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『失恋専門のカフェ、あります』|第5章 最後のスイーツ(後編)


それから、私はひとりでカフェに来るようになった。

週に一度、仕事帰りに立ち寄るようなリズムが、自然とできていた。

注文票を手にしても、もう何も書かない。

それでも朔さんは、いつも何かしらのスイーツを用意してくれていた。


ある夜、そんな私に朔さんが尋ねた。

「今日は、なにか“味わいたい記憶”はありますか?」

「……そうですね。たとえば、“これからの自分に向けての味”って、ありますか?」

朔さんはしばらく考えるように目を伏せ、それからゆっくりと頷いた。


「ありますよ。“始まりのためのスイーツ”」


その言葉に、私は小さく笑った。

そしてカウンター越しに手渡されたのは、透明なガラスの器に盛られた、淡いグリーンのパルフェだった。

ピスタチオのムースとホワイトチョコのクレームに、ほんのりとライムのゼストが散らされている。

すくった瞬間に香ったのは、フレッシュな草原のような香りだった。


「……これ、すごく“未来の味”がします」

「過去の余韻を口に残さず、今を軽やかに進めるような味を意識しました」

朔さんのその説明は、どこか詩のようで──私は何でもないような顔をしながら、内心で泣きそうになっていた。


私の中で、あの人の記憶がようやくひとつの“層”になった気がした。

甘くて、苦くて、でももう、痛くない。


ある日、カウンターの隅に座っていた千早さんが、そっと封筒を私に見せてくれた。

「この間言ってた手紙、書いたの。……投函はしなかったけどね」

「……読んでも?」

「もちろん」


そこに綴られていたのは、「ありがとう」から始まり、「さようなら」で終わる、ごく短い文章だった。

その中には怒りも、恨みもなかった。

ただ、やさしい手触りの感情だけが、丁寧に重ねられていた。


「……いい手紙ですね」

「そう? 自分でも、こんな穏やかに“さようなら”を書けるとは思わなかった」

千早さんはそう言って、少し照れたように笑った。


「私も、書いてみようかな……手紙じゃなくて、未来へのメモみたいなもの」

「いいね。お互いに、“記憶の整理”ってことで」

ふたりで笑ったあと、しばらく沈黙が流れた。

けれどその沈黙は、なにも不安にさせるものではなかった。

すでに、言葉が必要ない時間が流れていた。


夜が更け、カフェの照明が少しだけ暗くなったころ。

朔さんが、ふたりにそっと伝えた。

「……実はね、カフェの名前を変えようかと思ってるんです」

「え?」

「えっ?」

私と千早さんが、同時に反応した。


「“失恋カフェ”って名前も、悪くはないけど──そろそろ“別れ”より、“始まり”に近い名前があってもいいかなって」

「それ、すてきです」

私は思わず、そう口にしていた。


「新しい名前、もう決めてるんですか?」

千早さんの問いに、朔さんは少しだけ口元を緩めた。

「“記憶とスイーツ”。どうでしょう?」


少しだけ驚いて、でもそれ以上に、胸の奥があたたかくなるのを感じた。

「……なんだか、ここにぴったりですね」

「ええ。“終わりの場所”じゃなく、“変わっていく場所”という感じがします」


そう言った千早さんの言葉に、朔さんは満足げに微笑んだ。


その夜。

私は家に帰って、便せんを一枚取り出した。

何も書かずにいた注文票のかわりに──今の気持ちを、未来の自分へ送ってみたかったから。


「いつか、“忘れたい名前”じゃなく、“伝えたい名前”を書く日が来ますように」

そう書いて、そっと封を閉じた。


そして、また明日もきっと、あのカフェの灯りは、誰かの心を照らし続けるのだろう。

静かに。

やさしく。

そして、確かに。


(第5章 おわり)


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