恭仁のみやこ探訪 京都・木津川
浄瑠璃寺からコミュニティバスで、ふたたび加茂の盆地へ。乗り物酔いになりかけたところで命からがら下車、レンタサイクルにスイッチした。酔い覚ましには好適な移動手段である。
意気揚々と風を切って木津川を越え、恭仁宮(くにきゅう/くにのみや)の跡へ。

奈良時代の都は、平城京だけではない。奈良から離れた場所に、都が併存していた時期があった。
恭仁宮(京都府木津川市)、次いで難波宮(大阪府大阪市)、さらには紫香楽宮(滋賀県甲賀市)に都城が築かれたのち、都はふたたび平城京へ——これらはすべて、わずか5年のあいだに起こった出来事。
暴挙ともとれる流転は、聖武天皇によってなされた。その理由には諸説あって、決着をみていない。
※紫香楽宮跡の記事 ↓
昨年12月、恭仁宮跡は国の特別史跡の指定を受ける見込みとなった。「史跡の国宝」といえる位置づけで、宮都の跡としては平城京、藤原京に次いで3例めの指定となる。
教科書でおなじみの墾田永年私財法、国分寺建立の詔は、恭仁宮で発布された。
まさにその現場となった、都の中枢のなかの中枢・大極殿の跡が、恭仁小学校の裏手に残っている。周囲よりも一段高く土盛りされた、長方形の区画。これを基壇として、大極殿が建っていたのだ。


『続日本紀』によると、恭仁宮の大極殿は、平城宮の大極殿を移築したものだった。この記述は、発掘調査によって裏づけられている。
現在、平城宮の大極殿跡の上には、平成22年(2010)竣工の大極殿(第一次大極殿)が立っている。この復原は、恭仁宮の大極殿跡での詳細な調査・測量がもとになっているという。
移築されたことが、後世になって、まさかこのようなかたちで役立てられようとは……巡り合わせとは、おもしろいものである。

天平17年(745)、都は紫香楽宮を経て、ふたたび平城京へと還った。
このとき平城京では、もとの場所に大極殿が築かれたり、恭仁宮から大極殿が再度移築されなおされたりといったことはなく、東南にややずれた別の位置に、新たな大極殿が築かれた(第二次大極殿)。


恭仁宮に取り残された旧大極殿は、山城国分寺の金堂として転用されることとなった。
こうして「平城宮大極殿→恭仁宮大極殿→山城国分寺金堂」という変遷をたどった巨大建築は、平安時代・元慶6年(882)に焼失している。
恭仁宮の大極殿跡のすぐ近くに、大きな石材が15基も密集した場所がある。
恭仁宮の廃都後、山城国分寺の伽藍として一帯が再整備された際に築かれた、七重塔の礎石である。



七重塔の礎石は摩耗が少なく、きわめて良好な状態で残存している。惜しくも2基は失われてしまったようだが、それでも、古代の大規模な礎石群がこれだけ並んでいるのは壮観だ。
周辺は、とてものどかな農村風景。
遠い昔に、わが国の中心地——現在でいう、東京の皇居や霞が関あたりだったとは思えないほど、静かな場所である。

恭仁宮の昔を偲ぶよすがは、地上で目に見えるものとしてはこれくらいしか残っていないけれど、発掘調査は100次を超えて、なお継続中。内裏が2つある特異な構造で、平城宮の3分の1の規模だったこと、正月の儀礼がおこなわれた形跡などがわかっている。
これから、どんな発見があるだろうか。特別史跡となり、活用法も問われる恭仁宮跡の今後に期待である。

※近隣には「くにのみや学習館」という公民館があり、その1室がささやかな資料室になっている。こちらで、恭仁宮や山城国分寺について学習できた。
