漏刻博士の都のこと 第1話 鐘楼守③
第1話あらすじ
八坂神社の長男・融のアパートに住み着き始めた主人公。融の留守中、町に思いを馳せながら部屋のビールを勝手に飲んでいたら、虎のような猫が鍵を配達しに来た。この鍵は一体? 猫の思惑は?
漏刻博士の都のこと 第1話 鐘楼守③
ここではたと気づく。
この館は、昔むかし、時の鐘をついていた頃に仕えていた漏刻博士の方のものだ。
この館にピアノはなかった。模様の変わる猫もいなかった。
それらと出会ったのは、この町に来てからの話で、背の高いあの紳士、翼の生えた漏刻博士の館の方だ。
だがちょうどいい。この思い出の方にこそ飛び込みたかったのだ。確かに自分の記憶のはずだが、そして思い出したくてたまらなかったのだが、いつも入口ではじかれていたこの甘美な空間。
ここでわたしはあの美神に出会ったのだった。
「中将ではないか、どうした、戻ってきたのか」
声。顔を上げるとどうしたことか、翼の生えた紳士が泉殿への渡殿に立っている。
翼の漏刻博士だ。
どういうことだ。声も出せずにいると、翼の漏刻博士はすべるように近づいてきた。
光のカゴの中に彼も入った。
「急にいなくなったから、心配していたぞ」
「ここは、あなたの館か」
「そうだが」
「この泉殿は、前に仕えていた漏刻博士の館にあったものにそっくりだ…」
「それはそうだろう。中将が教えてくれた通りに作ったのだから」
「わたしが」
「そう、巨大な船で空からやってきた美しい女神と出会ったという、泉殿だ。あなたから聞いた泉殿をここに再現するために、四季がひとまわりした。この夏の初めにようやく完成したので、ここで祝いの宴をしたではないか…
やはり、いろいろと忘れてしまうのだな。神を殺したものは、心が壊れる」
あ。
「なんだ神殺しの中将ではないか」
もうひとつ声が飛んできて、泉殿に足音高くやってきた黒い衣の男は、白い猫を胸に抱いている。
「中将が飛び出していった風で、楽器がいくつもこの池に落ちてダメになってしまったんだぞ。僕は怒っているんだぞ」
骨ばった顔と紅い唇がそのまま近づいてきて、漏刻博士と並んで立った。背丈は漏刻博士の半分ほどしかない。篝火の中、その腕の中でも白く光る猫がこちらを向いた。男も猫も、瞳が水色だ。螺鈿と反射光の罠の中、強く光る水色。
その猫の瞳を見ているうちに、ひとつ思い出した。
「その猫は、音楽で模様が変わる猫だね」
「なんだ、覚えているじゃないか。漏刻博士よ、神殺しは心が壊れて、記憶がまだらになり、砂漠に一本立つ枯れかけの木のように哀れなものだと聞いたぞ」
神殺し。
「わたしは、神殺しなのか」
尋ねると、漏刻博士の方が息を細くついた。笑ったようだ。
「そうだな。そう言われている」
「…思い出せない」
本当は記憶の断片が体の周りに浮遊し始めていた。
いつの頃か呼ばれ始めた中将というあだ名が呼び水となって。
思い出したくない。
「思い出したくないのなら、そのままでもいいが」
心を読んだような漏刻博士のかすれた声。そのまま向かい合わせに腰を下ろして、彼も本格的に光のカゴの中に捕らわれた鳥となる。背中の大きな翼の反射が複雑にきらめく。
そして少し顔を寄せると、
「神殺しはめずらしいことではない」
ささやいた後は振り返り、黒衣の男と猫に告げた。
「宴の続きを」
その声が水紋となって。
広い館に広がって、消えた、と思った数秒後、泉殿にははや百人ほどの客があふれていた。
光と声と音楽と。
近くには直衣姿の三人がいる。橙色の顔をつきあわせて、それぞれ琵琶を抱いて指使いを練習している。
その背合わせに、女ものの衣をかぶったものたちが輪になり、細い脚を高く上げて踊っており、それを見つめて静かに頷いているのは、亀のようなふたりの老人。
広い泉殿をぐるり見渡すと、先ほどの猫男のような黒衣のものたちがあちこちにいて、手に手に見慣れない楽器らしきものを持っているのだが、音がぐるぐるに廻って、その楽器からどの音が鳴っているのか、わからない。
嬌声に眼をやると、欄干の上で軽業師が宙返りを繰り返している。豪奢な錦の衣装に赤い長髪。少し離れた場所に毛氈を敷いて体をゆすり、指を刺し、嬌声を上げているのは、一人の幼女と周りを囲む女房たちだった。皆、指や首が幼虫のように膨れ上がっている。
喧噪の中、風が一陣吹いてきて、宴の席が左右に分かれたと見ると、ピアノが引き出されてきて、すぐ近くに設置された。小さい鮫ほどのピアノだ。
白猫を抱いた黒衣の男がいつの間にかピアノの前に座っている。
「中将はピアノが気に入ったと見える。泉にピアノを蹴落とさないでおくれよ」
猫男は右肩に白猫の前足をひっかけるようにして、背中全体にかぶさるように乗せると、もう一度座り直し、鍵盤を弾き始めた。
そうだ、この猫だった。
真っ白だと見えた猫は横腹にうす茶色の縞があり、それが音に合わせて動きはじめている。
宴の喧噪は巻いていて、すぐ近くにあるはずのピアノの音もすんなりは聞こえてこないのだが、猫の毛並みの動きで音の流れが知れた。ゆるやかな、明るい、悲しい。
「飲むか」
漏刻博士が杯を手渡してきて、右手で受け取ろうとするが、受け取れなかった。
「何を握りしめているのだ」
漏刻博士の節高い長い指がわたしの手首を握り、もう一方の手で指を開かれる。
私の指も漏刻博士の指も、中に握りこまれた鍵も、光の網の中だ。
「どこの鍵だ」
錆びた古い鍵の姿だった。
これは。
これは鐘楼の鍵です。
あの女神は地上でわたしと暮らしているうちにみるみる弱っていったのです。
でもその間わたしも女神も確かに幸せだった。
女神の魂が透明になり消えていく前に時を止めてしまいたかった。
だから鐘楼に鍵をかけ、
鐘をついて時を進めるのをやめた。
わたし以外の時守たちが中に入れないようにしたのです。
しかし女神は十日目にほとんど死んでしまった。
そしてわたしはそのしぼんだ魂とこの鍵を持ってあの都を出奔し、遠く離れた海の中に浮かぶ小島にたどりつきました。
船で気まぐれに海を渡りたどりついた小島でしばらく暮らしていましたが、百年ほどたったある夜、月は半分でしたがとても明るい夜、海に映った月の中に、なるべく高い崖から女神の魂だったものと鍵を抱いて飛び込みました。
しかしやはりわたしひとりが残されてしまった。
かなしいもさみしいも愛しいも苦しいも憎いも痛いもなにもかももう分からなくなってしまって、
ただここにいるのです。
「なるほど」
漏刻博士の声で眼を上げる。わたしは何か言ったのか。
漏刻博士はまだわたしの手首をつかんでいた。その手が氷のように冷たいのに今更ながら気づく。
ピアノの和音が振り向かせた。猫男と白猫が、そろってこちらに水色の眼を向けている。猫男は鍵盤を一瞥することなく指を鮮やかに躍らせていて、白猫の横腹の模様は今は雪の結晶の柄を展開していた。
「なるほど」
少年の声。
一転。
ここはひるまの中で、あの部屋の中だった。
漏刻博士の館から逃げた後に見つけた、元は海中の孤島だった山に立つ建物。
わたしの手首を握っているのは白く細い薄い手のひらで、その持ち主は、ひざ詰めで正座している長い黒髪の…
思わず手を引こうとするが黒髪の力は強かった。体温も高い。やけどしそうに熱い。
鍵が手のひらに食い込み、おもわず指をほどくと、手の中にある鍵は最初に猫が運んできた小さな銀色の鍵に戻っていた。
そういえば猫は、と見るとすぐ隣で香箱を組んでこちらを見上げている。
「あなたをつかまえる」
少年の声の持ち主の女が告げたその時、部屋の入口に鍵が刺しこまれた音が響いた。
座っている位置から見渡せるドアが、ふたりが見つめる中解錠され勢いよく開く。
風と共に入ってきたのは、見知らぬ若い男だった。いや、見たことがあるか。
こちらを見、部屋を見回すと、明るい茶色の瞳が大きくなり
「あっ、お前、中将だな。なんでここにいるんだ。あああ、俺のビール飲みやがって」
大声でまくしたてたのに黒髪の力が一瞬抜けた。
その隙に黒髪の体を蹴倒して手から逃れた。
どこだ、どこに逃げる。
「信じらんない、もうすこしで中将捕まえられたのに。バカなの、急に入ってくるなんて」
「知らんわ。あっ俺のビール全部飲みやがったか」
驚いた虎猫が飛び上がり、走り出した。その後を追いかける。部屋中に転がっていた空き缶が散らばり、明るい音を立てる。
「知らんわじゃないよ、中将の懸賞金は高いのよ。町ひとつ、時間が止まってるところを解除するんだから」
「そんなん、知っとるわ」
虎猫は西側の猫ドアに向かっている。わたしも追いかける。体を一気に縮小し、猫と一緒に猫ドアが閉まる前に隣の部屋に滑り込み、猫の背中に飛びついた。
飛び込んだ部屋には薄暗く、がらんと広かった。そして、人間がいた。
猫の銀色の毛にしがみついたまま身をすくめると、虎猫が語りかけてきた。
「大丈夫、ハルミはあんたをつかまえない」
その言葉が聞こえたように、ハルミなる顔の青白い男はそれまで座っていた椅子から立ち上がり、窓際まで歩くと、大きく窓を開けた。この部屋の窓はそのまま広いベランダにつながっている。男は片手に筆を持っていた。猫の背中にいるわたしと確かに眼が合ったが、何も言わずにそのまま椅子に戻っていった。
「ほらね。ハルミはやさしいからね」
猫はそこからベランダの窓枠に飛び上がり、今度はくるりと向きを変え、そのまま雨どいに付けられている足場を使ってよじ登り、屋根へと飛び上がった。片勾配の屋根だ。風がつよく、緑と太陽のにおいがする。さらに身を縮め、ギルに虫のようにしがみついてからあたりを見回してみると、風で山々の葉が裏返って白く光っているのが見えた。そして階下から声が聞こえる。
「ハルミ、中将見たかい」
「中将は風に乗って逃げたよ。なに、ビール飲まれちゃったのか」
「二箱分全部。冷やしてなかった分も全部飲まれた」
「中将捕まえられたら、ビールなんて一年中飲みきれないほど買えたんだよ」
「中将は捕まえられないよ。ギルだってかばってたし、やめておけよ」
階下からの声を聞きながら、ギルは悠々と屋根を横断し、寄り添うように生えているニセアカシアの木に飛び移った。
夏の直射日光から逃れた格好で、昼の町並みを見渡す。
「あのさんにんは、きょうだいなんだよ」とギルが教えてくれる。
わたしはちょっと前から笑いが止まらなくなっている。
少し涙も出て、よく見えない眼で、漏刻博士の館はどこにあるのかな、などと見渡してみたりもする。
ふと見ると、ギルの背中に銀色の鍵が乗っていた。握りしめていた鍵が跳ねたのを、器用に一緒に運んでくれたのか。
「これはにせもの。あんたをつかまえるための」
「やはりそうか」
つぶやきながら鍵を蹴落とす。屋根から地面に落ちる寸前、低空飛行してきた鳥がくわえて、そのまま飛び去った。輝く翡翠の羽根。黒曜石の眼。カワセミか。
そのままあの都へ飛んで行って、鐘楼の鍵を開けてくれてもいいのに、と長い滑空を見やる。
夏の中、カワセミが飛んでいく。
つづく
