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やり直しの日本近代文学

前書き それ本気で言ってます? よく調べましたか?
1 「一郎の三択」は存在しない
 「一郎の三択」は小宮豊隆、江藤淳、柄谷行人となし崩しに継承された
 存在するのは一択 マルクス思想に利用された「明治のインテリ批判」
 
2 『行人』は分裂したか
  縦糸はお貞の結婚 アンチトリックスター三沢 役に立たないお使い
  余ったネジ 梅は無意味 重箱の出どころ テレパシー
3 健三は捨て子か
 干支と九星のパズル 案外おばあさん 「三」の付く名前 それでも母はいる 年齢が合わない一郎、三四郎、「おれ」、「私」
4 『三四郎』は摩訶不思議
 野々宮の探し物 檜が不愉快 鼻緒の色が違うわけ 美味いと言わない三四郎 淀見軒はアールデコ 羊が二匹 三四郎は背が高い?
5 『坊っちゃん』はでたらめ
 延岡は海のそば 贔屓される兄 清実母説の不可能性 制裁は誤爆 不浄の地? 街鉄の技師になってから 『野分』での種明かし
6 『こころ』を読めないという根本的な問題
 「私」は何を書いているのか すがすがしい冒頭 不要領なのは何故か BL説の人は最後まで読み通していない Kは姓ではない Kのお祝い
7 いまさら読み返す『山月記』
 そもそも何故この題 虎が喋るのは誰も見ていない 此夕溪山對明月 若くして名を虎榜に連ねた李徴が虎になる 醉はねばならぬ 詩人ばかり?
8 『羅生門』について質問してもいいですか?
 なぜリストラ?  抜刀術はいつ身に着けた? 死体は誰がどうやって運んだ? 下に臭気は漏れないか? そもそもなぜ教科書に?
9 『あばばばば』で卒論の前に
 保吉物は回顧の形式で失われたものを描く 何故オランダ それは津波に飲み込まれた いつ妊娠? それは誰の子? 劣性遺伝 
10 ミスか狙いか
 お釈迦さまは悟っていない 「荘子」と「韓非子」の取り違え クリスマスはキリストの誕生日? 明治二十八年に陸軍一等主計はいない
11 愉快な太宰治
 わんわんの系譜 芥川にも遠慮がない 罵倒名人 実朝は面白いから好き 『人間失格』の笑いのツボ 三島由紀夫との因縁
12 しつこい鴎外 
『興津弥五右衛門の遺書』から『高瀬舟』まで 時空はゆがむ むなぐるまと極北の史伝文学 鴎外のユーモア
13 大谷崎ができるまで
 億兆の国民 南朝幻想 敢えて書かない・書けない 太ももはどうでもいい 緞帳芝居 何かが隠れている 『美しい星』が理解できる年寄り
14 岩波書店さん大丈夫ですか?
 二十三日の祝捷会は奉天占領祝捷会 天高海濶? 「君不相変らずやってるな」は「感投詞」ではない 
 あとがき 近代文学2.0のために

やり直しの近代文学」まえがき

それ本気で言ってます? よく調べました?

 江藤淳が間違っていることに気が付いたのはそんなに昔のことではない。そもそも間違っているかどうかというようなことなど考えず、ただ面白く読み流していたということか。しかし漱石没後百年を記念したムック本が次々刊行されていた時期にふと、「おや、この人は夏目漱石が読めていない。この人もだ」と気が付き、手に入る限りの夏目漱石論を図書館で取り寄せて片っ端から疑いの目で、間違っているかどうか確認してみた。
 結果として誰一人夏目漱石作品を正しく読めている人は見つけられなかった。
 しかしそもそも間違っているということはどういうことか。多様な解釈の可能性があるのではないかと自問しながら、その確認の作業はついに岩波書店の『定本 漱石全集』の註解を校正するという、いささかまともではない作業にまで至った。註解を校正するとはさすがに無理があるのではと思ったが、実際に註解は間違っていた。それ本気で言ってます? よく調べました? ということが平然と書かれている。
 当然漱石論者の中にも2019年版の『定本 漱石全集』の再読、精査に至って自著の書き直しを済ませた人も見受けられないことから、誰にケンカを売るという魂胆も何もなく、ただひたすらに意味のある作業として日本近代文学のやり直しを始めたいと思う。そもそもお前は何の資格があってそんなことを書いているのかと問われれば、いつも私の答えは同じだ。書く資格は、書いている文章そのものの中にある。
                       小林十之助

1 「一郎の三択」は存在しない

 「一郎の三択」は小宮豊隆、江藤淳、柄谷行人となし崩しに継承された
 存在するのは一択 マルクス思想に利用された「明治のインテリ批判」

 夏目漱石の『行人』はとくに「塵労」の章における長野一郎の苦悩を巡って様々に論じられてきた。その典型的な採り上げられ方が「一郎の三択」である。その原型は漱石の一番弟子、小宮豊隆によって作られた。

然も一郞は、そのあまりに過大な要求を抱いて、父に對し母に對し、弟に對し妻に對し、世の中に對した結果、「死ぬか、氣が違ふか、夫でなければ宗教に入るか。僕の前途には此三つのものしかない」といふ、ぎりぎりの所まで押し詰められて行くのである。

『漱石の芸術』(小宮豊隆 著岩波書店 1942年)

 これがその原型であるとして、まるで『行人』という作品を読み返しもしないで「一郎の三択」を継承した一人に江藤淳がいる。なんと書いているかは各々ご確認いただきたい。

 ぼく(柄谷)の説では、漱石の『こゝろ』で死ぬKは、(北村)透谷と西田(幾多郎)の二人に対応する。Kみたいな理想主義者は、すべてを自己に還元して、欲望を断とうとする。現世的なものを全部否定する。しかし、これは破れざるをえない。すると、漱石の『行人』の一郎が言うように、宗教か自殺か狂気しかない。これが明治のインテリの問題だった。

(『近代日本の批評・明治大正篇』福武書店、1992年 括弧内小林)

 これが殆ど柄谷の説ではなく、小宮豊隆から始まり、江藤淳によって固められた「一郎の三択」という見立てであることをあなた自身が確認したとき、その瞬間からしか「やり直しの日本近代文学」は起動しない。 
 確かに『行人』には、こういう台詞がある。

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
 兄さんははたしてこう云い出しました。その時兄さんの顔は、むしろ絶望の谷に赴く人のように見えました。

(夏目漱石『行人』)

 しかしその直後、引き続いて、 

「しかし宗教にはどうも這入れそうもない。死ぬのも未練に食いとめられそうだ。なればまあ気違だな。しかし未来の僕はさておいて、現在の僕は君正気なんだろうかな。もうすでにどうかなっているんじゃないかしら。僕は怖くてたまらない」

(夏目漱石『行人』)

 このようにすかさず選択肢が二つ消され、一つに絞られている。すかさずなのだ。これを無視して、まるでそこで一旦話が途切れたかのように、「漱石の『行人』の一郎が言うように、宗教か自殺か狂気しかない。」と切り取ってしまうのは単なる誤読に過ぎない。 
 一郎や漱石自身に明治のインテリを代表させる議論は山ほどある。

「彼岸過迄」には、明治末期のインテリゲンチア乃至主我的自由主義者の置かれた社會的な位置と、其處から感得させられた彼等の焦慮や苦悶が、隨分鮮かに摑み出されてゐる。

『近代日本の作家と作品』(片岡良一 著岩波書店 1948年)

 このインテリの苦悩という見立ては便利なもので社会的な位置づけとしてのインテリというものは、芥川に対してまで用いられた。

 沒落インテリゲンチヤの代表の感ある芥川龍之介も秘かに社會主義を研究して、之を肯定して居たのであります。これは「澄江堂日記」中火渡りの行者と題して次の如く述べて居るのでも判ります。

『校友会雑誌等の出版物に現れたる中等諸学校生徒の思想傾向』(文部省学生部 1932年)

 最終的に漱石は自殺もせず、宗教にも入らず、気も狂わなかったので、都合よく自殺した芥川にインテリの責任が押し付けられたような話になってしまっている。

 いつか、公會堂の公開辯論會で、志賀は芥川龍之介の批判をやつた。
 インテリゲンチヤの苦惱と社會的矛盾を指摘して、いはゞ時代が課したかゝる自殺の必然性に觸れたものだつたが「かうした矛盾が止揚されない限り、今暫らくは第二、第三の芥川龍之介が續出するであらう」といつた時には、池の水面に石を投じたやうに、拍手が擴つた。

『南溟寮史 高知高等学校南溟寮々史』高知高等学校南溟寮々史編纂部 1933年

 こうしたマルクス思想にかぶれたような議論は本当に山ほどある。しかし元をたどればインテリゲンチヤの苦惱と社會的矛盾などそもそも一郎にはなく、ただ「正気なんだろうかな」という不安があるだけだ。ところが家族との関係における圧迫を前提にした小宮の「一郎の三択」が、社会に対するインテリの苦悩に置き換えられて、もっともらしく話がすり替えられた。そしていかにももっともらしい議論が山ほど出来上がり、そして現在でも素朴な一読者が何の悪気もなく「一郎の三択」を見出してしまうというおかしな現実がある。
 しかしシンプルな結論は先に書いてしまっている。「一郎の三択」はない。

2 『行人』は分裂したか

  縦糸はお貞の結婚 アンチトリックスター三沢 役に立たないお使い
  余ったネジ 梅は無意味 重箱の出どころ テレパシー

 夏目漱石作品に関しては、「読書メーター」などのウエブサイトを通じて、多くの一般人の感想も読んできた。実際に「一郎の三択」の見立てにそった感想も見られたが、最も多い『行人』の感想は、
①「塵労」に分裂を見出し
②哲学小説に主題が転じている
 ……という小宮豊隆の解説通りの見立てだ。

 実際小宮の解説通り、夏目漱石は体調不良から『行人』の連載を中断しており、「塵労」の中でもかなりの割合を占める「Hさんの手紙」には二郎は参加できないことから、「塵労」の部分だけ雰囲気が違うという感想そのものは決して間違いというようなものではない。
 しかし問題は柄谷行人のように、漱石作品はすべて主題が分裂している、と云った乱暴な見立てによってあらすじを理解することさえ放棄してしまうことである。この『行人』のあらすじという点に関して、私はこれまでまともに論じられたものを目にしたことがない。
 少しく皮肉な言い方をしてしまえば、みな少なくとも「ネジが一本余っている」のである。そこを具体的に言えば「二郎と直が以前から知り合い」という設定を捉え切れていないのだ。
 まず『行人』の縦糸が「二郎が直と結ばれること」でもなく「一郎が狂うこと」でもないことは明らかだろう。縦糸はあくまでお貞の結婚である。その縁談のために二郎は(遊びを兼ねて)大阪に佐野に会いに行ったのであり、一郎は最後まで嫁に行ったお貞のことを気にしている。勿論このお貞の結婚は物語の縦糸であり主題ではない。
 物語の主題としては父親の「いいかげんなお使い」が二郎によって繰り返され、お貞が佐野にもらわれて行き、お重の縁談が進まず行き遅れることだ。そして書かれていない部分で、「二郎と直が以前から知り合い」という設定の中で、一郎と直の縁談の際にも両家の間で、二郎がいいかげんなお使いをしていただろうという書かれていない裏の筋が見えてくる。この「いいかげんなお使い」が『行人』の主題であり、『行人』の意味でもあろう。そういう意味においても『行人』の主人公は二郎である。
 このことが分かりにくいのは三沢というアンチ・トリックスターが「ぐずぐず」として筋を運ばせないからだ。三沢は最終的にお重を行き遅れにするキーマンとなる。しかしそれだけではない。三沢は一郎と対になり、愛というものに対して一つの哲学を示してもいる。山を呼び寄せることが哲学なら、頭のおかしい女の死体に接吻することも哲学である。
 また『行人』においては梅の扱いが見事だと思うがこのことも誰も指摘しない。

「男は厭になりさえすれば二郎さん見たいにどこへでも飛んで行けるけれども、女はそうは行きませんから。妾なんかちょうど親の手で植付けられた鉢植のようなもので一遍植えられたが最後、誰か来て動かしてくれない以上、とても動けやしません。じっとしているだけです。立枯れになるまでじっとしているよりほかに仕方がないんですもの」

(夏目漱石『行人』)

 この「誰か来て動かしてくれない以上」という淡い期待を直はどこかで持っていた。

 自分が番町へ行ったとき、彼女は「二郎さんの下宿は高等下宿なんですってね。お室に立派な床があって、庭に好い梅が植えてあるって云う話じゃありませんか」と聞いた。しかし「今度拝見に行きますよ」とは云わなかった。自分も「見にいらっしゃい」とは云いかねた。もっとも彼女の口に上った梅は、どこかの畠から引っこ抜いて来て、そのままそこへ植えたとしか思われない無意味なものであった。

(夏目漱石『行人』)

 植え替えられた梅など無意味だと二郎は突き放す。一郎に直を植え付けた責任の一端は二郎にもあると理解したうえでこそ、この梅の扱いには味わいがあろう。ただし直は直で一筋縄ではいかないところがあり、二郎の実家から持たせた牡丹餅のお重を自分の実家から持たせたように二郎が勘違いするとそれを放置し、久々に実家を訪れた二郎に「おかえりなさい」ではなく「いらっしゃい」と云い客扱いをする。それでいて二郎とは二度テレパシーで交信する。「クッション」と「折檻」でテキスト検索をするとそのテレパシーの場面が見つかる。「クッション」は「兄」の章、「折檻」は「塵労」の章にある。テレパシーという文字は確かに「塵労」の章ではじめてあらわれるものであるが、事象としては既に「兄」の章にあった。『行人』の最初の一文字は「梅」である。

3 健三は捨て子か

 干支と九星のパズル 案外おばあさん 「三」の付く名前 それでも母はいる 年齢が合わない一郎、三四郎、「おれ」、「私」
 どういうわけか夏目漱石の『道草』は自伝的私小説として読まれている。そのことからさして仕掛けが詮索されないのだが、どうも繰り返し年が確認されるので気になって調べてみるとおかしなことに気が付いた。

 姉は黄色い疎らな歯を出して笑って見せた。実際五十一とは健三にも意外であった。
「すると私とは一廻以上違うんだね。私ゃまた精々違って十か十一だと思っていた」
「どうして一廻どころか。健ちゃんとは十六違うんだよ、姉さんは。良人が羊の三碧で姉さんが四緑なんだから。健ちゃんは慥か七赤だったね」
「何だか知らないが、とにかく三十六ですよ」
「繰って見て御覧、きっと七赤だから」
 健三はどうして自分の星を繰るのか、それさえ知らなかった。年齢の話はそれぎりやめてしまった。

(『道草』夏目漱石)

 この姉の発言は干支と九星のパズルを形成し、矛盾する。そのような組み合わせはあり得ないのだ。
  一八五一年 嘉永四年 辛亥 五黄 一六歳差
   一八五二年 嘉永五年 壬子 四緑 一五歳差
   一八五三年 嘉永六年 癸丑   三碧 一四歳差
   一八五四年 安政一年 甲寅 二黒 一三歳差
   一八五五年 安政二年 乙卯  一白 一二歳差
   一八五六年 安政三年 丙辰 九紫 一一歳差
   一八五七年 安政四年 丁巳 八白 一〇歳差
   一八五八年 安政五年 戊午 七赤 九歳差
   一八五九年 安政六年 己未 六白 八歳差
   一八六〇年 万延一年 庚申 五黄 七歳差
   一八六一年 文久一年 辛酉 四緑 六歳差
   一八六二年 文久二年 壬戌 三碧 五歳差
   一八六三年 文久三年 癸亥 二黒 四歳差
   一八六四年 元治一年 甲子 一白 三歳差
   一八六五年 慶応一年 乙丑 九紫 二歳差
   一八六六年 慶応二年 丙寅 八白 一歳差
   一八六七年 慶応三年 丁卯 七赤
   一八六八年 明治元年 戊辰 六白

 このパズルから導き出される答えは、
・姉の発言と十二支と九星から考えて、姉は自分が十五歳の時に健三が生まれたという記憶を持たない
・つまり姉は健三の本当の姉ではない。
・また比田はいい加減な嘘つきである可能性が高い。
・「実父」に可愛がられていることから姉は本当の子であり、健三はよそで生まれた子、あるいは捨て子である可能性が高い
 こういうことになる。しかしこれは何も驚くべきことではない。そもそもこうした家族への疑いのまなざしというものは『吾輩は猫である』以来繰り返されてきたものだ。『坊っちゃん』では、

 すると婆さんはそれだから好いご気性ですと云っては、嬉しそうにおれの顔を眺めている。自分の力でおれを製造して誇ってるように見える。少々気味がわるかった。

(夏目漱石『坊っちゃん』)

 このようにかなりきわどい形で清をまるで実の母親のように仄めかしている。このことは後に『硝子戸の中』によって明かされる通り、実際に実母に会った時おばあさんだと思ったというトラウマのようなものの表れであろう。それが殆どトラウマのまま表現された作品に『永日小品』の『声』がある。

その時窓の前の長屋の方で、豊々と云う声がした。その声が調子と云い、音色といい、優しい故郷の母に少しも違わない。豊三郎はたちまち窓の障子をがらりと開けた。すると昨日見た蒼ぶくれの婆さんが、落ちかかる秋の日を額に受けて、十二三になる鼻垂小僧を手招きしていた。がらりと云う音がすると同時に、婆さんは例のむくんだ眼を翻えして下から豊三郎を見上げた。

(『声』夏目漱石)

 母親が母親でないという設定は『彼岸過迄』においては須永市蔵の出自の秘密としてあからさまにドラマを形成した。しかし健三はあくまでも気が付かない。 
 この健三が夏目漱石の自己投影であることは否定できない。豊三郎も教師であるのでやはりいくらかは自己投影の産物であろう。名前に付けられた「三」という数字は、さかのぼれば夏目彌郞信賴に連なる。夏目家の「直」は夏目四兵衛情、夏目四兵衛晴、夏目小兵衛克、夏目道、夏目小兵衛基、夏目小兵衛克と受け継がれてきた。その「直」の字をもらえなかった漱石は、どこかで遠い祖先と繋がっていたかったのではないか。
 例えば『それから』の代助は「誠」の字をもらえない非嫡男である。これもまた漱石のトラウマと云ってもよいかもしれない。
 ところで『行人』の一郎の年齢が合わないという問題に気かついている人がいるだろうか。『坊っちゃん』の「おれ」は物理学校を三年のストレートで卒業するが教師として赴任する際の履歴書には二十三年四か月と書かれるし、『三四郎』の三四郎も与次郎も大学入学時に何故か二十三歳だ。逆に『行人』では二郎以外の年齢は皆曖昧で、一郎も何歳と示されない。しかし計算してみるとどうもおかしいのだ。
・一郎の父親は精々五十一歳。
・父親の二十五六年前の昔話に妻子の気配はない。
・一郎が父親の実子である可能性は低い。
・そのぼんやりとした不安を一郎は二郎に「お前はお父さんの子だね」と奇妙な言い回しでぶつける。
 さらにおかしいのは『こころ』の「私」で、自分の年齢が答えられない。これはトラウマでも捨て子という設定でもなく、「あたかもKの生まれ変わりのように仄めかされている話者が、生まれたのが早すぎる」という単なる矛盾であろう。『三四郎』では野々宮が本当の父親かと仄めかされるような謎のロジックが表れるが、二人はせいぜい七歳差しかないのでこれは不可能である。しかし『こころ』ではKの許しがなくては先生の罪が消えないので、不可能では困る。困るので仕方なく『明暗』では「生きたままの生まれ変わり」という屁理屈を持ち出してきた。
 勿論何が何でも整合性がなくてはいけないとは考えなかったようで、『明暗』のお見合いの席の並びは、不可能なパズルになっている。

4 『三四郎』は摩訶不思議

 野々宮の探し物 檜が不愉快 鼻緒の色が違うわけ 美味いと言わない三四郎 淀見軒はアールデコ 羊が二匹 三四郎は背が高い?
 なかなか言われないことだが、広告の宣言に反して『三四郎』は摩訶不思議な作品である。解らないことだらけで、どこから手を付ければいいのか解らないくらいだ。あるいはその受容のされ方こそが解らないと言えなくもない。
 例えば池に捨てられる白い花は野々宮から美禰子にリレーされ、三四郎が拾って捨てたものではないかと云われる。しかし既に髪に花を挿している女に花を渡すだろうかと疑問である。そしてその後の野々宮の探し物が何なのかまるで解らない。解らないはずだが、誰もそこを突き詰めようとはしない。
 檜が不愉快とはどういうことかとも問われない。美禰子の下駄の鼻緒の色が左右で違うと書かれているのに、誰も「案外倹約家なのか」とは考えない。
 三四郎は美禰子が作ったサンドイッチを食べてさえ、味の感想を一言も言わない。それくらいスルーされている。
 何ならストーリーさえあやふやだ。よくよく読むと、三四郎が美禰子を振ったのか、野々宮が美禰子をふった後に三四郎がたまたま割り込もうとして賺されたのか、その「恋愛関係」そのものがよくわからないように書かれている。三四郎のよし子に対する感情も解らない。
 ただよく読めばわかることで岩波書店の註釈でも漏らされていることがある。
 その一つが淀見軒はアールデコであるということだ。こうした事実はまもなく完全に解らなくなるので、今正確に記録しておかねばならない。佐々木与次郎は『三四郎』の中ではトリックスターを引き受けていて、淀見軒をヌーボ式、と知ったかぶりをして、バークレーとカントの主義をあべこべに聞き取る。その勘違いしやすい性質が、最後に「美禰子とよし子が同じところに嫁に行く」という勘違いとして現れる。
 また淀見軒は女給を置かない硬派な店で、そこで与次郎にライスカレーをおごられたのは三四郎一人ではない。そこでうっすらとホモ疑惑が仄めかされていたところ、案外佐々木与次郎にも経験があり、別れた女がいたという落ちもある。このアールデコや硬派というニュアンスは『三四郎』を読むうえで欠かせないものだ。
 またストレイシープに関する註解も十分なものではない。既に江藤淳が研究生から指摘されてうっすら言及していることながら、美禰子の「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」という台詞は「見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました」を意識しており、美禰子は不義の子という暗示がある。マタイ伝でもルカ伝でも一匹なのに絵葉書に描かれる羊は二匹だ。そしてサタンではなくデビルと書き、美禰子を会堂(チャーチ)に通わせるなどと細工が細かい。
 しかし何といっても『三四郎』は徹底的に色を隠しながら、色の出し方がなかなか洒落ていますね、と落とされる話だ。その絵のモデルは三四郎にとっては「池の女」なのに絵の題は「森の女」とされてしまう。このあべこべが悪戯好きの漱石の狙いであることは言うまでもない。
 そしてかなり中途半端に議論されているのが三四郎の身長だ。わざわざ銭湯で身長を測る場面があり、五尺四寸五分の身長に対して、

「まだのびるかもしれない」と広田先生が三四郎に言った。
「もうだめです。三年来このとおりです」と三四郎が答えた。

(『三四郎』夏目漱石)

 と三四郎はいかにも自分の身長に不満げである。この五尺四寸五分の身長に対して「当時としては低くない」という妙な擁護の声があるが問題はこの場面である。

「あなたを愚弄したんじゃないのよ」
 三四郎はまた立ちどまった。三四郎は背の高い男である。上から美禰子を見おろした。

(『三四郎』夏目漱石)

 この場面では明らかに三四郎の身長が伸びている。「当時としては低くない」どころかどころか「背の高い男」になっている。ここは様々に解釈の出来るところではある。ただわざわざ身長を測らせて「もうだめです」と云わせておいて「上から美禰子を見おろした」はふざけすぎであろう。『虞美人草』からして、読者の記憶力を試すように登場人物の名前を遅く登場させ、フルネームを家族関係の中から読み取らせるようなパズルを仕掛けてきた漱石は、迂闊な読者を揶揄うようにあちこちに細かい遊びを入れてくるようになった。三四郎の身長もその遊びの一つだ。

5 『坊っちゃん』はでたらめ

 延岡は海のそば 贔屓される兄 清実母説の不可能性 制裁は誤爆 『野分』での種明かし 不浄の地? 街鉄の技師になってから 
 夏目漱石という作家の誕生までの歴史を振り返ってみるとまず「熊本に漱石あり」と言われた俳人としての漱石がある。そして岩野泡鳴が『倫敦塔』などで認めた現在法の使い手としての漱石がいる。『趣味の遺伝』までの漱石は、明らかに摩訶不思議で幻想的な作家であった。主人公が今どこで何をしているのかが怪しい書き方をしていた。『坊っちゃん』は、そうした幻想的な作家漱石が、あまり深く物事を考えないという珍しい主人公を考え出して、比較的落ち着いたリアリズムで書いた作品である。
 従って『坊っちゃん』という作品の醍醐味は、主人公が気が付かないところを笑ってやることではないかと思うのだが、読者の方が主人公より気が付かないという頓珍漢な事態が起きている。
 例えば海辺の町延岡が山奥のように描かれる。主人公の勘違いだ。中学校には地図位あるだろうし、地理を知らないで教師になれるというのもおかしな話だ。しかしそもそも物理学校を三年のストレートで卒業しながら中学赴任時には「二十三年四か月」になっているからくりを気にも留めないない読者は、「おれ」の親が無鉄砲でもなく、損ばかりしている訳でもなさそうなことに気が付かない。損ばかりしていれば働かないで生活はできまい。
 その位ぼんやりしていると依怙贔屓も見えない。「おれ」は清に蕎麦湯や鍋焼饂飩を買って貰う。満足に食べていれば余計なものだ。風邪で寝てたのではなかろうか。命より大事な栗の木は「おれ」のひもじさの表れであろう。
 
 そして多くの人が大発明のように「清実母説」を振り回す。『彼岸過迄』の須永市蔵の出生の秘密を鑑みれば、ない話ではないようにも思える。しかしよくよく考えてみれば、須永市蔵の実の母は金を渡されて里に帰されている。「清実母説」が本当に漱石の意識の中で設定として存在したのなら、母親と清との理由の解らない軋みのようなものがあるべきたろう。勿論「おれ」の無鉄砲が親譲りではないという仄めかしはある。仄めかしはあるが、事実には至らない、そういう曖昧さというものがあると見做すべきではなかろうか。
 じつはそういう曖昧さは他にもあり、山嵐との共謀による赤シャツらに対する鉄拳制裁は誤爆、赤シャツと野だはホモセクシャルな関係にあると匂わされているように読める。さらに実は山嵐が裏で生徒を扇動していたのではないかという疑惑が『野分』を読むと湧いてくる。しかし『坊っちゃん』を読み直すとどうもそんな感じがしない。『野分』を読むと山嵐が怪しい……。このあたりの事実がどちらかということは、一概に決めづらい。目の前で起きていることながら何が真実なのかはわからない、そういう「幻惑」を文学の二番目の目的としてた漱石らしさが表れているところであろう。
 そして『倫敦塔』に見られたような本人が完全に制御しきれているとは思えない言葉も飛び出す。「不浄な地」は制御された言葉とは思えない。「日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろう」などという言葉は「おれ」が坊ちゃんと揶揄われていたから、「どんどこ、どんのちゃんちきりん」や「鈴ちゃん僕が紀伊の国を踴おどるから、一つ弾いて頂戴と云い出した」にかかる洒落であろう。ただし「こんな奴は沢庵石をつけて海の底へ沈めちまう方が日本のためだ」というような感情は書かれている内容からは明らかに過剰な怒りであり、少々真面ではない。『坊っちゃん』はそういう作品でもあるという認識も必要である。
 国語の問題としては『坊っちゃん』には街鉄の技師になってからの生活も少しは書かれているというところを見なくてはなるまい。

この三年間は四畳半に蟄居して小言はただの一度も聞いた事がない。喧嘩もせずに済んだ。おれの生涯のうちでは比較的呑気な時節であった。

(『坊っちゃん』夏目漱石)

 こう語られている現在は既に街鉄の技師になってからのことなので、街鉄の技師になっても喧嘩などはあったのだろう。

なるほど碌なものにはならない。ご覧の通りの始末である。行く先が案じられたのも無理はない。ただ懲役に行かないで生きているばかりである。

(『坊っちゃん』夏目漱石)

 ただし懲役にはいかない赤シャツへの鉄拳制裁のようなことまでには至っていないようだ。しかしこの書かれている現在に辿り着いている人は一人として見かけない。

6 『こころ』を読めないという根本的な問題

 「私」は何を書いているのか すがすがしい冒頭 Kは姓ではない 不要領なのは何故か BL説の人は最後まで読み通していない  Kのお祝い
 結末が暗かった、この後「私」はどうなるんだろう……そんな中高生の感想が無限にあふれる夏目漱石の『こころ』に関してはこれまでのところ、あら筋や設定でさえキチンとつかめている人が存在しないと言っていいだろう。実際どこからどう解きほぐせばいいのかと迷ってしまう。
 まず「結末が暗かった」という人は冒頭を忘れているか読んでいない。冒頭は先生の遺書の後にある。『坊っちゃん』の「おれ」の現在が街鉄の技師の生活の後(あるいは最中)にあることが理解できない人は、やはり先生の死後数年たって今でも先生を尊敬している「私」が今やまるで新聞連載の小説でも書くようにして先生の手記を公開しているという物語構造が理解できていない。そこが解れば、なんやかやあって、「私」は先生の過去を受け入れ、なお作家として身を立てるまでになったというところまではぼんやりとつかめるであろう。
 この作品は長らく高校の教科書に採用されてきたので、多くの国語教師が読み、多くの高校生が読まされてきた。しかし残念ながら正しく読まれたことはただの一度もなかった。
 まずKを名字と誤解している点で、島田雅彦、高橋源一郎らが脱落する。その誤りが指摘できない時点で佐藤裕やお斎藤なんとかという東大の人の読みも怪しい。そしてさらに厳しいことを言えば、彼らの本を出版した編集者や、その本を読んで疑問に思わない読者も同罪だろう。このくくりなのかに大半の読者が収まることは想像に難くない。
 次に指摘すべきは「私」が先生に近づく理由である。江藤淳はこれを「なんとなく」と説明してしまう。実に多くの人がこの程度にしか読めていない。そうでない人はここに同性愛を持ち込む。それはあくまで「ふり」であり、先生の誤解であることは先生の遺書で明らかなのに、ついそう読んでしまう。書かれていることから正解を導けばそれは「懐かしみ」である。
 ここが理解できれば、年齢的にあり得ないことながら「私」があたかもKの生まれ変わりのように仄めかされていることにも気がつけるであろう。「懐かしみ」が解らなければ「私」はただの中年男妙な執着のある青年になってしまう。
 問題はKの没年と「私」の年齢の計算が合いそうにないことだ。つまりKが死んでから生まれ変わるのだと間に合わない。従って「私」は年齢を答えられない。

 ただ私の顔を見て「あなたは幾歳ですか」といった。
 この問答は私にとってすこぶる不得要領のものであったが、私はその時底そこまで押さずに帰ってしまった。

(『こころ』夏目漱石)

 二歳児でも「にちゃい」と答えられる。ここには言わば漫画的な矛盾とごまかしがある。それは笑ってもいいが見逃してはならないところてある。
 大体ここまでのところが理解できている人はいない。皆ホモセクシャルに拘泥したり、妙なところに感動して、Kの許しがなくては先生の罪は消えないという『こころ』を読むうえでの大きなロジックを見逃している。BL説の人は最後まで読み通していないだけではなく、都合よく読んでいるのだろう。それは学校教育において読書感想文が「自分のことを書くものだ」と教えられてた結果ではなかろうか。

記憶して下さい。私はこんな風にして生きて来たのです。始めてあなたに鎌倉で会った時も、あなたといっしょに郊外を散歩した時も、私の気分に大した変りはなかったのです。

(『こころ』夏目漱石)

 BL説の人はここを記憶しない。
 ただBL説の人はごく一部で、その他大勢は単に自分の好きなように詠んでいるだけだ。実際西枕の意味も小刀細工の意味も様々に解釈できる。そのように書かれている。私もKの死は、お金がなくてお祝いがあげられないというKのお祝いだと解釈している。そこは様々に解釈されていい。
 ただ明確に書かれていることはキャッチしなくてはならない。作中に乃木大将の殉死というものが描かれ、先生は自殺し、「静」は生かされることである。「静」は生きている。乃木静子は殺された。乃木大将は妻静子が生きる前提で遺書を書いている。しかし静子は殺された。夏目漱石はその問題を糾弾しない。ただ「静」は生かされた。
 生きている静と、「私」の関係、そして静が生きている間は過去を秘密にしたという先生の遺志と現に「私」が手記を書いている様子であることの関係はなかなか整理しがたいものらしい。このパズルには、先生の過去のある一時期の様子を当てはめると、素朴な答えが見つかるだろう。先生は力の及ぶかぎり懇切に義母を看護する。きっと浣腸もしただろう。そういう状態になれば、つまり静が「私」に看護されていれば、もう新聞小説を書いても良かろう。妻の看護をした江藤淳がここに気がつかなかったのはむしろ不思議である。

7 いまさら読み返す『山月記』

 そもそも何故この題 此夕溪山對明月 虎が喋るのは誰も見ていない  若くして名を虎榜に連ねた李徴が虎になる 醉はねばならぬ 詩人ばかり?
 中島敦の『山月記』も長らく教科書に作用されていて、教師の側も詳細なあんちょこ本が配布されており、少々小難しい漢詩の訓も含め、教える側、教えられる側でみっちり準備が整い、そこにいまさら「こんなことがわからない」という余地などけしてあるまいとおもわれているのではなかろうか。
 そう思われている方に質問したい。そもそもこの作品はどうして『山月記』という題名なのかと。あんちょこ本にはその説明はなかろう。さてでは「山月記」をなんと訓ずるか。明月記す、上月記すという表現はあるが、この「月」は天体ではなく暦の月のことである。では「山月記」とは? 「残月記」ではいけない理由とは? 此夕溪山對明月都と詩には詠まれるが地の分ではすかさず残月と引き取られている。
 少なくともこの題は作品の主題を離れ、ただ何となく添えられていて、誰にも省みられるものではないようだ。
 しかし中味の方はもうみっちりと研究されているのかと思えばそうでもないらしい。まずこの話は「李徴が虎になった」ことが前提に読まれているようだがよく読むと虎がしゃべるところは誰も見ていない。「その声は、我が友、李徴子ではないか?」という有名な台詞でそのあたりの曖昧さがどこかへ行ってしまっている。本当は李徴は虎にはなっていないのではないかという視点での読みが見られないのは残念なことだ。
 そもそも人間は虎にはなれない。比喩として「虎のごときもの」になれるだけだ。純粋に冗談として虎になれるのであり、人間は実際には虎には変身できない。あくまで比喩として若くして名を虎榜に連ねた李徴が虎になるというふりと落ちがあるだけなのだ。そしてよくよく注目して読めば、

酔わねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の声が言った。

(『山月記』中島敦)

 酔うことと虎になることが重ねられていて、酔って虎になること、大虎になること、という比喩そのままのロジックも働いていることが解るだろう。つまり李徴はあくまで比喩的に虎になっているのではなかろうか。
 しかし酔っているのは李徴ばかりではあるまい。何百万人もの知ったかぶりが『山月記』の話になると名作だともてはやすが、そんなおっちょこちょいが作中で揶揄われていることに誰も気が付かない。

時に、残月、光冷ひややかに、白露は地に滋しげく、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。人々は最早、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄倖を嘆じた。李徴の声は再び続ける。

(『山月記』中島敦)

 中島敦は薄幸である。存命中はあまり評価されなかった。しかしこの場にいた役人たち全員がこの詩人の薄倖を嘆じるほどの教養があれば、李徴の薄幸などはそもそもなかったはずなのである。人が好いと褒めるから褒める程度のぼんくらどもが何をこの詩人の薄倖を嘆じるだ、どあほうめが、と今でこそ中島敦は言いたいのではなかろうか。そんなに都合よく詩人ばかりが集まることはない。そこは中島敦が身に染みて知っていたことではなかろうか。だから酔っ払いの詩人にへたくそなへたくそな詩を詠ませてみた。
 へたくそな詩? と思われた皆さん、作中の詩どこがいいんですか?
 比喩として虎になった李徴に感動しているぼんくらを揶揄うために、虎は再び姿を見せる。

 一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地を眺ながめた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。

(『山月記』中島敦)

  比喩かと思えば虎はいた。このちぐはぐが『山月記』の遊びであろう。

8 『羅生門』について質問してもいいですか?

 なぜリストラ?  抜刀術はいつ身に着けた? 死体は誰がどうやって運んだ? 下に臭気は漏れないか? そもそもなぜ教科書に?
 芥川龍之介の『羅生門』も長く教科書で扱われてきた作品である。何千万人もが読んできただろうし、今更そこに謎があろうはずもない、と思われていないだろうか。しかし私にはわからない。例えば疾病により荒廃した都にリストラされた下人、失われた三十年の現在においてこそ何の違和感もなく受け入れられる存在ではあるが、なぜ彼はリストラされたのであろうか。
 現代で考えれば、全く無能であるか、組織の枠組みの中で疎外された、うまく上司に取り入ることができなかった、というあたりが原因となるだろう。下人の言動を見る限り全くの無能とは思えない。聖柄の太刀を佩く以上それなりの戦闘力にはなるだろう。であればリストラの理由は組織になじめず、上司に取り入ることができなかったからであろう。
 彼はしばしば上司の言動の矛盾を突き、やり込めていたに違いない。いや、やり込めはしないまでも上司の言動の矛盾に気が付き、腹の中では馬鹿にしていたに違いない。力の弱い老婆にだけ厳しく当たったわけではなく、下人には何かロジカルシンキングに関するこだわりのようなものがあったのではなかろうか。
 あるいは下人という身分は最初から与えられていたものではないかもしれない。下人の刀の扱いを注意深く観察すると、

下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼の色をその眼の前へつきつけた。

(『羅生門』芥川龍之介)

 細かくは書かれていないが、左手で鞘をねじり太刀の刃を老婆の目の前に突き立てる跋刀術の基礎はできているようだ。これは簡単なようでなかなかできない。もしや下人はリストラに次ぐリストラで下人に堕ちた武士、とは言っても領主に仕えねば武士とも呼ばれまいが、ただの下人ではなかったのではあるまいか。
 それにしても何故『羅生門』は教科書に採用されたのであろうか。採用され続ける理由は教師が楽だからだそうだが、生徒は何の不満もないのだろうか。『羅生門』は実におかしな話で、どうやって死体が二階に運ばれたのかさっぱりわからない。今のところこの具体的な正解は見つからない。何かしら尋常ならざる力が働かない限り、そういう状況は生まれない。より現実的に考えると、滑車を組み、三人がかりで作業をすれば不可能ではないように思われる。しかしそのようにして大量の死体を羅生門の二階に集める合理的な理由が見つからない。ここを生徒に質問されたら、教師は一体何と答えるのだろうか。
 それに腐臭は周囲に漂うもの二階へ上った瞬間に臭うのではなく、下にも臭いは漏れてきていなかっただろうか。

 その代りまた鴉がどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄みに来るのである。――もっとも今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞が、点々と白くこびりついているのが見える。下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖の尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。

(『羅生門』芥川龍之介)

 よく読むと作者は下人が梯子を上る前から門の上に死体があることを知っている。下人も知っていた。

 上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。

(『羅生門』芥川龍之介)

 そうした共謀関係において、二階に死体があることがさも当然のように扱われている。そしてわざわざひどい臭気がする二階に昇っていくが、それは決して普通のことではない。昔の人ならしたいくらい平気だろう、などということはないのだ。リアリズムの視点では『羅生門』は成功しているとはいいがたい作品なのだ。
 しかし一番の謎は『羅生門』が教科書に採用されたことではなかろうか。『羅生門』という作品は小説としては様々な点で優れている。しかし『山月記』同様決して道徳的な話ではない。リストラされたひねくれものの屁理屈によって老婆が裸にされるという、おぞましくもわいせつな話である。老婆の罪を口で咎めるところに留めていれば道徳的には救いはあるが、手を出してしまってはもういけない。やっていることは犯罪である。
 芥川が『羅生門』における屁理屈に満足しているのは解らないことではない。芥川はひねくれものの屁理屈が大好きなのだ。しかし国語的には「これはひねくれものの屁理屈だ」と正しく認識しなくてはならない。どうもそこが解らない人が芥川の『羅生門』を教科書に採用したように思えてならない。

9 『あばばばば』で卒論の前に

 保吉物は回顧の形式で失われたものを描く 何故オランダ それは津波に飲み込まれた いつ妊娠? それは誰の子? 劣性遺伝
 下手に感想などを書かねば、誤読はばれない。書けばばれる。ひつじ書房の『卒業論文マニュアル』という本で芥川龍之介の『あばばばば』が取り扱われているとツイッターで知って、本屋で確認してみた。そして驚いた。津波にも妊娠期間にも気かついていない。保吉物を「身辺雑記風私小説」と見做している吉田精一「あなたの感想」を「先行研究」などと持ち上げ、『あばばばば』で卒業論文を書くシュミレーションをして見せる。しかしどうして作品そのものを読めていないのに、どうして『あばばばば』をどうして取り上げようとしたのか不思議である。
 しかもこの本は一人で書かれたものではない。安部水紀、荒井真理亜、小谷瑛輔、斎藤理生、佐藤希理恵、武久真士、広瀬正浩、松本和也、水川敬章、山田夏樹、𠮷田恵理、吉田竜也、禧美智章、渡邊英理、十四人もが寄ってたかって書いたものだ。
 あるいはこれか国語教育の一応の水準を満たした者たちの平均的な読解力ということになるのだろうか。

 まずはっきりさせておきたいのは吉田誠一の「身辺雑記風私小説」という指摘は完全に過ちであるという点である。『魚河岸』を除く保吉物は回顧の形式で失われたものを書くという形式を持っており、そもそも身辺雑記ではない。『あばばばば』に関しては関東大震災後に、大正五年ごろ、海軍機関学校に勤務していた時代の横須賀の景色が描かれているものと思われる。そう気がついてしまうと、

かう云ふ店の光景はいつ見ても悪いものではない。何処か阿蘭陀の風俗画じみた、もの静かな幸福に溢れてゐる。保吉は女のすぐ後ろに受話器を耳へ当てたまま、彼の愛蔵する写真版の De Hooghe の一枚を思ひ出した。

(『あばばばば』芥川龍之介)

 こうして何気なく差し出された「阿蘭陀の風俗画」に描かれた幸福が、たびたび水害に襲われて消し去られたものであろうことを思わずにはいられない。実際にこの『あばばばば』に描かれた店が実地にどこに位置し、津波にさらわれたかどうかは解らない。しかしおそらくここに描かれた物静かな幸福は津波に襲われるのだと意識しなけれは「阿蘭陀の風俗画」とは書かないたろう。あるいはここで何故「阿蘭陀の風俗画」なのかと考えないで、卒論を書けば馬鹿だし、指導する側が気がついていなければ転職したほうがいい。
 そして妊娠期間について書かないで、髪形の変化だけに注目するのもどうかしている。指を追って計算してみるといい。
 津波と妊娠期間について理解していないだけでやはり基礎からやり直しが必要だとはいえよう。
 結局女はいつ妊娠したのかもわからず、生まれてきた子も誰の子なのかはわからない。何なら女は大きなおなかを見せることもなく赤子を抱いて現れるので、厳密には母であるかどうかも定かではないのだが、そこのまあ良いとしよう。ただもし女が母であるとしたら、女は保吉の前に現れる以前から妊娠していたことになり、そこには何やら事情があったのだろうという含みがある。

 「あばばばばばば、ばあ!」

(『あばばばば』芥川龍之介)

 こうあやされる赤子が生後何か月であるのかも定かではない。ただ、こうしてあやされる意味にもいくつかの解釈が隠れている。仮にその子の父親が眇の店主であれば遺伝性斜視を心配して目の動きを確かめていたのではないかとも考えられるのだ。

――いや、猫は飼つても好いい。が、猫に似た女の為に魂を悪魔に売り渡すのはどうも少し考へものである。保吉は吸ひかけた煙草と一しよに、乗り移つた悪魔を抛り出した。不意を食つた悪魔はとんぼ返る拍子に小僧の鼻の穴へ飛びこんだのであらう。小僧は首を縮めるが早いか、つづけさまに大きい嚏をした。

(『あばばばば』芥川龍之介)

 これもまた『魚河岸』にはみられないものであるが『あばばばば』には『保吉の手帳から』に見られるようなマジックリアリズム的表現がいくつか現れる。

 保吉はこの機関兵の顔にどこか見覚えのある心もちがした。機関兵はやはり敬礼した後、さっさと彼の側を通り抜けた。彼は煙草の煙を吹きながら、誰だったかしらと考え続けた。二歩、三歩、五歩、――十歩目に保吉は発見した。あれはポオル・ゴオギャンである。あるいはゴオギャンの転生である。今にきっとシャヴルの代りに画筆を握るのに相違ない。そのまた挙句に気違いの友だちに後からピストルを射かけられるのである。可哀そうだが、どうも仕方がない。

(『あばばばば』芥川龍之介)

 こうしたふわふわした表現だけを見ても保吉物が到底平べったい現実を綴る「身辺雑記風私小説」などというものではないということが解るはずだ。あるいは『あばばばば』だけに関して言うのならば、優れて幻想的で、幻想的すぎない微妙なあわいを遊んでいる。
 設定や筋がつかめないのならば、せめて表現論として『あばばばば』の魅力を掴むくらいのことをしなくては、卒論を書く資格はなかろう。「悪魔でくしゃみのところが面白い」とさえ思わなかった人はもう芥川作品を読むのはやめた方がいい。

10 ミスか狙いか

 お釈迦さまは悟っていない 「荘子」と「韓非子」の取り違え クリスマスはキリストの誕生日? 明治二十八年に陸軍一等主計はいない
 芥川龍之介のだからなんても知っていて、書いていることは何でも正しいということはあり得ない。『蜘蛛の糸』の元ネタでは仏陀であったものがお釈迦様に改められ、そのお釈迦様が解脱している様子がないことは意図した事なのか、設定の緩さなのかどちらとも判断できない。
 ただし『歯車』における「荘子」と「韓非子」の取り違えに関しては、芥川龍之介のイージーミス、記憶違いの可能性が高いことが書簡集で確認できた。

寿陵余子は寿陵に余子あり歩を邯鄲に学ぶ未邯鄲の歩成らざるに寿陵の歩を忘る即ち蛇行匍匐して帰るとか何とか云ふ文章が韓非子にあるから拵へた号です
余子は唯青年と云ふ意味でせう
僕自身西洋を学んで成らずその内に東洋を忘れてゐる所が邯鄲寿陵両所の歩き方を学び損なつた青年に似てゐると思つたからです。

[大正九年三月三十一日 滝田哲太郎宛書簡]

 しかしやはりわざとかどうかわからないのが、『少年』において、クリスマスをキリストの誕生日と勘違いしているかどうか、である。当時のクリスチャンの知識人においてそのことは常識ではあったが、芥川はクリスチャンではない。あれだけ切支丹ものを書いてきて、クリスマスをキリストの誕生日と勘違いしていれば驚くべきことではあるが、どうも芥川は『少年』ではどちらとも悟られないように書いている。
 非常に凝った書き方がされている『奇怪な再会』にもミスなのか何なのか解らないことがいくつかある。まず、

「これは雷水解と云う卦けでな、諸事思うようにはならぬとあります。――」

(『奇怪な再会』芥川龍之介)

 この「雷水解」の解釈は間違いだが、敢えて間違えさせたのかどうなのかが解らない。敢えて間違えさせたとして、その狙いが解らない。ただ「雷水解」の文字を見ただけで、「諸事思うようにはならぬ」ではないだろうと誰でも解るはずであり、「易経」を全く見ないで「雷水解」の卦が出てくるはずもないので、わざと間違えさせた可能性が若干高いかなと思うが決め手に欠ける。
 判断ができないのは明治二十八年に陸軍一等主計という役職を置くという設定も同じだ。芥川は子供の頃海軍の士官になりたいと思っていた時期もあり、最初の就職先は海軍機関学校だ。軍隊というのは階級というものに厳しい社会なので、その末端に禄を得た以上、階級に無知だったということはあり得ないだろうと思う。しかしこちらは「わざと間違える」ということが基本的に意味のないところなので、やはり知らなかった可能性がかなり高い。
 他にもいろいろあるが、総じてこうした問題の根幹は、ミスなのか狙いなのか議論されないことなのではなかろうか。『後漢書 承宮傳』に、「過徐盛廬聽經、遂請留門下。」とあるというのは本当だろうか、と疑問を持ち調べることをしない。
 そういう傍観の構えが近代文学を涜してきたものの正体なのではなかろうか。

11 愉快な太宰治

 わんわんの系譜 芥川にも遠慮がない 罵倒名人 実朝は面白いから好き 『人間失格』の笑いのツボ 三島由紀夫との因縁
 太宰治に関してやり直すところはそうたくさんはない。太宰作品を自己戯画化として批判するのではなく、素直に笑えばいいというのが私の考えである。素直に、というのはどういうことかと云えば、

二十世紀旗手
――(生れて、すみません。)

(太宰治『二十世紀旗手』)

 このタイトルだけで何度でも笑えるのではないかということだ。「生れて、すみません」そう言いながら「二十世紀旗手」なのだからこれは笑うとかないだろうと思う。実にうまい。

 ――失恋自殺は、どうなりました。
 ――電車賃かして下さい。

(太宰治『二十世紀旗手』)

 少し文学的な話をすれば、ゴーゴリが発見した「貧乏は面白い」というアイデアをドストエフスキーが「突然借金を申し込むと滑稽だ」と定式化したようなところは確かにある。

「シーモノフ! ぼくに六ルーブリ貸してくれたまえ!」わたしはやけ半分にきっぱりといった。
 彼はすっかり度胆を抜かれて、妙な鈍い目つきでわたしを眺めた。彼もやはり酔っていたのである。

(ドストエフスキー『地下生活者の手記』)

 しかしなにもそうさがな目で見なくてもよいのではないか。芥川にしてもそういうところを突いている。

 それから一週間ばかりたった後、保吉はまた月給日に主計部へ月給を貰いに行った。あの主計官は忙しそうにあちらの帳簿を開いたり、こちらの書類を拡げたりしていた。それが彼の顔を見ると、「俸給ですね」と一言云った。彼も「そうです」と一言答えた。が、主計官は用が多いのか、容易に月給を渡さなかった。のみならずしまいには彼の前へ軍服の尻を向けたまま、いつまでも算盤を弾いていた。
「主計官。」
 保吉はしばらく待たされた後、懇願するようにこう云った。主計官は肩越しにこちらを向いた。その唇には明らかに「直です」と云う言葉が出かかっていた。しかし彼はそれよりも先に、ちゃんと仕上げをした言葉を継いだ。
「主計官。わんと云いましょうか? え、主計官。」

(芥川龍之介『保吉の手帖から』)

 太宰の名言「ワンと言えなら、ワン、と言います」は芥川由来であろう。おそらく太宰は芥川の「主計官。わんと云いましょうか? え、主計官。」という台詞のユーモアをキャッチしたのだ。
 しかし太宰の面白いところはぞっこんであるはずの芥川に対しても遠慮がないことだ。『猿蓑』を論った『天狗』では、芥川龍之介が激賞した「草庵に暫く居ては打やぶり」を無視して「佳句は少ない」とやってしまう。芥川の名前こそ出していないが、「猿簑は、凡兆のひとり舞台だなんていう人さえあるくらいだが」と書いている時点で、芥川にも芭蕉にも遠慮がない天狗であることは確かである。この遠慮のなさは川端康成や志賀直哉にも向けられる。サラリーマンのようにひたすら上にへこへこしているような人間ではないのだ。
 その罵倒名人の舌鋒は『如是我聞』『川端康成へ』で頂点を極める。ここまで人を罵倒できるかという言葉が連ねられている。そしてこの罵倒は自分にも向けられる。だから自己戯画化と云われてしまう。しかしその言葉は実に巧みで優れて文芸的なものである。

12 しつこい鴎外

 
『興津弥五右衛門の遺書』から『高瀬舟』まで 時空はゆがむ むなぐるまと極北の史伝文学 鴎外のユーモア 
 森鴎外と云えばまず文体と語彙の人として取り扱うべきであろうか。芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫とその文体の愛好者は数知れない。というより鴎外の文体と語彙の豊かさを悪く言う人はいないであろうし、そのことは近代文学1.0においても語り尽くされているので、今更私が「やり直す」余地はないように思う。
 言われていないのは『興津弥五右衛門の遺書』から『高瀬舟』まで繰り返し、乃木夫妻殉死に対する疑義が申し立てられているという事実だ。『興津弥五右衛門の遺書』が乃木夫妻殉死に影響を受けて書かれたことは誰も否定しない。しかし乃木夫妻殉死の報を聞いて「半信半疑」になった鴎外の、その心境はあべこべに伝えられてきた。『興津弥五右衛門の遺書』に始まる殉死もので繰り返されてきたテーゼは「殉死というものは殿様に許されて時と場所を決めて、介錯人を用意して行うものであり、女房を道連れにすべきものではない」というものだ。確認してもらいたい。森鴎外の殉死もので女房を道連れにしたものがあっただろうか。
 森鴎外は立て続けに殉死ものを書いた。それを「鴎外は乃木大将の殉死に感動したのだ」と思い込みたい一定の層があることは否めない。しかし森鴎外の殉死ものは明らかに乃木夫妻殉死という事件を批判している。
 森鴎外はしつこい。殉死ものにとどまらず乃木夫妻殉死という事件を批判し続けた。例えば『堺事件』では切腹をしても死なない武士を描き、『高瀬舟』では喉笛を切り損ねてなかなか死ねない男を描いた。夏目漱石が『こころ』において、あっさりとKを殺してしまうのに対して、人が死ぬということはそんなに簡単なことではないのだと医者の立場で物申した。

 赤坂警察署の本堂署長の記者会見がリアリティのあるフィクションであることを森鴎外や夏目漱石らすぐれた文学者はたちまち見抜いたに違いない。しかし夏目漱石は『こころ』一作でそのいかがわしさに言及したに過ぎない。そのやり方はむしろ鴎外より直接的で、核心を突いたものではあるが、以降の作品で殉死が掘り下げられることはなかった。ただ森鴎外のしつこさに読者は誰一人ついていけなかった。まさかあの鴎外がそんなことを書いているとは夢にも思わなかったのである。
 私は森鴎外を読んでなお自分で何か書こうという人は基本的に頭がおかしいと考えている。森鴎外の素直な読者にならないのだから、芥川や太宰や三島由紀夫はおかしい。三島由紀夫は平安以前の語彙を駆使して絢爛豪華な文体を作り上げた。芥川龍之介は坪内逍遥から紅葉山人以来の文体に腐心した人と評された。少なくない人が太宰の文体の巧みさを指摘する。彼らは皆どこかおかしい。
 そしてもちろん森鴎外もおかしい。『舞姫』が無茶苦茶な話である、ということは近代文学1.0でも言われている。ただおかしいのは『舞姫』ばかりではない。
 例えば『堺事件』は、

明治元年戊辰(ぼしん)の歳(とし)正月

(森鴎外『堺事件』)

 こう始まる。普通ここは慶応四年と書かれる。ただしそんなに多くはないが改元の年の元号がいい加減に書かれた資料はあるので、この一語のみで「森鴎外はおかしい」と決めつけるわけにはいかない。
 では『ぢいさんばあさん』はどうであろうか。この話も、

文化六年の春が暮れて行く頃であつた。

(森鴎外『ぢいさんばあさん』)

 として年号から始まる。文化六年は1809年から始まり、暮れに1810年になる。

所が、もう年が押し詰まつて十二月二十八日となつて、きのふの大雪の跡の道を、江戸城へ往反わうへんする、歳暮拜賀の大小名諸役人織るが如き最中に、宮重の隱居所にゐる婆あさんが、今お城から下がつたばかりの、邸の主人松平左七郎に廣間へ呼び出されて、將軍徳川家齊の命を傳へられた。「永年遠國に罷在候まかりありそろ夫の爲、貞節を盡候趣聞召つくしそろおもむききこしめされ、厚き思召を以て褒美として銀十枚下し置かる」と云ふ口上であつた。

(森鴎外『ぢいさんばあさん』)

 この時1810年になっている。

 これがために宮重の隱居所の翁媼二人は、一時江戸に名高くなつた。爺いさんは元大番石川阿波守總恆組美濃部伊織と云つて、宮重久右衞門の實兄である。婆あさんは伊織の妻るんと云つて、外櫻田の黒田家の奧に仕へて表使格になつてゐた女中である。るんが褒美を貰つた時、夫伊織は七十二歳、るん自身は七十一歳であつた。

(森鴎外『ぢいさんばあさん』)

 話は美濃部伊織とるんが結婚したところにさかのぼる。そしてまた年号が出てくる。

 明和三年に大番頭になつた石川阿波守總恆の組に、美濃部伊織と云ふ士があつた。劍術は儕輩せいはいを拔いてゐて、手跡も好く和歌の嗜もあつた。石川の邸は水道橋外で、今白山から來る電車が、お茶の水を降りて來る電車と行き逢ふ邊の角屋敷になつてゐた。しかし伊織は番町に住んでゐたので、上役とは詰所で落ち合ふのみであつた。
 石川が大番頭になつた年の翌年の春、伊織の叔母婿で、矢張大番を勤めてゐる山中藤右衞門と云ふのが、丁度三十歳になる伊織に妻を世話をした。

(森鴎外『ぢいさんばあさん』)


 二人が結婚した年、明和四年春は1767年である。1810マイナス1767は43である。72マイナス43は29である。

るんは寶暦二年十四歳で、市ヶ谷門外の尾張中納言宗勝の奧の輕い召使になつた。それから寶暦十一年尾州家では代替があつて、宗睦むねちかの世になつたが、るんは續いて奉公してゐて、とう/\明和三年まで十四年間勤めた。其留守に妹は戸田の家來有竹の息子の妻になつて、外櫻田の邸へ來たのである。

(森鴎外『ぢいさんばあさん』)

 寶暦二年は1752年である。1766マイナス1752は14である。ここはぴたりと計算が合う。

 黒田家ではるんを一目見て、すぐに雇ひ入れた。これが安永六年の春であつた。
 るんはこれから文化五年七月まで、三十一年間黒田家に勤めてゐて、治之、治高、齊隆、齊清四代の奧方に仕へ、表使格に進められ、隱居して終身二人扶持を貰ふことになつた。

(森鴎外『ぢいさんばあさん』)

1808マイナス1777は31。ここも計算が合う。

 其翌年の文化六年に、越前國丸岡の配所で、安永元年から三十七年間、人に手跡や劍術を教へて暮してゐた夫伊織が、「三月八日浚明院殿御追善の爲、御慈悲の思召を以て、永の御預御免仰出され」て、江戸へ歸ることになつた。それを聞いたるんは、喜んで安房から江戸へ來て、龍土町の家で、三十七年振に再會したのである。

(森鴎外『ぢいさんばあさん』)

 1809マイナス1772は37。ここもぴったり計算が合う。しかし浚明院殿、徳川家治は1737年生まれ~1786年没。天明六年没である。

 1786年没の徳川家治の追善が1809年。1809マイナス1786は23。没後二十三年目に追善の特赦があるものであろうか。
 こう書くとまるでしつこいのは私のようだが、実はずっと年号を出してきて、計算させていた森鴎外がしつこいのである。このやり方は他の作品でも……。

 元文三年十一月二十三日の事である。大阪で、船乘業桂屋太郎兵衞と云ふものを、木津川口で三日間曝した上、斬罪に處すると、高札に書いて立てられた。市中到る處太郎兵衞の噂ばかりしてゐる中に、それを最も痛切に感ぜなくてはならぬ太郎兵衞の家族は、南組堀江橋際の家で、もう丸二年程、殆ど全く世間との交通を絶つて暮してゐるのである。

(森鴎外『最後の一句』)

 森鴎外の『最後の一句』の細工も近代文学1.0からは完全無視されてきた。まず元文三年は1738年であることを確認しよう。

 桂屋太郎兵衞の刑の執行は、「江戸へ伺中日延」と云ふことになつた。これは取調のあつた翌日、十一月二十五日に町年寄に達せられた。次いで元文四年三月二日に、「京都に於いて大嘗會御執行相成候てより日限も不相立儀に付、太郎兵衞事、死罪御赦免被仰出され、大阪北、南組、天滿の三口御構ひの上追放」と云ふことになつた。桂屋の家族は、再び西奉行所に呼び出されて、父に別を告げることが出來た。大嘗會と云ふのは、貞享四年に東山天皇の盛儀があつてから、桂屋太郎兵衞の事を書いた高札の立つた元文三年十一月二十三日の直前、同じ月の十九日に、五十一年目に、櫻町天皇が擧行し給ふまで、中絶してゐたのである。

(森鴎外『最後の一句』)

 1738マイナス1687は51。ぴったりである。天皇制というものを考えてみるとき、大嘗会が五十一年間も中断していたことの意味合いは大きい。それこそ三島由紀夫の理屈でいえば、大嘗会が行われていない期間の天皇とは一体何なんだということになる。在位三年目の大嘗会というのも妙なものだ。森鴎外はそこに目を付けたのだろう。『ぢいさんばあさん』の三十七年ぶりの再会、というのもすごいが、日本の歴史にはそういうところがあるのだと指摘したかったのだろう。
 話としては以降毎年行われる大嘗会から三か月も経っているのに日限も不相立儀に付、として減刑されるゆがみが肝であろう。既に荷田春満の記録が消えていることから正確なところは解らないが、大嘗会の忌みは最長一月であろう。

 
 それにしても森鴎外には時空をゆがめる力があるようで、長らくこの森鴎外の『最後の一句』を紹介するウイキペディアでは元文三年が1788年として50年ずらされていた。

 今は直っている。とりあえず『最後の一句』は米泥棒が大嘗会で救われるというふりと落ちの構造になっている、とは書き残しておこう。いつ殺されるかわからないので。
 それからどうしても『むなぐるま』については書かねばならないだろう。『かのように』から『帝謚考』に向かう森鴎外は、猪瀬直樹の『公〈おおやけ〉 日本国・意思決定のマネジメントを問う 』の中では長男として、船が沈まないようにと保守の立場を貫いたものとみなされている。ただ『かのように』にしても『むなぐるま』にしても虚心に詠めば天皇制、あるいは天皇の神聖を否定するもののように読める。

 この車だっていつも空虚でないことは、言をまたない。わたくしは白山の通りで、この車が洋紙を稛載して王子から来るのにあうことがある。しかしそういうときにはこの車はわたくしの目にとまらない。
 わたくしはこの車が空車として行くにあうごとに、目迎えてこれを送ることを禁じ得ない。車はすでに大きい。そしてそれが空虚であるがゆえに、人をしていっそうその大きさを覚えしむる。この大きい車が大道せましと行く。これにつないである馬は骨格がたくましく、栄養がいい。それが車につながれたのを忘れたように、ゆるやかに行く。馬の口を取っている男は背の直い大男である。それが肥えた馬、大きい車の霊ででもあるように、大股に行く。この男は左顧右眄することをなさない。物にあって一歩をゆるくすることもなさず、一歩を急にすることをもなさない。旁若無人という語はこの男のために作られたかと疑われる。
 この車にあえば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。貴人の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。隊伍をなした士卒も避ける。送葬の行列も避ける。この車の軌道を横たわるに会えば、電車の車掌といえども、車をとめて、忍んでその過ぐるを待たざることを得ない。
 そしてこの車は一の空車に過ぎぬのである。
 わたくしはこの空車の行くにあうごとに、目迎えてこれを送ることを禁じ得ない。わたくしはこの空車が何物をかのせて行けばよいなどとは、かけても思わない。わたくしがこの空車とある物をのせた車とを比較して、優劣を論ぜようなどと思わぬこともまた言をまたない。たといそのある物がいかに貴き物であるにもせよ。

(森鴎外『空車』)

 実はそのことは夏目漱石も指摘していて、明治四十五年五月十日の日記には、

 皇室は神の集合にあらず。近づき易く親しみ易くして我等の同情に訴へて敬愛の念を得らるべし。夫が一番堅固なる方法也。夫が一番長持のする方法也。

 とまさに三島由紀夫の忌み嫌う英国のロイヤルファミリー的皇室の在り方を提案している。しかし医者であると同時に軍医という軍人でもあった鴎外は、それでは皇室がというより、それでは日本が持たないという脅威を感じていたのではなかろうか。『かのように』、『むなぐるま』を書きながら『帝謚考』、『元号考』へと向かう矛盾には、「敢えて」という言葉を挟まなければ整理がつかない。日本にしても皇室にしても持つか持たないかは我がことにあらずと言う態度が取れず、あくまで我がこととしてこだわり続けるのは鴎外のしつこさの表れである。
 それから『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』といった極北の史伝文学についても「しつこい」と言ってよいだろう。それは「くどい」といってもいい。丹念な記録ではある。しかしくどい。
 何故そんなことを書かなくてはならないのか、そこははしょれるのではないかということが書いてある。
 例えば森鴎外の史伝文学にぞっこんな永井荷風に『断腸亭日乗』という一見淡々とした記録がある。しかしそこには平凡な日常の記録でしかない天気の話もあれば、永井荷風の肉体が現れた記録もある。どこで何を喰った、どんな女と遊んだと極北ではないところが表れている。『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』に関しては三島由紀夫の「鴎外にとつては、知性が無機質であるとき、感性も無機質である」という見立てが最も正鵠を射ているのではあるまいか。それはやはりしつこいのであって、だから偉いかどうかは好みの問題である。
 鴎外のユーモアについてはこんな「らしくない」二例だけを示しておこう。

「好いわ。そんならパナマをお買なさいまし。」
パナマは十五円いたします。
「だつてあなたきのふ入らつしやつたお役所のお友達ね、あの方のなんぞも十五円したのでせうか。」
「大違だ。あれはあんなに立派でも、静岡パナマと云ふのだ。六円か七円位したのだらうよ。」

(森鴎外『豆腐田楽』)

 森鴎外というと堅物でショークなど言わなさそうだが、実はちょくちょくこんな剽げた言い回しを使っている。わざと丁寧語でふざけている。

 隣の間では、本能的掃除の音が歇んで、唐紙が開いた。膳が出た。
 木村は根芋の這入っている味噌汁で朝飯を食った。

(森鴎外『あそび』)

 特に大笑いするようなところではないが、どこか漱石の『吾輩は猫である』を意識したかのような戯画化もある。こんなものが乃木夫妻殉死の前にはいくつもある。普通に読めばいくらでも見つかるが、誰も普通に読まないので見つからない。

[余談]
 ここにきて、幸田露伴についても書いた方がいいかなという気がしてきた。どうも幸田露伴に関する情報は求められているのに、幸田露伴を解りやすく解説してくれている人がいない。そして少しずつ、「ああ、何か調べていると幸田露伴に突き当たるな。そして案外幸田露伴は凄いな」という感覚が薄れて行っているように思う。
 知の巨人と云うと例えば中村元なども間違いなくそうではあろうが、明治期の文豪においてはまずは幸田露伴であろう。それがあまりに巨人過ぎて、なかなか理解が届かないというのが現在の状況ではないかと思う。
 ここにきてやり残したものがあまりにも多すぎて唖然とする。人生はあまりにも短い。

13 大谷崎ができるまで

 

億兆の国民

 谷崎潤一郎という作家は政治から遠ざかり、思想を持たず、女を書き続けてきた作家だと言われる。三島由紀夫などに代表されるその典型的な見立てを完全に否定するわけにはいかない。確かに谷崎潤一郎は女を書き続けた。量的なものでいえば確かにそういうことになるのだが、少なくとも初期谷崎作品はそうではないもの、極めて異質で剣呑なものを持っていた。
 例えば『誕生』は、『栄花物語』に材を採った作品である。 

億兆の國民の膏血をすヽり、邪曲を扶け、正義を虐げ、天下に荊棘の苦を負はす驕慢の人の子。子を持てる親、兄を持つ弟、夫持てる妻に、猜疑と、嫉妬と、瞋恚の炎を焚きつくる驕慢の人の子の命を宿す女を咀はむ。

(谷崎潤一郎『誕生』「谷崎潤一郎全集 第一巻所収」、中央公論社、昭和五十六年)

 ここで藤原道長の子供が生まれたことが呪われている。間接的にディスられているのは天皇である。『栄花物語』には「国民」などという言葉は用いられていない。でてくるのは「民草」である。時代をつけて体制を批判するというありきたりな姿勢で作家、谷崎潤一郎は登場したのだ。

南朝幻想 

 谷崎潤一郎の反体制的な態度はさして隠されていたものではなかった。本人がはっきりと書いている。

それは一つには、明治時代には水戸学派の南朝崇拝の思想が支配的であったので、私たちは今の青年が民主主義や平和論を謳歌してファッショや戦争に反対する如く、足利氏の不正を憎んで吉野朝の天子や楠氏の末路に悲憤慷慨するように仕向けられていたところから、ひとしおああ云う文章に血を沸かしたのでもあった。

(谷崎潤一郎『幼少時代』)

 しかし真正面から体制批判できる時代は夏目漱石が『それから』を書いたあたりで終わっていた。従って谷崎の体制批判は「よく読まないと解らないもの」にとどまり、『吉野葛』など「南朝幻想に対するぼんやりとした思慕」に留まる。ただ近代文学1.0ではその「よく読まないと解らないもの」が徹底的に見逃されてきたので、谷崎は思想を持たない作家にされてしまったようなところがある。 
 勿論作品から思想性を読み取ることのみが文芸批評の役割ではない。しかし「よく読まないと解らないもの」が思想性であれ、作品の肝であれ、見逃してきたというのが事実なのだ。
 たとえば『あくび』という作品では明示的に欠伸をする場面が描かれない。欠伸は政治批判と同時に現れる。

「私や今日本海海戰記を讀んで見たが、彼の時は日本は危なかツたんぢやなア。」

(谷崎潤一郎『あくび』)

 欠伸をしたのはこの場面であろう。『あくび』は日露戦争でケチが付いた日本の若者の政治批判の話である。しかし『あくび』という題の小説に欠伸が隠されていることを探さない人にはこのメッセージは永遠に届かない。

敢えて書かない・書けない 太ももはどうでもいい 緞帳芝居 何かが隠れている 『美しい星』が理解できる年寄り


敢えて書かない・書けない
 新潮社文庫で初めて谷崎に触れるようなごく一般の読者にしてみれば、谷崎は見染めた女の背中に彫り物を勝手に入れてしまう変態彫り物師の話として『刺青』を読むことから始まり、そこに「紂王の寵妃、末喜」というおかしな文句があることさえさして気にならないものなのであろう。『麒麟』を読めば、そこにどういう意味があるのかは別として、谷崎が敢えて間違えていることが解る。そして谷崎が政治や思想を面に出さなくなる理由が解る。『麒麟』には「夫人の顙は妲己に似て居る。夫人の目は褒娰に似て居る」とあり、紂王の寵妃が誰であるのか解っていることがわざわざ明かされている。そしてエピグラフにはわざわざ『論語』の微子篇が引かれている。

鳳兮鳳兮、何徳之衰也、往者不可諌也、来者猶可追也、已而已而、今之従政者殆而

(谷崎潤一郎『麒麟』)

 この当時はごく一般の読者にしてみてもこれで意味が通じていた筈である。しかし今の一般の読者には通じまい。
(鳳よ、鳳よ、お前の徳はどうして衰えてしまったのか。過ぎ去ったことは諌めても仕方がない、これからのことを考えよう。やめておけ、やめておけ、今の政治に携わるのは危険なことだよ)
 今の一般読者は普通の書店で『箱の中の天皇』や『天皇組合』が普通に売られているのを当たり前のことだと思っているはずだ。しかし谷崎がデビューした当時はそうではない。谷崎に思想がないのではない。「今の政治に携わるのは危険なこと」だったのだ。だから谷崎は女が洟をかんだ手巾をしゃぶる小説を書くことにした。悪魔主義作家谷崎の誕生の前には、剣呑な反体制主義者谷崎がいた。

太ももはどうでもいい

 しかし変態性欲が偽物というわけではない。『刺青』の次に『少年』を読む一般読者が見ているものは、確かに谷崎の本質的なものだ。その証拠に『家畜人ヤフー』を書いた稀代のマゾヒスト沼正三が世界一のマゾヒスト作家と認めているのが谷崎潤一郎だからだ。沼正三は『ある夢想家の手帖から』において繰り返し谷崎作品を採り上げ称賛した。

この文豪は端的に一個のマゾヒストであって、彼の文学の首尾を貫くものが「ドミナ崇拝」「美女への跪拝」であることは、全集を読めば明らかである。その作品系列は足フェチシズムからスクビズム、コプロラグニーまで正統的マゾヒズムのあらゆる様相を展示しており、マゾヒストの愛読に堪える。事実彼の作品ほどわが国におけるマゾヒストの春の目覚めの機縁となったものはあるまい。ドイツ文学におけるマゾッホとは比較にならぬ高い文壇的地位を占めるこの作家を同時代人に持つことは、現代日本マゾヒストの幸福である。

(沼正三『ナオミ騎乗図』『ある夢想家の手帖から1』所収、都市出版社、昭和四十五年)

 おそらく谷崎は自身の異常な性欲を自覚していたし、そういうものを書こうともしていた。それは決してわかりやすいものでもなく、ありきたりな物でもなかった。そして勿論谷崎の変態小説は単なる変態の告白ではなかった。

谷崎の『少年』中、末尾の一節「次第に光子は増長して三人を奴隷の如く追い使ひ、……Urineを飲ませたり、……」とある一文は、マゾヒストの多くの者をウロラグニーに目ざめさせる機縁となった極め付きの箇所であるが、どういうふうに飲ませたかに触れていないのは、本文に指摘した人間ポットの描写の非現実性を回避したためであろうか。

(沼正三『人間ポット』『ある夢想家の手帖から2』所収、都市出版社、昭和四十六年)

 谷崎は繰り返しドミナがマゾヒストによって創造されるものであるというロジックを書いた。
『少年』中の段取りを辿れば、

・信一が光子に奈良人形を投げる 信一がS
・信一と榮ちゃんが仙吉を縛り上げて、髪の毛を引っ張り、頬っぺたをつまみ、瞼を裏返し、耳たぶや唇の端を噛んで降る。 信一と榮がS
・狼ごっこ、信一が榮と仙吉の腰から下をペロペロ食う。信一がS 榮はM
・仙吉、光子を狐に狐ごっこに誘う。光子は仙吉と榮にたんやつばを入れた白酒を小水として飲ませ、食いちぎったあんころ餅や踏みつぶした蕎麦饅頭、鼻汁で練り固めた豆炒りを糞として食わせる。 仙吉M 光子S
・信一、仙吉、榮、光子を後ろ手に縛りあげ、餅菓子を口に含んで光子の顔に吐き出し、食いちぎった餅菓子で光子の顔を汚す。 信一、仙吉、榮S 光子M
・信一、三人を犬にする。ちんちん、お預けのあと、本当の犬と一緒に畳にばらまかれた鼻くそやつばきのついた饅頭を食わせ、指や足の裏を嘗めさせる。 信一S 仙吉、榮、 光子M
・光子 狐ごっこでいぢめられるのを喜ぶようになる。 光子M
・信一、鎧刀で三人を切るようになる。 信一S 仙吉、榮、 光子M
・榮、仙吉、光子を樫の木に縛り付けてつねったり擽ったりして折檻する。尻で踏む。榮、仙吉S 光子M
・光子、仙吉と榮を縛って燭台にする。 光子S 榮、仙吉M
 こうしたゆらゆらとした役割の交代変化の末光子はMからSになる。『刺青』では一晩でドミナを彫り上げた。『幇間』『秘密』『悪魔』『お艶殺し』すべてドミナがマゾヒストによって創造される話である。ただ徹底的に理詰めで語られる『アエ゛・マリア』よりも『痴人の愛』を見た方がこの理屈は解りやすいかもしれない。
 月給百五十円の技士、河合譲治は八年前、カフェの女給ナオミと出会う。河合譲治が二十八歳、ナオミが十五歳だった。この時点では河合譲治がナオミに英語を教えるという関係だった。しかし最後には立場が逆転する。河合譲治は最初からあからさまなマゾヒストであったわけではない。『刺青』では変態彫り物師がドミナの素質のある女を見出すところに妙がある。『痴人の愛』ではその関係性がさらに複雑になり、河合譲治とナオミがお互いの素質を次第に開花させるようにしてマゾヒストとドミナが出来上がる。実に理屈っぽい。そしてこんな理屈は、ただ谷崎を変態作家だと確認して満足する読者には一切届かない。
 そして大いに誤解される。「変態マゾヒスト」という偏見によって、書かれていることが読まれなくなってしまっている。

僕は一人の男子として生きて居るよりも、こんな美しい踵となつて、お富美さんの足の裏に附く事が出来れば、其の方がどんなに幸福だか知れないとさへ思ひました。それでなければ、お富美さんの踵に蹈まれる疊になりたいとも思ひました。僕の生命とお富美さんの踵と、此の世の中で孰方が貴いかと云へば、僕は言下に後者の方が貴いと答えます。お富美さんの踵の爲めなら、僕は喜んで死んで見せます。

(谷崎潤一郎『富美子の足』)

 例えば『富美子の足』では「踵」と書かれているのにこれが「ふともも」と誤解されてしまう。変態というものはこういうものだろうといういい加減な偏見の結果として、変態作家谷崎潤一郎が出来上がる。



 緞帳芝居 何かが隠れている 『美しい星』が理解できる年寄り

緞帳芝居
 三島由紀夫は戯曲は一流、と言われる。以下は略す。そして本物の古典が身に着いた最後の世代を自認していた。その「本物の古典」の中には「萬葉集」や「大鏡」だけではなく、芝居という要素があった。幼いころからの観劇の体験が、戯曲を書く素養となっている。谷崎にも同じく幼いころからの観劇の体験があった。その素養によって、多くの芝居(戯曲)が書かれ、いち早く活動写真に参加するきっかけにもなった。
 その芝居の要素は小説の中にもにじみ出ている。『續惡魔』などはそのまま緞帳芝居の刃傷沙汰である。

お艶殺し 谷崎潤一郞が大正四年千章館より出版した作品で、劇に映畫に有名であるとともに彼獨得の妖婦を主題とした傑作である。

(新文芸創作講座編輯部 編厚生閣『新文芸創作講座 2』)

 そしてそのまま劇に映画にと展開される。特にそう意識して読まなければ気が付かないことでもあろうが、谷崎作品の多くは劇に映画にと展開されやすいように書かれている。あるいは、谷崎作品はさして芝居に剥いていないのではなかろうかと思われる作品まで芝居になり、それが好評であった。『信西』や『愛すればこそ』などはさして面白い芝居になるとは思えないのだが、実際に芝居になり好評であったらしい。
 この芝居の素養による構成力が、後の芥川との論争における「筋」につながっているとはいえよう。
 例えば『卍』は芥川の死の翌年に書き始められた大阪弁の女性の一人称モノローグという異色の作品ながら、出したり入れたり押したり引いたりという芝居的駆け引きの要素をふんだんに盛り込んで飽きさせない。犯罪心理劇のようであり、なんと六度も映画化されている。『細雪』は映画化が三度だがテレビドラマは六度制作されている。金勘定の話ではなく、こうして書籍からはみ出すことによって谷崎潤一郎の名前がさらに広まり、名前が広まることでまた谷崎作品が広く読まれるという好循環が出来上がったのである。そうした展開が可能だった背景には「思想のなさ」が加担したことは想像に難くない。重苦しいテーマや難解な哲学を感じさせないことで大衆性を勝ち得た。文字で読むとなかなか手ごわい谷崎作品も、映画なら負担なく観ることができる。
 堂宇 四方に張り出した屋根(軒)をもつ建物。檜皮葺(ひわだぶき)とは、屋根手法の一つで、檜(ひのき)の樹皮を用いて施工する。内陣 寺院の本堂内部において本尊を、神社の本殿内部において神体を安置する場所。須弥壇 仏教寺院において本尊を安置する場所であり、仏像等を安置するために一段高く設けられた場所のこと。須弥山に由来する。天蓋 天に懸(か)けられた蓋(がい)の意で、仏像や導師の上にかざす装飾的な覆いをいう。 古来からインドでは強い日射しを避けるため、貴人の外出にはつねに傘蓋(さんがい)で覆う習慣があり、これが仏教の荘厳具(しょうごんぐ)として用いられるに至ったとみられる……。
 文字で読むとこれだけの知識が必要なことが画だと映すだけでよいことになる。あるいは映画や芝居を見てから小説を読むと、さして負担を感じないで読むことができるという利点もあったかもしれない。映画や芝居へのマルチな展開によって人気作家谷崎潤一郎が出来上がった。
 何かが隠れている 『美しい星』が理解できる年寄り

何かが隠れている
 
 それでも「やり直しの近代文学」なのだから解り切ったことを繰り返してはつまらない。そろそろ近代文学1.0において、完全に見逃されているところを見ていこう。
 基本的に近代文学1.0の人たちは作品を読むということができていない。現代でも川上未映子をはじめとした優れた作家たちは「何を書かないか」ということを明確に意識して書いている。『あくび』でいえば明示的な欠伸を書かない。書かないことで主題が浮き上がる。その浮き上がるはずの所を無視するのが近代文学1.0なので残念なことだ。
 例えば『幇間』では三平という幇間が梅吉という芸者の催眠術にかけられたふりをして、散々なぶられる。これは書かれていることだ。しかし梅吉の催眠術は三平にしか通用しないのだと書かれていないことに気が付かないと「ドミナはマゾヒストによって創造されるものだ」というロジックが見えない。『青い鳥』であれば、「ゆうべの阿具里とのこと」という書かれていないことが読めないとなんとも訳の分からない話になってしまう。

母親 いヽや、おらああんな狐の憑いた人間を甥だたあ思はねぇよ。あれの一家は代々狐にたヽられてゐるだあ。あれのおふくろが死んだのも、兄あや姉えが死んだのも、みんな狐の業なんだもん。

(谷崎潤一郎『白狐の湯』)

 こう書かれていれば「父親はどうして死んだのか」と考えなくてはならない。しかしこれまではそういう作業が放置されてきた。『或る顔の印象』で確認してみよう。これはそう長い話ではない。
 筋としてはシンプルなもので、松浦という会社員が電車で乗り合わせたある男の顔に覚えがある。五年前美奈子という美人と駆け落ちしたとき汽車で東京から京都まで一緒だった男だ。松浦は今では別の女と結婚していて既に子もある。どうしてそんな男の顔を覚えているのかと考えてみると、それは美奈子との幸福な恋を楽しみ強い感激に浸っていたからではないかと考える。しかしどうも相手の男も松浦のことを覚えているような気配がある。これがふりとなる。三度男と電車で乗り合わせた時、松浦は男と話す。そして五年前の松浦の連れ、美奈子があまりにも美人なので、ついでに松浦の顔も覚えていたのだと話す。
 さて、結びはこうである。

謹直なる會社員、善良なる家庭の父を以て聞えて居た松浦が、どう云ふ弾みか近頃酒の味を覺えて妙にぐれ出したと云ふ噂が、ぽつぽつ廣まつたのそれから間もなくの事である。が、その原因が電車の中で行き遇つた「顔」の祟りにあるのだと云ふ事實は、誰も知つて居る者がなかつたやうである。

(谷崎潤一郎『或る顔の印象』)

 この「顔」の祟り、というものが何なのか解っている人がいるものであろうか。ここを、
「五年も前に会っただけの男の連れの顔を記憶させるほどの美人を失ったのだと改めて痛感させられたこと」
 だと浅く解釈してしまってはいまいか。それでは「ふり」と「落ち」関係性がつかめていない。松浦が相手の男の顔を覚えている理由に行きついていない。
「五年も前に会っただけの男の連れの顔を記憶させるほどの美人を自分は失い、この男は得たのだと初めて知らせされたこと」
 ではなかろうか。松浦には既に美奈子を失ったという悔いはあっただろう。だから「改めて痛感」では落ちが弱い。ここにはじめて知る事実がなくてはならない。自分がこの男の顔を覚えているのはその連れの女も相当な日美人だったからなのだ。美人でなくては、つまり相当に自信がなければ、妻は夫に誰かを美人だと言わないだろう。何故そう言い切れるのか?『或る顔の印象』では男の連れの容姿、顔の印象について一言も触れられていないからだ。
 このようにして書かれていてないところを読み取れた時、初めて作品が面白いものになるはずなので、そこが解らないとつまらないのではなかろうか。「やり直しの近代文学」とは作品の面白さを掘り返そうという、至極まっとうな作業であることは念を押しておきたい。

『美しい星』が理解できる年寄り

 谷崎の死後三島由紀夫が「大谷崎」と云い始めた。まさに谷崎潤一郎は「大谷崎」であった。『細雪』と谷崎源氏があるから「大谷崎」なのだ、という意見もあるだろうが、私はそこに二つの要素を付け加えたい。
 その要素の一つは『瘋癲老人日記』である。

「今日ハオ爺チャン、ネッキングサセタゲマショウカ」
「ネッキングッテ何ノコトダネ」
「ネッキングヲ知ラナイノ? コナイダオ爺チャンガシタジャナイノ」
「頸ニ接吻スルコトカ」
「ソウヨ、ペッティングノ一種ヨ」
「ペッティングッテ何ダネ、ソンナ英語ハ習ッタコトガナイ」
「オ年寄ハ手数ガカヽッテ困ルワネ、体ジュウヲ可愛ガルコトヨ、ヘビー・ペッティングッテ言葉モアルワ、オ爺チャンニハ現代語カラ教エナキャナラナイ」
「ジャア、コヽニキスサセテクレルンダネ」
「有難イトオ思イナサイ」
「三拝九拝スルヨ。ドウ云ウ風ノ吹キ廻シカ、アトガ恐シイナ」
「イヽ覚悟ダワ、ソノ積リデイタライヽワ」
「ジャ、ソレカラ先ニ聞コウジャナイカ」
「マア兎ニ角、ネッキングヲナサイ」
 結局予ノ方ガ誘惑ニ負ケタ。予ハ二十分以上モ所謂ネッキングヲ恣ニシタ。

(谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』)

 とにかく谷崎はやり遂げた。中途半端な感じがしないのは、初期作品に見られた政治批判こそがいささか安っぽいものであり、谷崎文学の本質が女を描くことにあったからだ。
 もう一つの要素はやはり三島由紀夫の尊敬を獲得した事である。

さて早速乍ら、本日嶋中鵬二氏より電話がございまして、思ひかけぬことに、先生が拙著「美しい星」をお読み下さつてゐる由、そればかりか、望外のお言葉を賜つた由承はりまして、これ以上めでたい新春はないと欣喜雀躍いたしてをります。
               昭和三十八年一月三日

(「谷崎潤一郎宛書簡」『決定版 三島由紀夫全集第三十八巻』)

 死んでから褒めてくれる人が続かないと、人は簡単に死人の文学を忘れてしまう。例えば、伊藤整という人の勢いはすさまじかった。ノーベル賞候補にもなっており、本がたくさん出ていた。しかし今や『チャタレイ夫人の恋人』以外は、ほとんど読まれていない。こんなになるものかというほど急激に忘れられていった。
 谷崎はそう多く評論が書かれることがなかったが、何人かの作家の熱烈な支持を受けて評価され続けた。決して読みやすいわけではないが作品は読まれ続けた。だから「大谷崎」が出来上がった。
 ドナルド・キーンに英訳を断られるなど決して評判の良くなかった「美しい星」を素直に認める谷崎は立派である。1886年生まれの谷崎潤一郎は1963年には七十七歳、この二年後にこの世を去る。『瘋癲老人日記』が昭和三十六年。当時の七十七歳の老作家が、いきなりSF哲学小説を読まされて受け入れられたのが凄い。
 時代を問わず老人は頑固になっていく。新しいものが受け入れられない。自分の価値観が変えられないし変えたくないところに、SFや哲学はなかなか厳しいのではなかろうか。だからこそ大谷崎なのだと感心するところである。


14 岩波書店さん大丈夫ですか?


二十三日の祝捷会は奉天占領祝捷会
 近代文学1.0の終焉の責任をどこか一つの出版社に押し付けるわけにはいかない。いくら岩波教養主義というものが威張って見えたとして、各社が教養やら学術などという箔をつけた文庫本を出したり、少なからず自分文学というものに貢献しているという自負があるからだ。その創刊の志というものはどれも恐縮するほど貴く気高い。
 ただその精神が守られていないことは残念に思う。
 例えば先日、北村透谷の作品が死後たちまち改ざんされ、四十五年以上偽物の北村透谷全集が流布されていたことを報告した。その事実は既に知っていたが岩波文庫では十五版も出ていたことを知って唖然としたからだ。どれだけの人がこの事実を知らないまま死んでいったことだろう。そう考えるとぞっとする。

 もちろん誰にも間違いというものはある。問題は訂正する力があるかどうかだ。そろそろ岩波書店の人も気が付いていいのではなかろうか。
 何の話かと云えば『定本 漱石全集』の話だ。その註解がかなり間違いだらけであることを私は繰り返し指摘してきた。その全部をここで繰り返すことはしない。
 ただどうやり直せばいいのかという方向性を示すことにしよう。

祝捷会 祝勝会。ここは日露戦争の旅順陥落の祝勝会であろう。旅順陥落、奉天の大勝、日本海海戦などそのつど祝勝会が全国各地で開かれた。

(『定本 漱石全集第一巻』岩波書店 2017年)

 ……とある。
 旅順陥落の報は明治三十八年一月二日に齎された。従って旅順陷落祝捷會が開かれたのは一月の初旬(四日から九日)である。奉天占領が明治三十八年三月十日なので、二十三日の祝捷会は奉天占領祝捷会であると考えた方が自然ではなかろうか。
 このミスは、単純に日露戦争の記録を確認すれば防ぐことができた。執筆者だけではない。編集者がチェックすることもできたはずだ。校閲の仕組みが機能していない。それでは「定本」を謳う資格はない。もっと丁寧な仕事が必要だ。ただ何となく今の自分の気分を書いていればいいのはnote民だけだ。全国の何千という図書館に収められるのだから、もう少し真剣にやらなくてはならない。
 歴史的な出来事に関することは歴史を確認すればわかる。

 そんな当たり前のようなことができていないのは、漫然と自分は知識と教養にあふれていると思い込んでいるからではなかろうか。まずはおごりを捨てることだ。
 

天高海濶?

 

天空海濶  『禅林句集』には「天高海濶」とある。

(『定本 漱石全集第一巻』岩波書店 2017年)

 漱石が「天空海濶」と書いているのなら、「天空海濶」の説明をしなくてはならない。これは筑摩書房の例だが芥川が「飯中の八仙」と書いているのに「飲中八仙歌」の説明だけしてしまっているケースがあった。

 自分が知っていることを書くのは簡単である。知らないことを調べるのには手間と時間がかかる。それ嫌なら何か別の仕事に転職すればいい。


「君不相変らずやってるな」は「感投詞」ではない 


今までは黒との応対で気がつかなかったが、見ると彼の足の下には一切れ二銭三厘に相当する鮭の骨が泥だらけになって転がっている。「君不相変らずやってるな」と今までの行き掛りは忘れて、つい感投詞を奉呈した。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

この「感投詞」に関して岩波書店『定本 漱石全集第一巻』注解に、

感投詞 現在では普通「間投詞」と書く。同じ意味を表わす言葉に「感動詞」がある。のち本篇「七」三〇三頁以下に感投詞についてのやりとりが展開されている。

(『定本 漱石全集第一巻』岩波書店 2017年)

 ……とある。「感投詞」そのものの説明としてはその通りであろうが、ここには「感投詞」がないことについては触れられていない。「君不相変らずやってるな」は「感投詞」ではない。
 つまり何か文字は書いてあるけれど説明にはなっていない。何故そのことを誰も指摘しないのだろうか。誰もおや? とは思わなかったのだろうか。なら仕方ない。
 あきらめよう。

あとがき 近代文学2.0のために

 かなり厳しいことを書いてきたので、どうしても受け入れがたいという人もあるだろう。しかしそれは私の態度の問題ではなく、内容の厳しさであることを確認してもらいたい。近代文学はやり直しされるべきなのであって、やり直すためにはこれまでのいい加減なものを一度捨て去らなければならない。これまでの駄目なものを担いだまま、やり直すわけにはいかない。
 極めてシンプルな話、国語教師も、文学者も、夏目漱石や芥川龍之介の作品を中途半端にしか理解してこなかった。というより言葉が意味を持つということさえ無視してきた。
 ほかならぬあなた自身が間違いなくその一人であるというシンプルな事実を認めない限り、その先には行けない。


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