼ぶくれの婆さんを見下ろす『声』の三郎、そして捨て子かもしれない健三。

 長野一郎は形式的には家長として存在しながら、その存在の曖昧さに悩み苦しんでいる。つい話を盛りがちなHさんの手紙は信用ならないが、Hさんの手紙には二郎のことは一言も書かれていなかった。一郎の頭を取り巻いている雲はむしろ取り払うべきではないかもしれない。

 だって文学の第二の目的は幻惑だから。


いいなと思ったら応援しよう!