「撫子さんと学ぶ 会計事務所の仕事」 新規顧問先担当編⑥
第六章 会計ソフトを導入してもらう
潮風が吹き抜ける工場地帯。
車を降りた俺たちは、無言で敷地を見渡す。
スレート屋根はところどころ色褪せ、金網フェンスには潮の跡。
重機の油の臭い。金属の乾いたきしみ。
――ここが、今日から向き合う相手。
そのとき、敷地の奥にあるプレハブ事務所の扉が、バンッと勢いよく開いた。「あ、あの……能勢会計事務所の先生方、ですよね?」
息を弾ませて駆け寄ってきたのは、淡いブルーのつなぎ姿の女性。
ショートボブは寝癖でぴょんぴょん跳ね、肩が小さく上下している。
怯えたような大きな瞳は、小動物みたいに頼りなげだ。
(うわ……守りたくなるタイプだ。)
少しおどおどした声。
目が合うと、ぺこりと頭を下げるその仕草も、どこか小動物的だった。
「御社の担当となります、能勢会計の絹延橋みつ子と申しますわ。」
みつ子さんは、流れるような動作で名刺入れを取り出し、完璧な角度で差し出した。
相手の女性は慌ててつなぎの胸ポケットを探り、折れ気味の名刺を取り出して差し出す。
そのぎこちなさが、逆に誠実だった。
「絹延橋の補助をしています、川西撫子です。よろしくお願いします。」
撫子さんは、春風みたいな柔らかい笑みを添えた。
相手の緊張が少しほどける。
「鳥居雅之です。あの……おまけ二号です。」
俺が名刺を差し出すと、女性はさらに慌てて深々と頭を下げた。
「金澤金属の金澤加奈子と申します。こ、今回はご迷惑をおかけしますが……どうぞよろしくお願いいたします。」

彼女は頭を下げたまま、ぴょこぴょこと寝ぐせが揺れる。
その真面目さが痛いほど伝わってくる。
(こんなにちゃんとした人がいるのに……本当にここが7年無申告だったのか?)
「ところで登記簿を見る限り、代表者は“金澤泰裕”さんですわね。
可能でしたら、ご挨拶を――」
みつ子さんが自然な笑みで切り出すと、加奈子さんは一瞬だけ目を伏せた。
「ち、父には今回の件で責任を取ってもらい、経営からは身を引いてもらいました。現場には残りますが……今後は私が会社を継ぐ予定です。」
(やっぱり……社長の娘さん、か。)
「そうですか……では、金澤社長とお呼びしてもよろしいかしら?」
「い、いえ、そんな……普通に“金澤”でお願いします。」
耳まで真っ赤だ。
かわいい。
「今回の無申告の件、ご存じだったのかしら?」
撫子さんの声は、責めない。受け止める声だ。
金澤さんは胸元の手をぎゅっと握りしめた。
「実は……私は最近入社したばかりで。現場のことで精一杯で……経理は全部父が。聞いたところ、8年前までは税理士の先生にお願いしていたようなんですが……その先生と喧嘩をしてしまって。」
「喧嘩……」撫子さんが小さく眉を寄せる。
「はい。そのあと新しい先生を探そうとしたものの、うまくいかず、そのままズルズルと7年間……。本当に、申し訳ありません!」
金澤さんは深々と頭を下げた。その背に、悔しさと責任感がにじむ。
(うーん、これは……撫子さんの言ってた“後回し型”ってやつか。)
「今回の税務調査のあと、取引先の方から能勢先生を紹介していただいて……。本当に、何も分かっていなくて、す、すみませんっ!」
(ああ……この人、本気で悔しがってる。)
「オホホホ、そんなに落ち込まなくても大丈夫ですわよ!」
不意にみつ子さんの声が弾けた。
自然と視線が吸い寄せられる。
自信があって、強くて、妙に安心させる。
「私にお任せいただければ、御社の経理体制、必ず立て直してみせますわ。
――あ、それと私のことは“みつ子”と呼んでくださいませ。」
金澤さんの目が、ぱちぱち瞬く。その瞳に、希望みたいな光が宿った。
(すげぇ……あんなみつ子さんの言葉でも、救いを求めている人には希望を与える一言になるんだな。)
そんな俺の胸のざわめきを読んだように、撫子さんが耳元でささやく。
「雅之くん、金澤さんは“無申告を反省して、改善したい”と思っている。こういう人には、きっと良くなる見込みがあるわ。」
「つまり、“改善する意思があるケース”ってやつですね。」
「ええ。正直、最初はどうなるかと思ったけど……娘さんに代替わりするなら、心配はなさそうね。」
撫子さんは嬉しそうにうなずいた。
つまり、この案件――希望がある。
「みつ子先生、川西先生、鳥居先生――」
金澤さんが顔を上げる。
「こんなところで立ち話もなんですから、どうぞ事務室の方へ。」
彼女が指さしたのは、工場の端にぽつんと建つプレハブの事務所。
午後の光を浴びて、波板の壁が少しだけきらりと光っていた。
(……ここからが本番か。)
俺は息を整え、二人の後ろに続いた。
◆金澤金属・事務所
加奈子さんに案内され、俺たちはプレハブ事務所のドアをくぐった。
中は――想像以上に素朴だった。
四つの事務机が島になって並び、その上には控えめに存在感を放つノートPC。
奥の壁際には複合機。横には簡素な応接セット。
中央には作業用の大きなテーブルと、無骨なパイプ椅子。
装飾という言葉は、この場所には存在しないらしい。
(うん、見事に“工場の事務所”って感じだ…)
「何もありませんけど、とりあえずこちらへ」
加奈子さんは、俺たちを応接セットへ促すと、慣れない手つきながらも丁寧にお茶を淹れてくれた。
白磁のティーカップが、こんな工場の事務所にあるのが逆に意外だ。
琥珀色の紅茶がゆっくり湯気を立て、場の空気がふっと柔らかくなる。
みつ子さんがティーカップをソーサーに“カチリ”と置いた瞬間――空気が切り替わった。
「では金澤さん。早速ですが、以下の資料をご準備いただけますか?」
その声は、甘くもあり、鋭くもあり。
やっぱり“圧”がある……。
みつ子さんは、事務所で打ち合わせてきた資料リスト――
定款、税務署届出書、各種契約書……
それらをひとつずつ流れるように読み上げていく。
加奈子さんは必死にメモを走らせ、書き終えるとパッと顔を上げた。

「は、はい!承知いたしました!準備でき次第コピーをお送りします。それと……その、8年前の確定申告書の控えも出てきましたので、こちらも送ります!」
思った以上に話がスムーズで、みつ子さんもどこか満足そうだった。
(…これ、意外と順調なんじゃないか?)
◆会計ソフトを導入してもらう
「基本情報がそろったら――次は“会計ソフト”の導入のご提案ね。」
撫子さんが、ティーカップをそっと置きながら切り出した。
声は静かなのに、その場の空気がふわっと引き締まる。
「会計ソフト……つまり、自計化をお願いするってことですよね?」
俺がたずねると、撫子さんは指先で頬を軽く触れ、考えるように首を傾げた。
「そうね。記帳代行という手もあるけれど、どちらが良いとは一概には言えないの。でも――ゼロから提案できるなら、私は“自計化”の方が好きかしら。」
その言い方は柔らかいのに、芯があった。
「自計化のメリットって、どんなところなんです?」
「一番は、“顧問先が数字をすぐに把握できる”ことね。」
撫子さんが微笑んだ瞬間、加奈子さんも思わず前かがみになる。
「記帳代行だと、資料を事務所に送って、入力して、戻ってきて……って流れになるから、試算表が手元に来るのが一か月以上後になることが多いの。
でも自計化なら、入力すればその瞬間に状況が分かるわ。」
「肌感覚で数字が分かるようになるのも、なかなか良いですわよ。」
みつ子さんが組んだ指を優雅にほどき、空中に軽く振る。
「会計事務所任せの試算表って、どうしても“ただの数字の表”に見えてしまいますもの。でも自分で入力していると、数字の裏のドラマが見えてくるんですわ。」
「数字の裏の……ドラマ?」
「そう。例えば――」
撫子さんが、ゆっくりと言葉をつむぐ。
「『売掛金が増えてるな。誰か入金が遅れているのかな?』
『仮払金、ずっと残ってる……精算が止まってる?』
『在庫が増えてる……これは作業効率の問題?』
――そういう“気づき”が自然と持てるようになるの。」
「記帳代行だと、会計事務所が迷った仕訳を勝手に“仮払金”に突っ込んだりすることがありますものね。」
みつ子さんがにっこり微笑む。
(なんでそんなことを笑顔で言えるんだ……!?)
「でも、B/Sの読み方が分かっていれば、そういう違和感にも気づけるのよ。」
「なるほど……」
思わず、俺もメモを取っていた。
「それとね。」
撫子さんが、少し照れたように笑う。
「自計化してる会社って、資金繰りにも敏感になるの。
売掛金や在庫をコントロールするとキャッシュが増えるとか、借入金の減り方とか……社長や経理担当者が自分の言葉で説明してくれるようになると、本当に嬉しいのよね。ああ、この会社は成長しているなって。」
その横でみつ子さんが、わざとらしく肩をすくめた。
「自計化していると、帳簿も資料も全部手元にあるから――いつでも税理士を変えられますわよ?」
「……それをメリットって言うのは、さすがに強引では……?」
俺がつぶやくと、撫子さんが苦笑した。
「ええ、会計事務所目線だとちょっと怖いけど……まぁ、それも事実よね。」
「で、自計化のデメリットは?」
俺の質問に撫子さんは指を立てる。
「やっぱり“手間”ね。
自分で入力すれば時間を取られるし、経理担当を雇えばコストもかかる。
それに、記帳が性に合わない人には、正直しんどい作業になるわ。」
「だからこそ――」
撫子さんの瞳が、ぱちりと光った。
知的好奇心と使命感、その両方が火花みたいに弾ける瞬間。
こういう場面の撫子さんは、本当に楽しそうだ。
「“できるだけ手間がかからない仕組み”を作るのよ。」
撫子さんは指を一本立て、まるで魔法のレシピを読み上げるみたいに続けた。
「銀行やクレジットカードのデータは自動取り込み。
勤怠はスマホのワンタップ打刻から給与ソフトに流れて、そのまま会計ソフトへ連携。給与明細も源泉徴収票も、日付をセットしておけば自動でWeb配信。」
「ひとつずつ手作業でやる必要がなくなるわけですのね。」
みつ子さんが腕を組み、満足げに頷く。
「販売管理はクラウドアプリ。請求も回収もそこで見える化して、もちろん会計ソフトと紐づける。
経費精算は法人カードを使って、現金を使わない。記帳も自動取り込み。」
撫子さんの声は軽やかで、どこか楽しげだった。
「それから、税金の納付はダイレクト納付。
申告時に会計事務所で期日を設定すれば、自動で口座から引き落とされるわ。
毎月の源泉所得税や住民税も、顧問先にWeb版のe-TaxやeL-TAXを使ってもらえば、銀行に行く手間もゼロ。」
みつ子さんが、にっこりと片眉を上げる。
「銀行・コンビニ納付なんて“時代遅れ”ですわ。基本禁止、これ常識ですわね。」
「そして最後に――」
撫子さんがテーブルをトン、と軽く叩く。
「資料整理。ここもシンプルで、続けやすい形を提案するの。
“仕組みでラクにする”こと。これが全部の基本よ。」
その声は穏やかだけれど、どこか冒険の始まりみたいなワクワクを含んでいた。
経理改革――それはこの会社にとって、きっと新しい挑戦だ。
みつ子さんが紅茶をそっと持ち上げ、薄く笑う。
「記帳代行のメリットとデメリットは、その裏返しですわね。
本業に専念できるけれど……会計スキルは永遠に育ちませんの。」
その瞬間、加奈子さんがぎゅっと拳を握った。
「わ、私……!
自分で帳簿も決算書も、ちゃんと読めるようになりたいんです。
だから――自分でつけたい。ご指導、お願いします!」

震える声なのに、目だけは真っ直ぐで強い。
事務所の空気が、ほんの少し熱を帯びる。
撫子さんが、ふっと柔らかく微笑んだ。
「ええ。私たちがいるわ。一緒にやっていきましょう。」
「ちょ、ちょっと! それ、私のセリフですわよ!」
みつ子さんはむっと頬をふくらませ、悔しそうに紅茶をひと口すする。
――でも、どこか嬉しそうだ。
(……この会社、本当に変われるかもしれない。)
冷めかけた紅茶を見ながら、そう思った。
紅茶とは裏腹に、胸の中は少し熱いままだった。
第七章につづく・・・
