漏刻博士の都のこと 第1話 鐘楼守②
第1話 あらすじ
八坂神社の長男・融のアパートに住み着き始めた主人公。融の留守中、町に思いを馳せながら部屋のビールを勝手に飲んでいたら、虎のような猫が鍵を配達しに来た。この鍵は一体? 猫の思惑は?
漏刻博士の都のこと 第1話 鐘楼守②
鍵の処分は案外すんなりと思いついた。元の持ち主に戻せばいいのだ。
この部屋に西の壁から現れた猫は、元々鍵など持ってなかった。次に東の部屋から再び現れてこの部屋で香箱を組んだそのあと、腹の下に鍵が残っていた。つまり鍵は猫が東の部屋から持ってきたのだと思われる。
新しい缶ビールを開けながら、鍵を観察する。よくある形状の鍵だ。部屋の鍵だろうか。頭に空いた楕円の穴に細い環が通されているので、猫はそこをくわえて遊んでいて、この部屋に運んだのだろうか。なかなか器用である。
缶ビールを置き、東の壁の猫ドアににじりよる。あの虎猫は大きいので猫ドアも大きい。狸や狐やキジやらも通り抜けられそうだ。
そっと猫ドアを押してみる。あちら側にすんなり動いて、なんと物音が聞こえた。これまで猫が通り抜けたとき、光も漏れず音も聞こえてこなかったのに、今は壁の向こうの光が床に流れてきて、なにやら小さく声も聞こえる。もっとかがめばあちらの部屋の中ものぞけそうだが、こっちも見られるかもしれない。
少々慌てて、明るい月の闇のなかで息を止め、そっと鍵をあちらの部屋にすべりこませる。そして指を猫ドアから静かに離した。
予想ではあちらの壁面にもこちらと同じく作り付けの棚があって、その一番下の段に今こちらから返した鍵がぽつんとあるのに違いない。あちらの部屋の住人は猫がそこで口から離したせいだと思ってくれるに違いない。
やれやれだ。酒を飲みながらの月光浴に戻る。
猫ドアからは気づけばすこし両隣の部屋の光が漏れ出ている。これまでは留守で、両隣ともにご帰宅か。
鍵は無事返したが、また猫が来てくれたら嬉しい。今度はあの月光に照らされた雪山のようなぼわぼわした毛をなでさせてもらおう、などと考えもする。猫とは鐘楼守をしていたころから気が合ったものだ。
しかし、鍵はまたすぐに戻ってきた。
翌朝のことだった。
翌朝、蝉の声で目覚めたら、すでに日が高く昇っていた。
久しぶりの酒のせいか夜明けにも朝が進むのにも気付かず、しかも夢も見ずに眠ったようで、それらに少々罪悪感を覚えていると、また西側の壁からあの猫がぬっと部屋に入ってきた。
その時はすっかり鍵のことなど忘れていて、こちらを一瞥もせずに部屋を悠々と横切る猫の太い足の、逆光になった縞の数などを数えていた。猫はそのまま東の壁に到着し、速度を変えずにそのまま隣の部屋へと消えていく。
今回は寝起きのぼんやりもあって、そのまま猫が消えた壁を見つめていたのだが、程なくしてまた猫ドアが浮かび上がり、猫の頭が現れた。
ちょっと背中などなでたくなり、そっと起き上がる。猫はこちらに気付いたようだが正面からこちらを見ることはせず、そのままゆったりと歩き、窓から差し込んで床に出来ているひなたの部分で足を止めた。そのままうずくまり、香箱を組む。
こちらは影でうずくまって眠っていたので、ひなたへ向かって腹ばいににじりよると、猫はこちらを無表情に一瞥し、ふいと立ち上がった。
ちょっと嫌な予感はしたのだ。
そして、猫が立ち上がった、その腹の下に鍵が。
「おい、ねこ、鍵だぞ」と慌てて声を掛けたが、虎猫は一切頓着せず、そのまま歩き出し、西の壁へとするすると吸い込まれてしまった。
それをなすすべもなく見送ってから、床の鍵を拾う。日の光か猫の体温か、温められた鍵は二度目のせいかしっくり手のひらになじんだ。
こうしてまた鍵を配達されたのだった。
配達。そう、配達しているのかもしれない。
鍵は虎猫のいたずらでこの部屋に持ってこられたと思っていたが、二度まできれいに置かれると、あの猫は鍵を配達しているのかもしれない。そこで気になるのが配達先で、この部屋がそうだとは思えない。そして気になるのは猫の鍵の運搬方法だ。どうやって運んだのだろう。リングの部分をくわえて遊んでいるうちに、いたずら心が起きてこの部屋に運ぶのだろうと想像していたが、東の部屋から帰ってきたときにそんなものは口元にはなかった。いや、もしかして口の中に含んでいたのか、それか腹の皮に隠していたとか。
そんなことより、配達だ。この部屋に配達する意味はないので、途中でうっかり落としたのではないかと考える方が合点がゆく。
こちらは東の部屋の住人を元の持ち主だと考えていたが、口の中や腹の皮にしこんでいたのだとすると、もしかしてこの部屋に現れたときにはあの猫は既に鍵を持っていたということも考えられる。となると、西の住人が元の持ち主やもしれぬ。あの猫は西の住人から東の住人へ鍵を配達していたのかもしれない。又は最初の見立て通り東の部屋の住人が元の持ち主で、散策にいつもやってくる猫に託して西の部屋の住人に鍵を配達させているのかも。
しかしそもそもなぜ猫に鍵を配達させるのか。鍵を渡したかったら、その部屋のドアに作り付けられている蓋つきボックスに、部屋の外の差込口から鍵を落とせばいいのだ。それに猫が配達業務が得意とも熱心とも思えない。その証拠にこうやってこの部屋に二回も落とし物と相成ったわけだし。
さて、とりあえず、今回はどうするか。
鍵を手に、左右の壁を見る。東か西か。いや、いっそ。
「いっそこの窓から投げ捨てるか」
「それはだめ」
いきなり、涼やかな声が響いた。
思わず鍵を握りしめて身をすくめる。息を止めて、そろそろとあたりを見回すと、東の壁、猫ドアが開いていて、白い指がひらひらと動いていた。
「捨てないで。その鍵は大事なものなの」
片方の手首から先がずい、とこちらの空間に現れた。白く細く薄い手だった。声は聡明な少年のようだが、その手は花弁の細い白い花が風に遊ぶように華やかだった。
「…すぐに返します…」
と、当然当方は申し出たが、
「それはわたしのものではないの」いう返答だ。白い手のひらが、違う違う、という風に横に振られた。
「…それならわたしがこの鍵を捨てようがどうしようが、あなたには関係ないのでは」
声は小さくなったが、言い返してみる。だが相手には聞こえたようで、
「わたしのものではないけれど、あずかったものだし、関係がないわけではないの。なにより、それをあなたに渡すように言われたのよ」
「この鍵を」
「その鍵を、よ」
一体誰にだろう。まずこの鍵に見覚えがないのだが、と手元に眼を落とすと、鍵の形が変わっている。錆びだらけの大きな鍵だ。これは鐘楼の鍵だ。鐘楼の頑丈な扉、重い錠の穴にはめ込んで開ける、あの晩、錠を扉にはめ込んで開かないように細工し、そのまま旅に出て、鍵と一緒に海に飛び込んだ…
急に刺すような頭痛がする。
白い片手の主が、少年の声で何やら続けているが聞き取れない。
何かこちらから矢を射らねば、と思い、口に勝手に話をさせる。
「それにしても、あの猫が鍵を運んできたのに、驚きました。猫ドアですべての部屋がつながっているのですか。面白いつくりですね」
「面白いでしょ」
そっけない語調に、そうだこの言いようではこの部屋の住人ではないことが語るに落ちることとなるではないか、と思うが、今更どうしようもない。話を続けることにする。
「ドアでつながっているのに、ものすごく静かで、それにも驚きました。なにか壁の中に工夫があるのでしょうか」
「静かかしら。ピアノの音がそちらに響いてうるさくしてないか心配してたんだけど」
「ピアノ」
「そうよ、さっきも弾いてたでしょ」
ピアノは知っている。漏刻博士の館の楽殿でいくつも見た。鯨のような姿の楽器だ。
そう思えば、今は両隣が騒がしい。人が動いている音もする。それに水の音、風の音、足音、何かなでるような音。ここにはこんなに音があふれていたのか。
ならばピアノの音は是非聞きたかったと思う…そういえば。
「名前はなんというのですか」
白い片手首の声の主にまだ名を聞いてなかった。と思うと同時に自分も名乗っていなかったことに思い至る。慌てて名乗ろうとしたが、返事が先にあった。
「ギル」
その時、西の猫ドアから銀の虎猫がちいさく鳴いて再び登場したので、それは猫の名前だと知る。
「ギルはピアノが大好きで。曲に合わせて体の模様が少し変わるんですよ」
などという白い手の持ち主が壁の向こうでちいさく笑った声も、今は聞こえた。
虎猫が部屋の中央で立ち止まる。耳が器用に動いて、隣の部屋からピアノの音が聞こえてくる。猫の模様がぐるんと動き始める。
思い出したが、音楽で模様の変わる猫には、あの漏刻博士の館でも出会ったことがあった。湖に潜水するように、意識がその情景へと。
宴に倦んで、夜の中ひとり、皆から離れた場所で少し休もうと、漏刻博士の館を歩く眼の中、に飛び込む。
そうだあの時だ。あの夜、星はあったが月はなかった。夏の虫が鳴く中、漏刻博士の館を歩いているうちに誰もいない泉殿にたどり着いたので、そのままそこでうたたねをすることにしたのだった。
庭の池の中に、高床式で建てられた広い泉殿は、方形の床の縁と多数の柱、四隅にかかる半球の屋根の内側にびっしりと螺鈿が施されてあった。壁面がないため、篝火や灯篭の炎の照り返しがゆらぎ、それが水面にはねかえってさらに揺らぎ、泉殿自体が巨大な光のカゴのよう。
遠く宴の泉殿の柱に背をあずけていると、その光のカゴにとらわれたたった一匹の鳥のような気分になった。
そのまま眼を閉じる。遠く宴の音が聞こえてくる。もうすぐここにあの舩が来る。
つづく
