”注意のカーソル”が合うとき
次女は学校と家族以外のコミュニティでは発言をしない。
挨拶もしない。何を聞かれても無言である。2年間通っている習い事でもだ。
「挨拶は必要だと気づいたときにできるようになるから、今はこのままで良いと思っています」
わたしがそう言うと
「挨拶しなさい」と注意しない寛容な親だと思われた。
でも寛容ではない。次女と”注意のカーソル”が一致しているだけだ。
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わたしは小学校を卒業するまで、同じマンションに住む同級生の母親に挨拶ができなくて、姿を見たら逃げていた。
同級生の母親は、元気よく挨拶を返してもらおうとする気迫があった。
ある日わたしの母に「挨拶しなかったって言ってたよ」と言われた。
それから毎日、姿が見えなくても、マンションの入り口からうちまで走って帰った。
内気なわたしが「挨拶すること」が何ともないことだと気づいたのは、小学校卒業間近。謝恩会の”終わりの言葉”代表になったときだった。
舞台に出て一人、センターマイクで”終わりの言葉”を言う。
もちろん代表になりたかったわけではない。
想像もつかない大役だ。絶対に無理。
先生とクラス全員でじゃんけんをして、勝った人から座っていき、最後の一人になったのだ。
じゃんけんに勝ちたいあまり、次は先生何を出すだろうということに集中しすぎたのが敗因だった。
「ずっとグー出せば、ぜったい3回目か4回目には勝つぜ」
決まったあとに、クラスの誰かが言った通り、じゃんけんは7回ぐらい繰り返されたので、どれか一つに集中したら勝てた。
当日は、スポットライトを浴びていたからだったのか、逆光で、百数十人いる父母の顔は全く見えなかった。
なんだ。簡単じゃん。
会場から拍手が聞こえたとき、そう思った。
そのあと入学した中学校では、クラスでいちばん面白い人(女子の部)で1位となって卒業した。
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今振り返ってみれば、うちの母も「挨拶しなさい」とは言わなかった。わたしの内気さ加減に諦めていただけっぽいが、それに救われた。
「挨拶ぐらい、自分で気づいた時にどうにかするよ」
というのは寛容ではなく、経験に基づいている。
わたしの”注意のカーソル”が、次女と一致しただけのこと。
どちらかといえば 短気。
ああ、誰か寛容な人が 寛容を分けてくれないかな。
「編集」によってピックアップされる情報がガラリと変わる。
=注意のカーソルを動かす
わたしたちは編集された世界で生きている。
事実を思考の中に模写するとき、私たちは決して事実をそのまま模写するようなことはなく、私たちにとって重要な側面だけを模写する
※余談:
ChatGPTにこの記事に合う画像を出してもらいました。

わたし「イラストタッチでお願いします」


わたし「いい感じです!もう1枚お願いします」

今日のGPT リュックの肩紐おろそかにしがち。
